第2話 ただ可愛くて怖い存在

 どこまでも空き家ばかり続くみたいだ、とハルは思った。

 低いフェンスで囲まれた小さな公園は、夜風に晒されるだけの空き地同然で、その周りにも空き家ばかりが点在していた。


 街灯は少し先の道路際にぽつりとあるだけで、足元には薄暗い影が落ちるばかりだった。


(……マジで、なにやってんだよ、俺)


 さっきあの公園でわめき散らしたことを思い返して、思わず身を縮める。

 HPゼロだのなんだの、考えなしに叫んで……今さら誰かに聞かれていやしないかと不安になる。


 それでも、この辺りは人の暮らしが最低限残るだけだ。

 昼間は細々と干された洗濯物を見かける程度で、夜になれば窓明かりもわずかに滲むだけ。


 静けさに満ちた街はどこまでも空っぽで、まるで自分の中の空洞をそのまま引き伸ばしたようだった。


 ハルはそっと息を吐き、街灯の下を通り過ぎるとき長く伸びた自分の影に目を落とした。それがやけに脆く見えて、思わず早足になる。


 やがて、少しだけ人の気配が増した道へ戻る。ぽつぽつと灯る古びた外灯や、遠慮がちな家の明かりがあるだけで、ほんの少し心が和らぐのが情けなかった。


「……バカみてぇだな、俺」


 苦笑しながらも、脳裏に過る三次元女子からのトラウマに胸をちくりと刺され、どこか泣きそうだった。


 見慣れたアパートが闇の向こうに浮かぶ。築三十年を越す建物は、それでも少しだけ人の匂いがした。どこかの部屋から洩れる深夜番組の軽い笑い声が、遠くでぼんやり耳の奥を震わせた。


 ハルはそれに救われるように小さく息を吐いた。

 そして、そっと自分の胸の奥に触れるようにして思った。


(……まぁ、何とかやってみるしかねぇよな)


 そう自分に言い聞かせるようにして、ドアノブを握った指先がかすかに震えた。


   ***


 部屋に戻ると、空気はわずかに暖かかった。

 その源は、部屋の隅で小さく寝息を立てるマイだ。


 薄い布団はいつの間にかずり落ちていて、肩が少し出ている。

 ハルは小さく息をつき、だらしなく伸びたトレーナーの袖で額の汗を拭いた。

 ほんの少し躊躇いながら近づき、そっと布団の端を引き上げる。


 すると、わずかにマイの吐息が指先に触れた。あたたかい。それだけで、何かが胸の奥で変に跳ねた。


 「……やっぱ、可愛いよな」


 思わず洩れた言葉は、どこか苦笑混じりだった。

 こんな自分の部屋に転がり込んでくるには、あまりに場違いな存在だ。


 背は170に届かず、最近少し出てきた腹をくるむように、だらしなくトレーナーを着込んだオタクヒッキーと、こんなにも穏やかに寝息を立てる、美少女――。


 「……全く、どうしたものか」


 ハルはそうつぶやき、無意識に黒ぶち眼鏡を外して裾で念入りに拭いた。

 恐る恐るマイの寝顔を覗き込むが、やはり現実は変わらなかった。


 (さて、俺は……どこで寝ようか)


 眼を泳がせ、少しの間思案に暮れる。

 やがてハタと頷くと、視線を押し入れへ向けた。


 小さく笑って自分に問いかけ、視線を押し入れへ向けた。

 そこから引っ張り出したのは、二十そこそこで買った安物の寝袋だ。

 当時は正月の初売りで徹夜の行列に並ぶための必需品だった。

 あれから何年も経って、その気力もとっくに擦り切れたけれど――


 こうしてまだ部屋の隅に転がっていて、結局、自分は大して変わっちゃいない。


   ***


 起き抜けの視界はまだぼやけていて、いつものように寝癖を無意識に探る。

 ふと隅に目をやると、布団に顔まで潜り込んだマイの髪から、細いアホ毛がひとつ、ぴんと跳ねていた。その無防備な仕草が、昨夜から少しも変わらず人間だった。


 (やっぱ……この子、人間なんだよな)


 確信のような独白が喉の奥で転がる。

 洗面台でおざなりに顔を濡らし、流しっぱなしの水音を聞きながら、胸の奥に沈んでいくものをなんとなく眺めた。


 PCの前に座り、ログインを繰り返す。

 SNSの無意味な投稿、投稿サイトの伸びない数字、深夜に増えたはずのアクセスが思ったより少なくて、小さく鼻を鳴らした。


 それもいつもの朝だ。

 ……ただ違ったのは、背後で気配がしたことだ。

 マイがそっとこちらを覗いている。その気配が、ディスプレイに映り込んだ。


 いつの間にか、マイはハルの背後までそっと来ていた。

 頬が触れそうなほど近くで画面を覗き込まれ、ハルは反射的に椅子を引いて息を呑む。


 (おいおい、近っ……!)


