第6話[花売りの子は名を知らず]
それは、通り雨のような出会いだった。
道沿いの村に立ち寄ったとき、ちょうど朝市が開かれていた。 木箱に並ぶ野菜、素焼きの壺、干した魚や果実。 そのすみに、小さな布を敷いてしゃがんでいる子どもがいた。
髪は麦色。どこか陽に焼けた肌。 けれど、その瞳は澄んでいて、どこか影があった。
彼女は、花を売っていた。
といっても、花束ではない。 手のひらにのるほどの、小さな野花を、ひとつずつ紙に包んで売っていた。
「……いかがですか、旅のお方。ひとつ、銀貨半分で」
私たちの前に、恐る恐る手を差し出してきたその少女は、 笑顔を作ってはいたが、どこか緊張していた。
イフミーは先にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「花、好きなんだ?」
「え……ええ、あの、道端で見つけたんです。捨てるのも、可哀想で」
「きれいだね。……これ、なんて名前?」
「……わかりません。けど、朝だけ咲くんです」
私はそっと銀貨1枚を差し出し、紙に包まれた小さな花を受け取った。 薄紫の花弁が、指先で微かに揺れる。
「こちら、おつりでございます」
「取っておいて。……この花の名が見つかったら、教えてくれる?」
少女は目を見開いて、しばらく黙った。
それから、ぽつりと。
「……わたし、自分の名前も、知らないんです」
その言葉に、風が止まった気がした。
「施設に預けられてから、呼ばれていたあだ名はあるんですけど…… 本当の名前は、記録に残ってないって」
「……寂しくは、ないのかい?」
イフミーの声はやわらかかった。
少女は少し考えてから、首を振った。
「ううん。でも、どこかで誰かが、 本当の名前を覚えててくれたらいいな、とは思います」
その日の午後。 私たちは小さな宿の軒先で雨宿りをしていた。瓦屋根を打つ雨音が、時おり風に乗って、ぽつぽつと調子を変える。
イフミーは布に包んだ花を膝に乗せ、ぼんやりとそれを見つめていた。目元にかかる髪が、湿気でほんの少しうねっている。
「……ねえ」
「ん?」
「さっきの子、私たちみたいだなって、思って」
「……名前がなくても、生きてるってところ?」
「うん。だけど、あの子は“名前が欲しい”って言った。 私は、捨てたくてたまらなかったけど…… 人によって、名前って、全然ちがうもんなんだね」
「そうだね。でも――」
イフミーは、ふと遠くを見ながら言った。
「捨てた君の名前が、あの子を通して、 “また咲き始める”こともあるかもよ」
夕暮れ、私たちはもう一度、朝市のあった場所へ向かった。 少女はもういなかった。 けれど、地面には、売れ残った花がひとつだけ置かれていた。
その横に、小さな紙切れが折りたたまれていた。
——「きょうは、ありがとう。また会えたら、うれしいです」
「……名前も知らないけれど、確かに出会った。 きっと、忘れない」
私は、そう呟いて花を拾い上げた。
「じゃあ、その子に名前、つけてみる?」
イフミーがいたずらっぽく笑う。
「……いいのか?」
「君の心にだけ、そっと呼べばいい。誰かに伝えなくても」
私は花を見つめた。 その色は、かつて誰にも気づかれなかった、 私の好きな季節の、朝の空に似ていた。
「……じゃあ、ユイ」
「うん。優しく、結ぶ名前だね」
名を持たぬ者が、名を知らぬ者と出会い、 言葉にしない約束を交わす。
旅の途中に置かれた花は、 確かにそこに、咲いていた。
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