第1話:花嫁、禍々しき館の檻
桜はそっと輿の簾を押し上げた。
目に飛び込んできたのは、まるで死者を呑み込むように
口を開ける、黒々とそびえる鬼の家の門だった。
古びた木製の扉には、漆黒の金具が鈍く光り、
その威圧感が、桜の呼吸を奪う。
石畳には苔が黒くこびりつき、
細い溝を伝う水は、腐葉土の匂いをまとっていた。
輿から降り立つ瞬間、草履の下から伝わる感触は、
ひんやりとして、まるで墓石を踏んだかのよう。
それだけで、心臓がひどく強張った。
背後で門が鈍い音を立てて閉ざされた。
重い、重い音。
ずしりと、鼓膜の裏で響く。
都のきらめきは、完全に断ち切られる。
もう、光は届かない。
代わりに、黴と血が混じったような異臭が、
鼻腔を強く刺激する。
古い墓場を思わせた。
いや、それ以上。
まるで誰かの口の中にいるような、
生ぬるく、湿った吐息が肌を撫でる。
ずしりと重い空気が、肺の奥まで入り込み、
全身を包み込んだ。
与えられた自室は、豪華絢爛な調度品で飾られていた。
高価な錦の緞帳、螺鈿細工の屏風。
しかし、その華やかさが、却って冷たく、心を凍らせる。
壁一面には、無数の古びた護符が隙間なく貼られている。
それは、まるで部屋の呼吸を塞ぐかのようだ。
障子には、薄汚れた血のような染みが、
不気味に広がっていた。
まるで、前の犠牲者の痕跡のように。
桜は恐怖に身震いした。
言いようのない嫌悪感に襲われる。
ここは、私の檻。
そう、突きつけられた。
部屋の空気は、まるで底なし沼のように重く、
呼吸するたびに肺の奥まで淀んでいくようだった。
喉がひりつき、全身が鉛のように重い。
鬼の家での生活は、まるで鳥籠の中の鳥のようだった。
常に数名の女中が付き、私の動きを監視する。
彼女たちの視線は、瞬き一つしないかのようだった。
まるで魂のない人形。
その冷たい目が、常に私を捉える。
私から、感情を読み取ろうとしているのか。
それとも、既に諦めているのか。
外出は許されず、限られた部屋以外への移動も
厳しく禁じられた。
自由は、完全に奪われた。
与えられる食事は豪華だが、すべてが奇妙に味気ない。
乾いた砂を噛むようだった。
一口食べるたびに、得体のしれない不安が胸に広がる。
味覚だけでなく、視覚や嗅覚。
そして皮膚感覚までが、屋敷の異様な空気に侵されていく。
常に肌に感じる湿気と冷気は、まるで死者の吐息。
その冷たさが、体中の毛穴を逆立てる。
桜は、この絶望的な状況からどうにか逃れようと、
何度も試みた。
心臓が激しく脈打ち、焦燥感が募る。
夜中に窓から脱出しようとする。
細い月明かりが、窓から差し込む。
僅かな希望に、指先が震えた。
窓枠に手をかける。ひんやりとした木の感触。
しかし、外を見回る番人にあっけなく見つかり、
冷たい視線を浴びる。無言で部屋へ連れ戻された。
彼らの足音は、静かに、しかし確実に迫ってきた。
まるで、闇の中から湧き出る影のよう。
あるいは、屋敷の奥に秘密の通路があるのではと、
古地図を頼りに探そうとするが、どの扉も厳重な施錠。
そして、目に見えない結界が、私を阻む。
触れると、肌が粟立つような悪寒が走った。
そのたびに、身体だけでなく、心も深く、深く、
絶望の淵へと沈んでいく。
抗うことさえ許されない「沈黙の牢獄」。
そこが私の現実だった。
希望の欠片すら、見つけられなかった。
夜が訪れると、屋敷全体の不気味さが増した。
廊下の向こうから、灯りが揺れるのが見えた。
誰かの吐息が聞こえた気がして、首筋の産毛が立つ。
