第4話[名前が落ちていた場所]
ヒルダの市を離れて二日。
次の仕事を求めて、私たちは東の街道を歩いていた。
街の喧騒から抜け、静かな道に出ると、
背に受ける風の音がやけに耳に残った。
「……静かすぎる?」
イフミーがそう言ったのは、森沿いの石畳を歩いていたときだった。
私は無言で頷いた。
でも、危険な気配ではない。ただ、空気が、変わった。
道のわきに、小さな祠があった。
風雨にさらされた木造り。
祠というより、忘れ去られた記憶の欠片のような佇まい。
「誰も、祈ってないね」
イフミーがぽつりと言った。
「……そう見えるだけかもよ」
「そう見えるってことは、そうなんだよ」
彼女はそう言って、小石を一つ拾い、祠の前に置いた。
それから、懐から小さな布袋を取り出して、並べはじめる。
香袋(こうぶくろ)だった。
手のひらにすっぽり収まる小さな麻布の袋。
淡い灰青の布地に、草で撚った細縄が結び紐になっている。
「これはね、悪夢を見なくなる香り」
「これは、帰れない人のための香り」
「これは、神さまの匂いがした場所で作った香り」
そう言いながら、イフミーは祠のそばに、
小さな板の上にいくつか並べた。
中には乾いたヤグルマ草、ミントの葉、祠のそばの木の皮——
どれも旅の途中で拾い集めたものらしい。
袋を振ると、ほんのり青く、少し甘い香りが立ちのぼる。
「神さまはね、祈りの声より、香りのほうがよく覚えてるんだって」
彼女はそう言って微笑んだ。
その顔が、祈っているように見えた。
道をそれた先、古びた屋敷跡のような場所があった。
崩れた門、朽ちかけた柱。
誰もいないはずのその空間に、一歩足を踏み入れたとき——
胸が、ずん、と痛んだ。
「……っ」
風景が、どこかで見た記憶と重なる。
石床の配置。庭の形。
そして、剣の稽古に使った白い柵。
——ここは、私の“家”によく似ていた。
「大丈夫?」
イフミーが隣で声をかけてくる。
私は首を横に振ることも、頷くこともできなかった。
あの家では、私は“跡継ぎ”だった。
男として育てられ、名を与えられ、剣を握らされ、
「選ばれた者」として生きるように仕組まれていた。
けれど、本当に選ばれたのは、
私ではなかった。
遠い国からやってきた“優秀な男子の養子”。
あの日から、私の名は口にされなくなった。
家の者も、従者も、誰一人、私の存在に触れようとはしなかった。
名を呼ばれない者は、この国では“存在しない”。
私は影になった。
いや、影にすらなれなかった。
「ここ、君に似てる」
イフミーがそう言った。
「……どこが」
「うまく言えないけど。風が、ちょっと寂しがってる。君もそんな感じ」
私は答えなかった。
でも、自分の中で何かがきしんだ音がした。
その晩、焚き火を囲んで食事をしているとき、
イフミーが布袋を差し出した。
「はい、これ。今日の分の売り上げ」
「売り上げ?」
「昼間、祠の前で香袋をいくつか売ったの。
通りがかった旅人が、置いてった。
“神様がいたら、きっと怒ってる”って、笑いながら」
私は袋を受け取って、中を見た。
銀貨が3枚。細かな銅貨もいくつか入っている。
「君は?」
「私は……祈ったから、それでいいの。
ね、香りってさ。記憶みたいだよね」
私は答えずに、焚き火の火を見つめていた。
翌朝。
道すがら、小さな露店の集まる集落を通りかかった。
「パン、買ってこうか」
イフミーがぽつりと言う。
「食料、減ってるもんね」
露店で並ぶのは干し果実や干し肉、薄焼きのパン。
イフミーは、銀貨1枚を出して、干しパンと薄いベリーの乾果を袋に詰めてもらっていた。
「……君、商売うまいね」
「旅って、食べなきゃ死ぬでしょ? それに、君が食べるなら、私も嬉しい」
袋の中の重みが、胸に響いた。
それは“誰かと稼いで、分けて、使う”という、
生きている証だった。
その夜。
私は自分の荷袋から、かつての“名札”を取り出した。
真鍮で作られた、小さな板。
本名ではなく、“跡継ぎ”として与えられた仮の名。
何度も川に捨てようとした。
でも捨てられなかった。
名前が消えるのが、怖かった。
けれど今夜、私はその板を、祠の石の上に置いた。
「ここに、置いてく」
イフミーは何も言わなかった。
ただ、そっと焚き火を少し強くした。
それだけで十分だった。
そして私は、はじめて自分の口で呟いた。
「……私には、まだ“名前”がないんだ」
それは、喪失ではなく、はじまりの言葉だった。
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