花天月地【第16話 萌動】
七海ポルカ
第1話
不意に花の香りが漂って来る。
……集中が削がれてしまった。
頬杖をつき、円型の窓の外を見遣る。
美しい秋の庭がその窓を通して見えた。
人にはみな、匂いがある。
実際に匂っているものや、
衣に焚いた香の匂いもあるが、
司馬懿が思うに実際に匂っていない、そういう匂いもある。
要するに例えば『きな臭い』という、あの感覚である。
なにか不穏な匂いを纏うことがあるのだ。
いずれも司馬懿はその『匂い』を感じ取っている。
いつもするわけではない。
いつもは
だが何かの拍子に不穏な気配を纏う。
司馬懿はあの気配が好きなのだ。
(やはりあれは戦場で変わる)
予想通り程なくして扉が開いた。
呼びもしていないのに花の香りが、目の前に座った。
「ふふ」
水色の
彼女は何も言わず、手を差し出して来た。
「なんだ」
司馬懿はロクに顔も見ず、手元に筆を滑らせている。
「贈り物を頂きに参りましたわ、
「何の話だ」
「やだわ。武器商の娘をあまり侮らないでくださる?」
それだけでおおよそのことは察した。
――現われた女は
父の
仕事に必要だからと私塾にも男たちに交じって勉強をしていた。
その私塾には司馬懿も一時期身を寄せていたので、要するにこの女とは幼い頃からの幼馴染みなのだ。
春華は私塾の中でも特別優秀だった司馬懿に目を付け、すぐに私塾に飽きて通わなくなった司馬懿に、友人だと言いながら昔から懐いて来ている。
この女は司馬懿を大成すると見て側に寄りついているが、司馬懿は男に混じって学ぶような春華は生意気で嫌いだった。
それに頭の回転が速い分、この女は小賢しいところがあるのだ。
勿論、司馬懿は馬鹿な女も大嫌いだったが、何もここまでお喋りになれなどとは思っていない。
「今、私は忙しい。お前と遊んでいる暇はない」
「忙しいのなら墨は私が」
この女の、こういう機転ならばとにかく出しゃばって何でも回して来るところは嫌いだった。五月蝿く感じるのだ。
多分並の男が相手ならば、よく気の付く勿体ない妻にでもなるのだろうが、そういう女の相手は並の男がしてればいいのだ。生憎司馬懿は並の男ではない。
「五月蝿い。でしゃばって妻のような真似を勝手にするな。
私は墨を擦るのも好きなのだ。邪魔するな」
墨を奪い返して、自分の手で擦り直す。
「まあ。そんな風に不機嫌そうな顔をしても、内心ご機嫌なのはお見通し」
「何の話だ」
「貴方が【
「だからなんだ」
顔色を少しも変えずに司馬懿は返す。
こういう時に見苦しく狼狽えた所を見せない所が、この男のいい所である。
春華は改めて司馬懿の座っている机の向かいに腰を下ろすと、にっこり微笑んで手を差し出して来た。
「それは美しい宝剣だと言われておりますわ。
一本一本がそれぞれに柄に雌雄の孔雀を描き、
剣の台座には
ある時代の王はこれを夫婦の婚礼道具として使ったとか」
「だからなんだ。そんなことをお前に物知り顔で語られる筋合いはない」
「私に下さるつもりで手に入れたのでしょう?」
女が部屋に入って来てから、一度として彼女に興味を向けなかった司馬懿が初めて春華の方を見る。
「何故そうなる」
司馬懿が返せば、女の方も不審げに視線を寄越した。
「……貴方が使うつもりですの?
司馬懿は鬱陶しそうに顔を歪めた。
「誰が、私が使うと言った?」
途端に
「では私にやはり下さるのね?
