紅き契り、月下に咲く ―初恋を胸に、涙をこらえて、家を守るための花嫁になります―

五平

プロローグ:古の誓い、今の呪縛

花咲く都は、いつも変わらず穏やかだった。

きらめく陽光が、瓦屋根を連ねる町並みを優しく照らす。

遠くからは、賑やかな市井の声が風に乗って届いた。

名門である私の家もまた、この都の平和の一部だった。


「桜、またそんなところでうたた寝か?」


頭上から降ってきたのは、少しだけ

呆れたような、けれど温かい声。

振り返れば、そこに幼馴染の**蓮**が立っていた。

彼はいつだって、私のすぐそばにいてくれた。

少し口下手で、照れ屋なところもあったけれど、

私のことを誰よりも大切に思ってくれる。

そんな彼が、大好きだった。


彼はいつも、私が摘んだ花を

そっと髪に飾ってくれたりした。

小さな怪我をすれば、慌てて手当てした。

ある日、小川で魚を追っていて、私が転んだ。

膝を擦りむき、泥だらけになった私を見て、

蓮はひどく慌てた後、お互いに顔を見合わせて笑った。

神社の裏手には、小さな祠があった。

その奥で見つけた白い小さな蛇を、二人でそっと追いかけた。

夜には縁側で並んで座り、満月を眺めた。

きらめく月光が、私たちの幼い影を長く伸ばす。

その記憶は、宝石のように輝いている。


「いつか、お前を守れるように、もっと強くなるからな」


まだ幼かった頃、そう言ってくれた。

照れくさそうに、私にくれたのは、

蓮が自分で彫ったという木彫りの守り札。

素朴で、不格好で。

けれど、蓮の温もりが詰まったその守り札を、

私は肌身離さず持っていた。

それが、私と蓮を繋ぐ、大切な絆の証だった。

その声を聞くたび、私の心は温かい光に包まれた。


けれど、穏やかな日々は、ある日突然、終わりを告げる。


蓮が、消えた。


昨日まで当たり前のように隣にいた彼が、

朝目覚めると、どこを探しても見つからない。

家じゅうが騒然となり、使用人たちが

慌ただしく走り回る足音が響いた。

まるで、嵐が訪れたかのような騒ぎだった。


大人たちの囁きが、幼い私の耳には

恐ろしい響きをもって届いた。

「あの子、神隠しに遭ったんだろう」

「いや、鬼の家に目をつけられたって話もある」

「あの辺りの山の奥が怪しい」

「贄として連れていかれたんじゃないか」


蓮自身も、なぜ自分がこの世界から

連れ去られたのか、分からなかっただろう。

ただ、何も分からないまま、彼は突然、

この世界から連れ去られたのだ。

空から降り注いだ光に、包まれたと聞いた。


私は最初「神様が綺麗な世界に連れていったんだよね?」

「きっと、あの優しい蓮だから……」と、

必死に自分を納得させようとした。

守り札を握りしめ、彼の帰りを待ち続けた。

しかし、蓮が消えてから、都を覆う空気は

少しずつ、しかし確実に澱んでいくのを、

幼い桜なりに敏感に感じ取っていた。


都の大通りから、活気が消え始める。

焼き団子の甘い香りが薄れ、味噌屋の匂いも遠くなった。

芝居小屋の幟は、色褪せて風に揺れるばかり。

物売りの声も、以前より小さく、途切れがちだ。

町角で子どもが遊ぶ石蹴りの音も、聞こえなくなった。

人々の目には、怯えの色が混じり始めた。

まるで、都全体が、ゆっくりと枯れていくかのようだった。


---


時は流れた。

私は年頃の女性に成長した。

都は表向き変わらず平和な顔をしている。

人々はこれまで通り市に行き、神社で手を合わせる。

しかし、その笑顔の奥には諦めと恐怖が

宿っているようだった。


誰も口には出さないけれど、この国の

本当の支配者が、都の影に潜む。

「鬼の血を引く家」であることは、

誰もが知る、暗黙の了解となっていたのだ。

その名は、人々の間で囁かれることすら

憚られるほどだった。

不気味な空気が、都のすみずみにまで浸透していた。


そして、その禍々しい影が、ついに私の元にも訪れる。

「桜。貴方には、鬼の家へ嫁いでいただくことになった」