 間抜けなくらい距離を取ったはずなのに、視界に入ったマイの横顔はどこか幼くて、思わず(……可愛いじゃん)と胸の奥で呟いてしまった。


(……何回目だよ、これ)


 自分に呆れながらも、次にマイがもう一歩だけ寄ってきた時は、もう椅子を引くことはしなかった。ただ息を詰めるだけで済んだ。


 「これ……空白――多い。なめらかじゃ、ない。惜しい。」


 マイの声は不思議に柔らかかった。

 ハルは「……おい、それ褒めてんのか?」と小さく笑いながら目を逸らす。

 昨日あれほど怯えたはずなのに、今はもう少しだけ、平気だった。


 唐突に、マイが「お腹、空いた」と呟く。

 ハルは妙にほっとして、慌てて台所を漁り、半額のパンや総菜を並べた。


 マイは並べられたそれを一つずつ眺め、やがて迷ったようにして、そっとビターインゼリーを手に取った。


 「……これだけで、いい」


 そして小さく口をつけ、ちゅーっと控えめに吸う。

 ハルは思わず頭を掻き、視線を半額シールの張られた総菜パンへと逸らした。


 (体型、気にしてんのかよ……ほんと、変なやつ)


 そんな些細なことが、「ただの変なやつ」から、どこか目を離せないものへと変わっていった。


   ***


 「ピンぴろりーん」


 耳障りなほど軽薄な着信音が、部屋の空気を割った。

 ハルは慌ててスマホを手に取る。画面には「和泉友人」の名が光っていた。


 《どや? ロボちゃんの様子は?w》


 《お前ホントにドロイドのモニターなんか? で、タイプは何だよ。物書きか?》

 (……物書き、は合ってるけどよ……)


 《疑うんかw なら見てみいw》


 スクロールした画面を見ながら、ハルは小さくため息をついた。

 確かに書類には「物書き専用のドロイド」とあった。

 でも、そいつがどう見ても生身の少女だ。

 ズレた批評をしては、既にしぼんでしまったビターインゼリーに執着している。

 

 《ドロイド、のはずだよな……一応。》


 文字を打ち込みながら、ハルは自分に言い聞かせるようにスマホを睨んだ。

 既読がついて、すぐに返事が飛んできた。


 《なんだよ、疑ってるのか――で、どうなんだ様子は?》


 ハルはスマホを持ったまま、小さく息を吐いた。

 (疑われるのも仕方ねぇけどな……)


 画面を指先で叩きながら、ぽつりと打つ。


 《くりゃわかるよ》


 文字を送り出してから、少しだけ胸がざわついた。

 もし和泉が本当に来たら、この異様さを目の当たりにしてどう思うんだろう。

 そして、それを見た自分はどんな顔をするのか。


   ***


 チャイムの音が鳴る前に、ドアの向こうから間延びした声が聞こえた。


 「ちーっす!お届け物の確認に参りました~、とか言って?」


 軽薄な調子がいかにも和泉らしくて、ハルは思わず眉間を押さえた。


 ドアを開けると、和泉がニヤけた顔で立っていた。

 玄関先に立つだけで、どこか場違いな匂いがした。

 普段なら悪態の一つもつきたくなるところだが、ハルは息を詰めたまま切り出す。


 「おい有人、お前ドロイドが来るって言ったけどよ……どう見たって人間だぞ」


 声は思いのほか掠れていた。

 それを聞いた和泉は「何言ってんだお前」と肩を揺すりながら、いつもの調子で笑って見せた。


 そして、勝手に部屋を覗き込み、PCに向かってカタカタと何かを打ち込むマイを見つける。モニターには、ハルの小説ページ。妙に鋭い文が、どんどん書き換わっていく。


「見りゃわかるって」


 ハルの声は少し擦れていた。

 和泉は「ったく何だよビビらせんなよ」と呟きつつマイの後ろへ回り込む。


 ――そしてマイが、ゆっくりと振り返った。


「あっ……」


 和泉の軽薄な笑みが、目に見えて引きつる。


 「……やべ、人間だよなこれ。お幸せに」


  最後だけ妙に真面目な顔をしてそう呟くと、和泉は踵を返し、ドアを開ける音だけ残して足早に去っていった。ハルはその背中を唖然と見送りながら、軽く首を左右に振った。


 「ったく……これだからな。でも……腐れ縁は中々切れねえ。」


 声にしたところで、どうせ本人に届くわけでもない。

 それでも口に出すと、ほんの少しだけ胸のざわめきが落ち着いた気がした。


   ***


 ドアが閉まる音だけが、薄いアパートの壁に響いて消えた。

 和泉の軽薄な後ろ姿が頭に残って、ハルは小さく息を吐く。


 マイはまだPCの前で、無言でキーボードを叩いていた。

 その背中を見ているだけで、どうしようもない不安が腹の底を這い回る。


 「……もう、こうなったら電凸するしかねえだろ」


 呟いた声は、無理やり自分を押し出すように少しだけ強かった。

 スマホを手に取り、指先で番号を叩き込む。

 呼び出し音がいつもより遠く聞こえた。

 数コールで繋がった。


 『お電話ありがとうございます。ロボテックカスタマーサポートでございます。』


 機械的で、それでも妙に明るい女の声だった。


 「どう見ても人間なんですけど、どうなってるんですか?」


 自分でも思ったより率直な声が出た。

 しかし返ってきた言葉は、薄っぺらいマニュアル通りの微笑みだった。


 『お褒めの言葉ありがとうございます。弊社パリーナは「人間と寸分違わぬ自然さ」をモットーに開発されております。ご満足いただけて光栄です。』


 「……いや、そうじゃなくて……」


 『なお詳細はカスタマーポータルからご確認を――』


 「あーもういいわ。」


 ハルは溜息と一緒にスマホを放り出した。

 マイは小さく瞬きをして、何もなかったように視線を戻す。


 電話を切ったあと、何も解決しなかった苛立ちがじわじわと胸を満たしていく。

 ハルはやけくそになって、小さなテーブルの上にスマホを放り出した。

 プラスチックが軽い音を立てて転がる。


 「……っつーの」


 小さく毒を吐いたその時、

 マイが「どうしたの?」とでも言いたげに、そっと隣に座り込んできた。


 近い。妙に、近い。

 (どうもこうも……お前のせいやろがい……)


 声には出さずに心の中で叫ぶ。

 なのに次の瞬間、思わず喉の奥から変な声が漏れた。


 「うあ、っ……つ」


 マイは小さく首を傾げるだけで、何も言わなかった。


   つづく

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