けれど振り返っても、そこには誰もいない。
物音一つしないはずなのに。
どこからか、低い呻き声のようなものが聞こえる。
それは風の音のようでもあり、
誰かの嗚咽のようにも聞こえた。
夜中に響く、ひそひそとした囁き声。
それは、まるで屋敷の壁の中から聞こえてくるかのよう。
理解不能な言葉。
廊下を巡回する使用人たちの足音は、
まるで地を這う獣の足音のように響き、
桜は怖くて一睡もできない。
浅い呼吸を繰り返す。
心臓が早鐘を打った。
鼓膜の裏で、ずっとごうごうと音がしている。
全身の血が凍り付くようだ。
喉が乾いている。なのに息を呑むたび、
舌先が塩を舐めたみたいにひりついた。
瞼を閉じれば、蓮の顔が浮かぶ。
幼い頃の、蓮との穏やかな日々。
彼と交わした小さな約束。
夏祭りで、蓮が買ってくれた焼き団子。
焦げた醤油の匂いと、甘い香りが蘇る。
熱気を帯びた人混みの中で、迷子になりかけた私を、
蓮がそっと手を握ってくれた。
彼の小さな手が、私の指を包み込んだ。
肌寒かった秋の夜、初めて手をつないだ時の温もり。
あの時みたいに、そっと背中を押してほしかった。
「大丈夫だ」って、笑ってほしかった。
彼の優しさ、彼の笑顔。
そして「桜を守る」と誓ってくれた声。
それらが走馬灯のように、脳裏を駆け巡る。
その記憶だけが、この悪夢のような現実で、
唯一桜の心を繋ぎ止める光だった。
蓮は今、どこにいるのだろう。
もしかしたら、この屋敷のどこかに囚われているのか。
私と同じように、苦しんでいるのか。
あるいは、既に鬼の血に染められてしまったのか。
そう思うと、胸がひどく締め付けられた。
夜は、あまりにも長かった。
希望の光は、どこにも見当たらなかった。
ただ、冷たい闇が私を覆い尽くす。
このまま、私自身も闇に溶けてしまうのか。
翌日、鬼の家の当主、**蛟**との正式な面会が許された。
彼の部屋は、窓が少なく薄暗い。
重々しい空気に満たされていた。
部屋の隅には、見たこともない奇妙な形の彫像が置かれ、
薄暗い中にその影が不気味に蠢いているように見える。
古びた香炉からは、甘く、しかしどこか血腥い香が漂い、
桜の気分をさらに悪くさせた。
まるで、生贄の血の匂いのように。
蛟は、冷徹な美しさを持つ男だ。
彼の着ている着物は、上質な絹だ。
だが、その袖口から覗く指は、どこか長く、白い。
感情の見えない、深い闇を宿した瞳で、私をじっと見つめた。
その視線は、冷たく、鋭かった。
まるで私の魂の奥底まで見透かそうとするかのよう。
桜は息を呑んだ。
喉が詰まり、声が出ない。
彼の目に、一瞬、蓮に似た憂いが混ざったように見えた。
そこに縋りたい弱さが、込み上げる。
同時に、こんな期待を抱いてしまう自分を責める痛み。
感情が、激しく揺れ動いた。
私は視線を逸らせない。
「ようこそ、贄の花嫁よ」
その声は、氷のように冷たかった。
桜の心を、深く深く凍らせる。
全身が、ひどく震えだした。
彼の顔には、微かに蓮の面影があるように見えた。
しかし、その表情は一切の人間性を感じさせない。
ただ氷のように冷たかった。
この屋敷の全てが、私を食い尽くそうと、
待ち構えているかのようだった。
桜は、恐怖に震えながらも、蓮への思いが、
この冷たい場所で生き抜く唯一の理由だと、
心に強く刻んだ。
その守り札を、きつく握りしめた。
指の震えが止まらない。
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