第2話



 ガキィィィン!


 剣先が修練用の木の幹に決まる。

 陸遜りくそんの栗色の髪が眼元に掛かった。

 数秒の沈黙の後、拍手が響く。


「お見事です、伯言はくげんさま!」


 陸遜の双剣の型を見守っていた司馬孚しばふが、感動したように目を輝かせている。


「伯言様は何でも器用にこなしてしまわれるたちですが、まさか剣の才までおありだとは!

 驚きました!」


 八人いるという司馬家の男兄弟の中で一番気性穏やかで邪気が無いと、司馬懿しばいは彼のことを話す。

 駆け寄って来て、布を差し出して来てくれた。

 ありがとう、と言って受け取る。


「司馬家の剣術はもうすっかり覚えてしまわれたようですね」


 陸遜は今、司馬家の剣術を教わっている。

 それを彼自身が望んだのだ。

 陸遜の剣は陸家の剣術を許にしているが、我流も存分に混じっている。


 それでも剣には生まれ育った背景が現われるものなのだ。


 陸遜は江東こうとうの地で育った過去を捨て、ここで別の生を生きて行こうとしている。

 それならば今までの剣技も捨てるべきだと思ったのだ。

 だから一から司馬家の剣技を教えてもらっている。


 司馬懿しばいは「愚かな考え」と嘲笑していた。


『お前ほど人を斬っていれば、剣は染みついた本能だ。いかに飾り整えようとしたところで、命の奪い合いをしていれば咄嗟に出るのは本能に近い動き』


 言っていることは理解出来るが、それでも剣を変えるつもりだと言うと彼は鼻で笑った。


『まあいい。好きにやってみろ。お前が無駄な足掻きをしているのを眺めてみるのも一興だ』


 司馬孚しばふは剣は得意ではないらしかったが、知識としては会得しているということだったので彼に教わった。

 司馬孚は陸遜りくそんの上達の速さに驚いたようだ。

 最初はこんな優し気で綺麗なひとに剣を教える必要性があるのだろうかと戸惑い気味だったが、明らかに陸遜は基礎的な剣の扱いに慣れているのが彼にも分かって、それならばという話になったのである。


「私自身は、本当に剣の方は才能がないのですが」


 そう言いながらも彼は丁寧に教えてくれた。

 陸遜は彼の言った意味が分かる。

 司馬孚の剣は綺麗だった。

 額面通りに受け止めれば、全く剣が出来ないというのは謙遜だろうと思うほど、美しい見本通りの剣を使った。

 だが剣を生業にしていける力はないのだ。


(……よく分かる)


 剣を扱えることと、戦場で役に立つ剣を使えるかどうかはまた全く別の問題なのである。


 少し休憩にしましょうと司馬孚は茶の用意をするためにその場を離れた。


 陸遜は一応司馬懿の侍従の一人ということにされているが、許都きょとの王宮の修練場には色々な人間が集まるので、素性などを探られると面倒事になるということで、司馬懿の部屋のある側に、急遽修練場を設えたのだ。

