1-3 犬の見せ物
遠吠えが聞こえた先に、パッと顔を向ける。羽衣も同じように振り向き、余花のそばにぴたりとついた。
「野犬でしょうか。ここまで降りてくるとは珍しいですが……」
羽衣の心配そうな声に、通りを歩いていた男が笑った。
「なんだ、お前さんたち、でっけぇ犬っころの芸を見たことないのかい?」
「大きな犬、ですか?」
相手は「ああ」と頷きながら、余花たちの風貌を窺ったようだった。偉いところのお嬢さまなら下手な態度は自分の首を絞めることになる。だが、余花も羽衣も男を邪険に扱わなかったからか、ある程度の礼儀を持ちながら口調は崩したまま教えてくれた。
「もう少し行った先に見世物小屋があるんだよ。歌や踊りの芸を見せてくれるんだが、そこの人気者が人の子ほど大きい犬の手習だ」
「犬の手習?」
「ああ。人が教えたことをすぐに覚えて繰り返す。まあ、人からすれば簡単なことだが、犬がやるんだからこりゃあすごいと話題になってな。遠吠えは芸が始まる合図ってことで、店主が鳴かせてんだよ。普段は本当、お利口で大人しいよ。暴れたことなんて一度もない」
時間があるなら見て行ったらどうだい、と男は勧めて去っていく。
「どうされますか?お嬢さま」
「人気者というなら見てみたいわ。それほど子どもほどに大きな犬というのも楽しみね」
「凶暴でないなら良いのですが……」
「お利口って言っていたわよ」
男が言っていた先へ、足を向ける。犬の遠吠えに怯えた人間は余花たちだけのようだったから、町では知られた存在らしい。たびたびお忍びで来ているのに知らなかったと思いながら歩を進めれば、思ったよりも先に目的地があった。
「大通りにあるわけじゃなかったのね」
橋の向こうまで人が流れていく。橋を渡れば大通りが終わり、職人通りへ入る。大通りと職人通りはどちらも人出が多い。が、賑わいの色が違う。大通りはどちらかといえば秩序が保たれた賑わいを見せ、職人通りは時たま怒声も響く少し治安が悪い場所だ。大通りからは橋一本の場所にあるからそこまで危険はないけれど、余花はなるべく避けている。
どうしようかしらと、道の端で立ち止まる余花に、羽衣の視線も、どうするのですかと、問うてくる。
「橋の上から見てみましょう。あまり遠ければ諦めるわ」
「念のため、私が先に行きます」
橋の上ならば大通りの目も届く。そこで悪さをする人は滅多にいない。だが、万が一を考えて羽衣が余花の前を歩き、余花が人と触れ合わないように欄干のほうへ寄せる。
人通りは多かったが、悪い雰囲気はなかった。心配することもなく、橋の上まで着き、職人通りを見渡した。
「あそこでしょうか。人だかりができています」
余花が見えるように、羽衣は少しだけ体をずらした。
彼女の肩越しにそれを見た余花は、背筋がぞわりと震えるのを感じた。
「男の言うとおり、大きな黒犬がいますね。あの大きな布きれは衣装でしょうか? 客が何かを言って、犬がそれに答えているように見えますが……」
「羽衣、もう少し近くで見てみましょう」
「人が多すぎます。大通りとは違うのですから、ここまでで我慢してください」
「だめよ。もっと近くで……あの子がよく見えるところまで行ってちょうだい」
ぎゅっと羽衣の袖を握る。
「お願い」
羽衣は難色を示す。だが、危険を避ける余花がここまで頼むのも珍しい。少し考えた後、「失礼します」と声をかけて手を握った。
「私から離れてはなりませんよ」
「ええ。ありがとう、羽衣」
ぎゅっと手を握り返す。はぐれないようにという意味もあった。……怖い、という感情もあった。
ゆっくりと歩き出す羽衣についていきながら、余花の目は黒い犬に釘付けになっていた。
いや、違う。
あれは犬ではない。
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