剣を頂けるとは意外ですけれど、でも予想してなかったから結構嬉しいですわ。
貴方が求婚の時に女に何を贈って来るんだろうと、色々考えてましたの。
女心を理解しないことに掛けては貴方、天下一品ですものね。
変なものを贈られたらどうしようと思っていましたけど、でも【
武器商の娘である私に相応しいものですわ。
あなたってやっぱり、ここぞという時に外さない方ね。
それでこそ私の夫に相応しいわ」
司馬懿は筆を置いた。
「馬鹿馬鹿しい。人を斬るために作られた剣を美術品扱いするのも的外れなのに、女に剣を贈るだと? しかも名刀をか。それは愚か者の所業というんだ」
言われた春華の片眉がつり上がる。
「大体、私がいつお前を妻にするなどと言った? 冗談じゃない」
「ずーっと昔からお願いしていたでしょう?」
「お前の願いなど聞いていない。私がいつ、応と言った」
「言わなくても分かりますわ。だって私は貴方に相応しいもの」
――五月蝿い女だ。
口だけじゃなく、この明るい気配も五月蝿い。
こんな口煩い女が終生側にいるなど、全く冗談ではなかった。
「私は今や
「うちはただの武器商ではありませんわ。有力な、武器商ですのよ。
大陸中に取引相手がいて、情勢にも詳しい。
貴方が政の中核で仕事をするならば、我が張家の情報網は必要ですわ」
「必要になった時にはこちらから使者をやる。それだけだ。
お前の家と縁戚関係になったとして、司馬家には何の得もない」
だが、春華は気の強い女で、これしきのことで目を潤めたりは決してしないのだ。
むしろ彼女はこうして司馬懿と舌戦を繰り広げるのさえ、楽しみにしてる風である。
「まあ。またそんなことを言って。
春華が拳を握り締めて、司馬懿に向かって見せて来る。
「何が侮辱だ。本当のことではないか。
今は曹丕殿が代替わりを控えて、有力豪族どもがここぞとばかりに蠢いている。
私が結婚するにしても、戴冠の後だ。
司馬家にとって縁を結ぶに相応しい、同時に、政略的に意味のある家から妻は取る」
「私より利発な女など、そうはいなくてよ」
「お前の場合、利発というより小賢しいのだ。お前のように知恵と口先で男も何とか出来るなどと幼い頃から思い上がってる女は私は大嫌いだ。何度言えば分かる」
「まー。ホントに小憎たらしいこと。
夫になるべき方じゃなかったら、今頃酷い目に合わせてますわ」
「話が済んだなら出て行け。私は仕事中だ。
一人で集中したいからここに来てるのだ。わざわざ訪ねて来たりするな。鬱陶しい」
「そうねえ。貴方がこんなお茶屋に入り浸ってるから最初はあの美人女将とでも浮気をしてるんだと思って探りに入りましたけど、どうやらそれはないみたいですし。
ここで仕事をしてるというのは本当のようですものね」
「たわけが。夫がいるではないか」
「あら。もう死んでいるじゃあありませんか。未亡人だわ」
「私はそんなものに興味はない」
「嘘つきねえ。貴方が普通の恋愛なんて、今更するわけないじゃないの。
貴方は呼んだら手に入る女になんか、大体興味ないのよ。
人妻とか、位の高い、そういう女にこそ、燃えるのよ」
張春華は頬杖をついた。
「ねえ、仲達さん。いい加減前からお願いしていること、叶えて下さらない?」
また話題が変わった。
女はどうしてこうもころころ話題が変わるのか。
「お前は図々しくも願いばかりしてくるからどれのことか分からん」
「
一瞬、春華の声に力が籠った。
「貴方の友人としてでいいから、紹介してくださいと申し上げているでしょう」
司馬懿は呆れた。
「何故お前なんぞを甄宓殿に会わせねばならん」
「だって気になるんですもの。
王宮の『美姫の中の美姫』と呼ばれる方ですわ。
単なる美しい方なら気にもなりませんけど、私の探るところによりますとあの方、どうもそんな可憐だけの方じゃないようなのです。
それに後宮に手の者を潜り込ませようとしても、難しくて……。
あの御付きの
奥方様に邪な者を近づけさせまいといつも妨害して来ますの。
それなりの女をやってるのですけれど、どうも演技が下手で他意があると見破られます。
いっそ、私が侍女として仕官してみようかしら」
「何のつもりだ」
「わたし、貴方が立派な位に立たれる方だとは分かっていますから、常識の範囲内での側室に目くじらを立てようとは思いませんわ。
私をあくまでも『正妻』として扱って下さるかぎり、何の文句もありませんのよ?