 そこは小さな庭だったが中央にあった池を板で塞いで、広くした。

 そしていつでも陸遜が修練出来るようにしたのである。


 陸遜は司馬懿が「これを使え」と剣を与えてくれた日から、朝と夜に二時間ほどは必ず、そして剣を振りたい時にここに来て剣の修練をするようになった。

 弓も撃てるので、その練習をすることもある。

 一つ息をついて、司馬孚が戻って来るまで通路の屋根のある段差に腰掛け、宮殿から見下ろす許都の街の方に視線をやる。


 最初は慣れない景色だったのだが、さすがに毎日見下ろしていれば、慣れて来た。


 どこにも水の気配を感じた建業けんぎょうの都とは違う。

 石造りの巨大な都市。


 双剣を側に置く。


 ――剣を見れば、人が分かる。


 確かに分かる表現だと思う。

 孫策そんさくや周瑜も、剣に人柄が出ていた。


 孫策の剣は一目で、遠目に例え見ても才能ある者の剣なのだということが分かる。

 覇気に満ち、迷いがない。

 誰よりも死線の近くにいるというのに、あの人はきっと生きて戻るだろうと何故か思わせるのだ。

 人を殺すだけではなく自らが切り拓き、生きて戻る力を秘めている。


 戦場で一番強いのは、そういう剣を操る者だ。


 周瑜しゅうゆの剣は隙が全くなく、冷静だが、振るった瞬間の苛烈さは孫策にも劣らないものがあった。


『武官なのだ。あの方は』


 呂蒙りょもうが周瑜を、そう言ったことがある。


 陸遜も最初の頃は孫呉の内政にも影響を及ぼし、数多の文官を統率する周瑜を、戦術家と見ていたが、共に戦場に立つようになってからは、彼は生粋の武官なのだということを実感するようになった。

 

 その呂蒙は、自ら「俺は剣の才はない」と言って人一倍修練をこなす努力家だ。


 陸遜は呂蒙の剣も、槍も、十分将官としての実力にあると思っている。

 要するに、彼はそれを才ではなく努力で手に入れた。


(だが……)


 風を切り裂き喉元に襲い掛かって来る、白金しろがねの一撃。

 陸遜が以前所有していた名刀を一撃で叩き折った。


 ――――趙子龍ちょうしりゅう


(あれが才能ある者の槍の一撃なのだ)              


 陸遜は呂子明りょしめいを尊敬していたが、それとは全く切り離した心で多分、戦場で趙雲ちょううんと呂蒙がぶつかった時には万が一にも勝ち目はないだろうと考えた。

 趙雲というのは、それほどの相手なのだ。

 大きな使命を背負った人間を挫けさせ、必ず生きて戻ろうとする者達の帰路を断つ。


 そういえば剣が折れた時、側に淩公績りょうこうせきがいた。


 それまで彼は生真面目な努力家という印象だったが、あの時は見事に趙雲と打ち合っていた。彼の剣はまた少し、他の人間と違う感じが陸遜にはした。


(あの人は自分の力を普段は全て、出し切っていない気がする)


