第5話 [名前を奪った影]

「この方が、“レイ”様ですか?」


その声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


振り返ると、商人風の男が数人の村人を引き連れてこちらを見ていた。

道の途中、立ち寄った川沿いの村でのことだった。

私とイフミーは、ただ水を汲みに立ち寄っただけだった。


「……恐れ入りますが、どちら様でしょうか?」


私が静かに問い返すと、男は懐から一枚の布を取り出した。

そこには、手描きの似顔絵が描かれていた。

短髪に、細い唇。背丈も私と近い。——確かに、似ている。


「こいつが、今話題の“旅の詐欺師”だ。名前を偽って各地を回ってるって話でね」


「“レイ”……」


その名を口にしたとき、空気が凍った気がした。


それは、かつて私が“跡継ぎ”として与えられていた仮の名だった。



村人たちがざわつき始める。


「確かに、似てるな……」

「名前、名乗ってなかったらしいじゃないか」

「顔を隠してるわけじゃないが、なんだか胡散臭いよな」


イフミーがそっと私の腕を引いた。


「行きましょう。今は立ち退いた方がよいです」



森の外れまで足を運び、大きな木の根に腰を下ろした。

吐く息がかすかに震えているのを、自分でも感じていた。


「“レイ”というのは、君の……過去のお名前ですか?」


「……はい。あの家で“跡継ぎ”として呼ばれていた名前です。

 けれど、今となっては、誰にも呼ばれておりませんし、私も名乗ってはおりません」


「それを誰かが、勝手に騙っている……?」


「おそらく、そうなのでしょう」


胸の奥に、怒りとも哀しみともつかぬ苦い感情が溜まっていく。

私は“レイ”を捨てたつもりだった。

それなのに、その名だけが、他人の口で生きていた。



夜、焚き火を囲みながらイフミーが呟いた。


「名って、皮みたいなものだと思ってた。

 でも、誰かに着られると、中身まで“それ”にされちゃうようで、少し怖いね」


「……わかります。

 私という“中身”がまだ何者にもなれていないのに、

 名ばかりが一人歩きしているようで……苦しくなります」



翌朝、再び村へ立ち寄った際、

例の商人は別の男と口論をしていた。


「似顔絵が違う? ……何だよ、それなら最初から教えろよ!」


どうやら、私とはまったく別の人物が詐欺を働いていたらしい。

商人は怒鳴りながら、丸めた布を抱えて去っていった。


残された村人たちは、私に気まずそうに頭を下げる。


「……申し訳ありませんな。似ていたもので、つい」


「お気になさらず。誤解は、誰にでもございます」



村を出たあとの道すがら、イフミーが言った。


「誰かに間違われるって、わりとよくあるよ。

 神さまって呼ばれていたときも、私はずっと“そうじゃない”って思ってたから」


「では……貴女は、ご自身のことを、何と」


「たぶん、“私”って。名前がなくても、それだけは」


その言葉は、私の中のどこか深い場所に、しずかに響いた。



その夜、焚き火のそば。

私は炎を見つめながら、初めて“名”というものを正面から考えた。


名は、呼ばれることで形づくられる。

けれど呼ばれなくなれば、たちまち消えてしまう。


ならば今の私は、何者だろう。


“レイ”を捨てた私は、

まだ何者にもなっていない。

けれど、確かにここにいる。

傷を抱えながらも、生きている。



風がふわりと吹いて、イフミーの香袋が揺れた。

微かに、ヤグルマ草の香りが鼻先をかすめる。


「“レイ”は、捨てました。

 けれど……“私”は、ここにおります」


それは、誰に向けたでもない、

ただ私自身のための答えだった。



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