貴方のやる後ろ暗いことにも、首を突っ込もうとは思いませんし」
「今現在突っ込んでるのが分からんか」
「けれど自分の知らない所で浮気をされるのは許せませんわ。
貴方の女関係は全て知っておきます。
知らない所で私より格の低い女に嘲笑われるなんてまっぴら。
今のところそういう女の気配は貴方にはないですけれど、結婚後は分かりませんもの。
ですから後宮にでも何人か手の者を忍ばせておいて、貴方がそこの女と事を構えた時には知っておきたいのです。
今は、一番
「馬鹿めが。甄宓殿は
臣下の私が懸想などしたら首を斬られるだけではないか」
「口だけならどうとでも言えますわ。
――ですから是非、この目で確かめておきたいんですの。
その方が、貴方の気を引くような女かどうか」
「そういうところが小賢しいと言ってるのが分からんのか?」
「だってあなた、よく甄宓様とお二人で出かけることもあるじゃありませんか。知っていますのよ。そういうこと。
甄宓様は元々袁家に嫁いだ方だったから夫を殺した曹家の人間に内心、心を許しておらず御夫君の曹丕殿以外、曹家の人間が側に寄ることをことのほか嫌っておられ、大概後宮に籠っていらっしゃるというのに貴方が御付きなら外出もするとか。
怪しむなという方が無理ですわよ」
司馬懿は呆れる。
彼は曹丕の偉業にすでに命を差し出す覚悟が出来ている甄宓の、魂の苛烈な部分を知っている。
男にも勝る覇気と、頑強な意志を持った女。
――甄宓の場合は、あの美しい外面が化けの皮だ。
「勝手に怪しんでろ。私は知らん。
主の妻が供をしろと命じるのだ。嫌だなどといなすわけには行かないだろうが」
「まあ。俺は誘われてるんだという自慢ですか?」
「馬鹿馬鹿しい。……猛獣を手懐けるのが趣味の女など、こちらから願い下げだ」
後半は聞こえない声でぼそ、と言った。
「え?」
春華が聞き返す。
口にした司馬懿はだが、ふと、主君の妹を護衛するために女の纏いを着て、猛獣を刃で切り伏せていた陸遜の姿を思い出し、小さく唇の端を持ち上げた。
――――そうとも限らんか。
あの時陸遜が見せた鮮烈な怒りと、仲間からはぐれた孤独と不安。
降り出した雨の中に佇んだ悲しみが身体から滲み出していて、色香があった。
あの時は女の纏いだったので女だと思ったが、
確かに敵方の女だとは分かっていたが、あれほど欲しいと瞬間的に思った女は、実は
女の虎狩りという面白い趣向を見せられて、あっという間に気に入った。
あれも陸遜の剣が特別美しく華やかであった為に、正体を偽る為に着ていた女衣に妙にその剣技が合っていた。
司馬懿はもっと女を普段損得勘定で捉えている。
一目会って容姿に惚れるなど馬鹿な男のすることだと常々考えていたのだが、
あの時だけは別だった。
深い森の奥、
炎と猛獣が撒かれ、命の危険があった。
そんな中で美しい容姿と鮮烈な剣を使う女と偶然遭遇した。
あんな経験は人生で二度もない。
だから司馬懿は気にしなかった。
自分でも、一目で気に入る女はいるのだ。あっさりそう飲み込んでしまった。
あの時は相手を完全に女だと思い込んでいた為、思いがけない手傷を与えられて行動不能になったからそうならなかったのだが、
反撃などされていなかったらあの女を確実に連れ帰って妾にしていたと思う。
司馬懿からすると何度思い出しても、楽しい記憶だ。
他人が聞いたら「一体どの辺が楽しい記憶なのか」と首を捻る所だが、
扇の先で、軽く鼻先を叩かれた。
一瞬記憶に笑った司馬懿だったが、思索を邪魔されて五月蝿そうに手で扇を払う。
鋭い春華は何かを察知したようだ。
不審げな目を向けて来る。
「
じゃあ貴方、ほんとに例の名刀を私じゃあない他の誰かにやるつもりですのね?」
「だとしたら何だ。お前には関わりない」
「どこの女にやるつもりです?」
「仲達さん。
私も豪族の娘です。名門として血を広げていかなければならない道理は理解していますわ。ですから側室は何人かは許しますけれど、あくまでも私が正妻として迎えられてのことですわよ。貴方の側室にはならないわ」
「当たり前だ。お前のように口煩い側室など死んでもいらん」
「言ったわね。許しませんよ」
春華は司馬懿の鼻を抓ろうとしたが、そのやり取りすら鬱陶しがって手で払いのける。
「いい加減にしろ。私はお前なんぞ妻にする気はない。何度言えば分かる」
「格の高い家の、自分の意のままになる物分かりのいい女を妻にするつもりなんでしょうけど絶対後悔するわよ、あなた」
それまではからかうような雰囲気だった、春華の空気が変わった。
真剣な表情で司馬懿を見据えて来る。
「貴方は必ず大きな仕事をされて、高い地位に就くわ。
つまり多くの敵が現われる。
そんな時に有力な味方は一人でも欲しいでしょう?