 元々体格にも恵まれているし、修練を欠かさない生真面目さもある。

 淩統りょうとうは自分を努力の人間だと思っていて、才能ある者には敵わないと考えているようだ。

 彼と話した時、孫策や周瑜の話をしていて「どんなに努力してもあの人達には敵わない」というようなことを言っていたのをよく覚えている。


 だが実際に才ある敵と激突した時に、容易く押し負けない、そういうところが彼にはあった。


 自分では気づいていないのだ。

 想いに呼応する、輝き難い自分の才能を。


 淩統は謙遜するが陸遜の見た所、この先呉軍の中核を担っていくべきはこの男ではないかと思うのが実は淩公績という男だった。

彼の場合亡くなった父親も孫堅そんけんの代からの忠臣である為期待もされているし、彼自身新兵などの面倒もよく見る性格をしているから、人望があった。


 軍の中核を担っていくべき……。


 珍しい黒燿こくようの曲刀を抜き放ち駆けて行く後ろ姿。


 あまり思い出さないようにと目を閉じた。


 色んな強敵と戦った。

 才能ある者もそれなりに見て来た。


 ……だが何度考え直しても想いを馳せても、陸遜がこの世で最もたると確信する武の才能を持っているのは甘寧かんねいだった。


 惚れた贔屓目というわけではないと思う。

 焦がれる前から甘寧は甘寧という男だったから。


 恐れが無く、かといって絶対的に無謀なわけでもない。

 経験が戦場での嗅覚を磨き、陸遜が軍師としての視点から、どんな危険な戦線からも生き延びて戻って来ると確信出来る、この世でたった一人の男。


 分かっている。

 それは幻想だ。


 人は命を失う時は失うのだと、

 信じられなくてもそうなる時はそうなるのだと勿論理解しているが、

 甘寧だけはそういう馬鹿な幻想を抱かせる男なのだ。


 甘寧ならば趙子龍ちょうしりゅうとも遣り合えるし、張遼ちょうりょうとも遣り合える。

 陸遜は確信していた。



『船に乗ってた頃、大勢の仲間を死なせた』



 剣の才と、

 努力の才と、

 失う痛みを知っていること。


 確信の根拠は、多分そんなものだ。


 目を開くと新しい剣が目に入った。


 陸遜は知らなかったが【干将莫邪かんしょうばくや】という名剣なのだと司馬孚しばふが教えてくれた。

 優れた剣なのは持った時に分かった。

 どちらかというと陸遜の持つ双剣の一枚、【光華こうか】の方と握った時の感覚が近い。

【干将莫邪】は握った感じの重みが【光華】とは違う。

【光華】は鞘から抜くと驚くほど軽い。

 あまりに軽いので無分別に振るっていると、手応えが無いのだ。

【光華】はどう斬るか、明確に頭に思い描かなければ望む手応えを与えられない。

 