それは、あまりに唐突で、

そして避けようのない話だった。

父と母の顔は、これまでの人生で見たことのないほど、

苦渋に満ちていた。

彼らの手は震え、声は震えていた。


「古の契約だ。この家と、ひいては都のためだと思ってくれ」


彼らの言葉には、深い悲壮感が漂っていた。

「人身御供」──その言葉が、私の心の中で木霊した。

抗えば、名門である私の家は、

あっという間に潰されるだろう。

都の人々が、私を哀れむ視線で見つめていた。

私が贄となることで、彼らは安寧を得るのだ。

その視線に、私は背筋が凍る思いがした。

まるで、生きたまま葬られるようだった。


絶望の中、蓮からもらった守り札を、

きつく胸に抱きしめる。

蓮……もしあなたが今、ここにいてくれたら。

もし、あなたもあの鬼の家に囚われているのなら。

私の知らないうちに、蓮はあそこに……?

その考えが、胸をひどく締め付けた。


嫁入りは、すぐに執り行われた。

私は豪華な打掛を纏い、輿に乗せられる。

その装束の重さが、私の心に鉛のようにのしかかった。

髪に挿されたかんざしが重く、頭皮が引っ張られる。

打掛の下で、指先が冷たく震えていた。


私は輿の中で、爪先をぎゅっと折り曲げた。

豪奢な打掛の下で、震える指を隠すように。

外からは、人々の声が微かに聞こえる。

安堵したような吐息。それが私を刺す。

私が、都の平和を買うための代償だと、

誰もが分かっているから。

この輿は華やかな飾りに包まれているけれど、

中にいる私はただの贄。

誰一人、助けようとはしない。

その現実が、胸をひどく痛めつけた。


町の通りは、人々で埋め尽くされていた。

けれど、その顔には喜びに代わり、

どこか安堵したような、それでいて哀れむような目が

浮かんでいた。


輿は都を離れ、郊外へと向かう。

景色は次第に陰鬱なものへと変わっていった。

晴れ渡っていた空も、いつの間にか厚い雲に覆われる。

太陽の光は届かない。

草木の緑は、どこか生気を失ったように黒ずんで見えた。

空気すら重く、息苦しい。

まるで、もう人の世ではないような場所だった。


そして、視界の先に、その館が見えた。

門は高く、黒々とそびえ立つ。

門の近くの木の枝には、烏が何羽も止まっている。

こちらをじっと見つめ、不吉な鳴き声を上げた。

門の柱には、小さな赤黒い手形が無数についている。

足元の石には、不気味な文様が刻まれていた。

その内側からは常に湿った土と、

古い血の匂いが漂ってくるようだった。

禍々しい雰囲気が、あたり一帯を支配している。

桜は、恐怖に震えた。


「もしかして鬼の家が……?」

「私の知らないうちに、蓮はあそこに……?」


これまで漠然とした恐れだった疑念が、

具体的な形を帯びて桜の心を締め付けていく。

私は、深い絶望に包まれた。


輿から降り、重い門へと続く石畳を歩く。

その入り口で、一人の青年が私を待ち構えていた。

鬼の家の当主、**蛟**。

彼は冷徹な美しさを持ち、

感情の見えない深い闇を宿した瞳で私を見つめる。

その視線は、冷たく、鋭かった。

まるで私の魂の奥底まで見透かそうとするかのよう。

けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ蓮に似た憂いが

混ざったように見えた。

私は、視線を逸らせない。

その複雑な揺れに、心の奥で縋りたい弱さが込み上げる。

同時に、こんな期待を抱いてしまう自分を責める痛み。


彼の顔には、微かに蓮の面影があるように見えた。

だが、その表情は一切の人間性を感じさせない。

ただ氷のように冷たかった。


「ようこそ、贄の花嫁よ」


その声は、桜の心を深く凍らせた。

この屋敷の全てが、私を食い尽くそうと、

待ち構えているかのようだった。

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