正妻が賢く、夫を正しく理解して、時に――客観的に夫を評価しその補佐に動いてくれる女であったら、貴方が向き合わねばならない煩わしいことが格段に減るのよ。
そこらの凡庸な女など妻にしてみなさい。仲達さん。
いつか死ぬほど後悔し、貴方は私に膝をついて妻になってくれと乞うことになる。
それでは男として哀れだと思って、今は私から言い寄ってあげているのよ。
いい妻でしょう?」
彼女は言い切った。
しかし司馬懿は涼しい顔で取り合わない。
この二人は昔からこんなやり取りをずっと続けている。
「他所へ行け。春華。私にお前は必要ない」
「後悔するわよ」
男は鼻で笑った。
「完璧な人生が欲しいなら最初から
私は飽き性だ。
それに興味が無いものには少しも自分の意識を向けたくない。
私は私を楽しませるものだけ選ぶ」
司馬懿がそこまで言い切ると、一瞬剣呑な表情をしていた張春華は半眼になり、呆れた表情を浮かべた。
「あきれたわ。」
「何を今更。張家が司馬家と通じたいのなら、他の兄弟に話を持ち込めばいいだろう。
いちいち私の所に来るな。たわけめ。他の七人に当たれ。――いや、六人か」
「六人?」
「
お前のような気の強い女が嫁になったら心臓が縮んで早死にする」
なんですってという顔を少し見せたものの、すぐに春華は気を取り直したようだ。
もう一度正面の机に両手で頬杖をつき、ニコッと笑った。
「叔達さんといえば……最近、貴方の側で働かせていると聞きましたけど。
司馬家って兄弟仲は最悪だったと思っていたのに、意外だわ。
どういう風の吹き回し?」
「身の回りのことをやらせているだけだ」
「
私から見るとあの方、人は良くても才気の方はそこまで見どころがあるとは思わなかったけど……。
独り言のように彼女は言う。
「私は仲達さんに決めたんだもの。
司馬家の兄弟の中では貴方が一番優秀だし、それに面白そうだから。
私も自分の興味ないことには、少しも心を払ってやりたくない性格なのよ。
でも貴方は私を退屈させないわ。
まあ、多少腹の立つことは多いとはいえね。
だから私は貴方がいいの」
この女には何を言っても無駄だなと
春華も司馬懿の意識が自分から逸れたことは気づいたのだろう。
溜息をついて立ち上がる。
「【
わたし以外の、どこのどなたに贈ったのかを」
「勝手にしろ。誰にやろうとお前に口出される筋合いなど無い」
「もう! 本当に可愛げのない人ね!
言っておきますけれど、私に内密に他の女を側室などにしたら、どこに隠そうと見つけ出して、その女は殺しますからね!
そういう場合は私を正妻だと崇め、私の許に這い蹲って司馬仲達の側室にございますとこの私にその女が挨拶に来てやったら許してやるわ。
例外はないから、あなたも努々、私を軽んじないでくださいませね。
軽んじたら、ホントひっどい目に遭わせますわよ!」
言いたいことを全部言うと話を断ち切って、春華は部屋の外に出た。
そうは言ったものの彼女はその例の双剣は、もしや
彼女には分かっているのだ。
司馬懿は妻に隠れてコソコソと浮気をする性格ではない。
そもそも無精で気まぐれで、女嫌いなのだ。
その司馬懿が一目置いているようだと報告を受けるだけでも、甄宓の素質がどんなものか分かる。
美しいだけではなく、きっと中身も司馬懿の興味を引くような魅力的な女なのだろう。
春華には確信があった。
確かに甄宓は曹丕の妻なので、賢い司馬懿が懸想をするわけはないとは思うが、やはり自分以外に夫の心が盗まれているというのはいい気持ちはしない。
自分の目で見て、どんな女か確かめなくては。
彼女はそんな風に思い、庭に出て、一度部屋の方を振り返った。
司馬懿は部屋の窓辺に腰掛けて、こちらに背を向け池の方を見ていた。
――――あの男は庭の景色などに心惹かれる男だっただろうか?
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