 表現が難しいのだが【光華】は「点」を目指して斬り付ける感じだが、

【干将莫邪】は「線」で感覚を捉える。


 力の伝い方が違うのだ。

 それは感じる重さが違うからなのだと思う。



 刃と柄を繋ぎ固める金属部に、細かい意匠があった。


「【二十八宿にじゅうはっしゅく】ですね」


 陸遜は顔を上げる。

 司馬孚が茶碗を盆に乗せた姿で微笑んでいた。

 彼はやって来て盆を陸遜の座っている段差の側に置き、自分も腰を下ろした。

 二本あるうちの、もう一本を指し示す。


「触ってもよろしいですか?」

「あ……はい。どうぞ」


 陸遜の許可を得てから、司馬孚は丁寧に剣を受け取った。


「雌雄一対の剣と聞きましたが、こちらに雌の孔雀が描かれています。

 噂には聞いていましたが本当に、美術品のように美しい剣ですね」


「何故剣に星を描いたのでしょう?」


「そうですね……二十八宿は、この世界の天輪てんりんを星で表わしたもの。

 きっと『この剣を持つ者は世界の全てを手に入れるという』まじないでしょう。

 元々は王への献上品とされた剣のようですし。

 それに孔雀も古代の王が高貴なその姿を好んだ特別な鳥だと言われています。

 特に雄孔雀の美しさは王族に好まれ、その羽に描かれた無数の蒼い模様を、星にも例えられ【星をまとう鳥】とも謳われたとか。


 星は天の輝き。

 孔雀は地の星の輝き。


 この剣を持つ者には『天上天下てんじょうてんげの全ての光の祝福が与えられる』という意味もあるのかもしれません。

 雌雄一対、夫婦和合も数多の富を生み出すもの。

 完全なる世界の美しさを賛美した、まさにそういう剣なのですね。これは……。

 ……伯言はくげんさま?」


 じっと司馬孚しばふの話を聞き入っていた陸遜が、呼ばれてハッとした。


「いえ……その……、話を聞いて、とても眩しそうだな、と思って……」


 司馬孚が吹き出して、くすくすと笑った。

「そうですね……確かに眩いばかりの剣です」

 自分が笑われるようなことを言ったのだと思い、陸遜は誤魔化すようにもう一度刃を支える支柱の表面に彫られた星を見た。

 その中の一つに、ふと視線が止まる。


「これは、星座を描いているのですか?」


 陸遜は天文学にはあまり知識がない。

 その代わり従弟の陸績りくせきが天文の話が昔から好きだったので、彼からはよく星の話を聞かせてもらっていた。


「はい。そうです。こちらに十四個。そちらに十四個。

 二十八の宿星を分け合っているのです。

 でも面白いことに、鞘はお互いの模様を写しています。

 鞘にも星座の模様があるでしょう。

 ここにも和合させるべき剣と鞘の定めに、完全なる世界を描き出す意図がある。

 本当に、凝った剣です」


 美しさに感嘆したように溜息をつき、司馬孚は頷いた。


「……星座の形とは不思議な形をしているのですね」


 その中の一つ、円のような形をした星座に指で触れる。


「不思議?」

「あ……完全に対称という形が少ない気がして……」


 司馬孚はぱちぱちと瞬きをした。

「そう言われてみるとそうですね……」

 気づかなかったなと興味深そうな顔をしている。


「自然界には、意外と正対称のものが多いと聞きます。

 植物や、虫の中には、人が作り出せないほど正確な寸法で生み出されるものが」


「そうですね。花などは私も、本当に不思議だと思います。

 何故あんなに完全な形で咲けるのでしょうか? しかも何度でも、どこでも。

 不思議だと思います」


「夜、星を見上げると、一面の整った星の海に見えます。

 こんなに複雑な形をしてるとは、知りませんでした」


 司馬孚はふと微笑んだようだ。


「それはきっと……」

「……?」


「星は、自然界が生み出したものですが、星座は人が見い出すものですから。

 人間は不完全な生き物です。一人一人、形も違う。

 人間が見い出す星座も複雑な形をしているのでしょう。

 昔から、人は星に願いを託すとも言います。

 人の願いの複雑さを、星座は体現しているのかもしれませんね」


 陸遜はもう一度手元の星座を見る。


「……。天の時間と、地の時間の経過は違うと聞いたことがあります。

 天文の系譜において――人の宿星を読む学術があるようですが……。

 対になる人間が二人いる時には、不思議なことに容姿や性格や、年齢なども離れていることが多いそうですよ。そういう人間が、対になるのだと」


星詠せいえい術ですね。私はその領分は素人ですが、友人に学者がいるので聞いたことがあります。伯言はくげんさまが星にまで御詳しいとは、知りませんでした」


 陸遜は首を振る。

「私も、星は何も知りません。……――従弟が」

 司馬孚がこちらを見た。


従弟おとうとが、天文学が好きな子で、そういうことをよく聞かせてくれたんです」


「弟君がいらっしゃったのですか……」


 彼は司馬懿しばいから、陸遜りくそんの素性を探るなと厳しく禁じられている為、今までそういうことも、聞き出すことはなかった。

 初めて陸遜が話してくれたので、彼に弟がいたことが分かった。


「はい。実の弟ではないのですが、従弟いとこで。でも実の兄弟のように育って来たんです」

「そうでしたか……」

 もっと陸遜のことが知りたかったが、彼はそれ以上は話さなかった。


 司馬孚は聞かない代わりに、よく自分で陸遜の事情を想像することがある。

 その時一番思うことは、時折感じる陸遜の周囲に漂う悲し気な空気は、彼が誰かを失ったことがある人なのではないかということだった。



「……私とは違う、性格の穏やかな優しい子で」



 ふと、その時陸遜は長い間、自分が陸家のことを長く忘れていたような気がした。

 幼い頃から折り合いが悪く、自分の家だという気もしなかった。

 陸遜が蘇州そしゅうに戻って一番安堵を覚えるのは、陸績りくせきが嬉しそうに「おかえりなさい」と自分を迎えてくれる時だった。


 自分が生きている限りあの家を背負っていかねばとずっと思って来たというのに、この混乱の最中で陸家のことなど忘れてしまっていた。


 だが確かに、この自分の失踪が公になれば陸家としては外聞が悪すぎる。

 

 そして今、魏将の一人である司馬懿の世話になっていることを考えれば、二度と陸家に戻れることはない。


 人間はこうやって一つずつ、不必要なものを忘れて行くのだろうか。


 自分がいなくなった時には陸績が立つと、昔からそれは定められていたことだ。

 それに陸績は本家では愛されていたし、今までも陸遜が建業にいて不在の時は、家のことは陸績がとりまとめていたから、すぐに人々は陸績のもとに団結出来るだろう。

 だから自分が消えたことで、陸家に大きな混乱は起きてはいないと思うが……。


 ふと見ると陸遜が押し黙ったので、司馬孚しばふが少しだけ心配そうな顔でこちらを見ていた。

 それに気づき陸遜は小さく笑った。



「あなたは少し、彼に似ている」



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