第35話 槍と地を得て
午前の陽が雲間から差し込み、木々の葉を揺らしていた。
列の先頭を行く騎馬の影が道のくぼみに伸び、乾いた車輪の音がそれを踏んでいく。
ようやく、道が拓けた。
視界の先に、低く苔むした石垣と、草の生い茂る小高い丘。その上に、砦らしき構造物が姿を見せた。
といっても、堂々たる城とは程遠い。
砦というにはあまりに小さく、塔も矢倉も崩れかけていた。
それでも、木製の門はなんとか形を保っており、壁の一部には古い家紋の痕跡が残っている。
「……ここが、ヴァルト丘地ですか」
オズベルが、馬上から低く呟いた。
周囲に散在する農家らしき家々も、瓦ははがれ、壁は割れ、畑も荒れが目立つ。
だが、煙が立っているところもあり、完全に見捨てられていたわけではない。
「……人の気配はある。民が残っているようだな」
ファーレンもまた、手綱を緩めながら視線を前へ向けた。
道の端には、農具を手にした数人の村人たちがこちらを見ていた。
怯えの混じった目で、しかし一部には好奇とも希望とも取れる色があった。
彼らにとって、この地を治める主は長らく空席だったはずだ。
――今、その空白を埋める者たちが、ここへやってきたのだ。
「下馬。ラルス、周囲に偵察を回せ。詰めの者たちは装備を確認して、砦内へ」
オズベルの指示が飛ぶ。従士たちが即座に動き始めた。
門の前に立ったとき、錆びついた扉が音を立てて開かれた。
中から現れたのは、年老いた兵装の男と、その背後に並ぶ三名ばかりの古兵。
「……新たな殿か」
男の言葉は重く、しかしどこか乾いていた。
「グライス家の名において、これよりこの地を預かる。騎士、ファーレン=グライスだ」
馬から降りたファーレンが一礼する。後に続くオズベルも同様に頭を下げた。
男はそれを見届けてから、わずかに口元を緩めた。
「……引き継ぎといっても、残せるものは多くない。人も、物も、あまり残っておらんのでな。許されるなら、砦の要点だけでも案内いたそう」
「助かる。よろしく頼む」
老兵の案内で、ファーレン一行は砦の中へ足を踏み入れる。
門の内側には、石敷きの中庭と、それに面した木造の詰所、さらに奥に指揮官用の間があった。
どれも傷みが目立ち、かつての戦や放置の年月を感じさせるものだった。
オズベルは周囲に目を配りつつ、無言で歩を進めた。
あの戦から数年。血と火の中で、何度も槍を掲げてきた。
だが、いま目の前にあるのは――戦場ではない。
旗を掲げ、地を得た者が、そこに生きる者たちを守るために立つ、そんな場所だった。
「……ここが、我らの立つ地か」
誰に向けるでもないその呟きに、風が答えた。
砦の頂には、まだ旗は掲げられていない。
それがいつか、彼らの色を映す日が来るのかは、これからの働きにかかっていた。
砦の詰所には、風が吹き込んでいた。
窓枠の一部は歪み、扉も蝶番が緩んでいる。
土壁にはひびが走り、床には湿り気が残っていた。使われぬ年月が、空気そのものに染み込んでいた。
「……こりゃあ、簡単には寝床にもなんねぇな」
天井を仰いでいたラルスが、ぼやくように呟いた。
梁からは埃が落ち、軋む音が微かに響いていた。
「寝所にするなら、板を打ち直して、乾燥させないと無理ですね。大工と道具があればの話ですが」
オズベルが壁の亀裂に手を当てながら言った。
言葉は自然と、かつての自分では思いもよらなかった領分へと向かう。
「とりあえず、使えそうなもん書き出しとく。備品、寝具、火打ち石、灯り……ついでに炊き場の確認もしといた方がいいな」
「頼みます。俺は兵の寝場所と、倉庫の整理を」
「へいへい、こっちは気張らずやるさ。お互い、城持ち気取りにはまだ早ぇからな」
ラルスが手をひらひらと振って廊下へと消えていった。
オズベルは静かにその背を見送り、砦の内へと視線を巡らせた。
兵を収容する部屋、物資を保管する庫、指揮官用の小部屋。
あるにはあるが、どれも機能不全で、まず整備から始めなければならない。
土と埃の匂いの中で、戦場とは違う重みが全身にのしかかる。
「……従士ってのは、こういうことまでやる立場だったか」
ぽつりと漏れた独り言に、誰の答えも返らない。
ふと、窓の外に目をやると、草に覆われた訓練場で、何人かの兵が槍を構えていた。
動きは不格好で、足元も定まらない。だが、その姿勢には必死さがあった。
――あいつらが立つ場所を整えるのも、俺の務めか。
そんな思いが胸に灯ったとき、扉が軋んで開いた。
「オズベル殿、失礼します」
若い従士のひとりが顔をのぞかせた。
「倉の鍵、見つかりました。かなり古いですけど、まだ使えそうです。いまから開けて中を見ます」
「わかった。俺も行く」
腰の槍を一度手に取ったが、すぐに壁際へ立てかけた。
戦場でこそ輝くそれも、今はまだ、その時ではない。
いま必要なのは、備えを整え、地を耕し、人を繋ぐための“目”と“手”だった。
砦の外、丘のふもとにある広場に、十数人の村人が集まっていた。
痩せた男たちと、日焼けした女たち。子どもを背負った若い母もいる。
誰もが無言のまま、前に立つ騎士を見つめていた。
その中心に立つファーレン=グライスは、冷えた空気を断つように声を発した。
「この地は、帝国よりグライス家が預かる領地となった。
今日より、この砦とその周辺は我が支配のもとにある」
声には揺らぎがなかった。若いながら、剣と火の中を潜ってきた者の口調だった。
「これまでの混乱は終わりだ。
働く者には秩序と守りを、背く者には裁きを。そう心得よ。
……以上だ。話があるなら、従士を通せ」
そう言い置いて、ファーレンは一歩下がった。
入れ替わるように、オズベルが前へ出る。
「砦の整備、物資の整理、畑や水路の確認。こっちの仕事も多い。
だから、あんたらの手も借りることになる。
おれはオズベル。ファーレン様の従士だ。砦でのことは、俺を通してくれればいい」
静かに告げると、ざわめきが少しだけ起きた。
そのなかで、年老いた女がひとり、かすれた声を出した。
「……また、置いていかれるんじゃないかね。前にもいたよ。
砦に来た者がいて、ちょっと見回りして、すぐにいなくなって……」
オズベルは、女の顔をまっすぐに見て、短く言った。
「そうならないように動く。
ここに骨を埋めるつもりで来た。……少なくとも、俺はな」
また沈黙。そのあと、若い男が一歩前へ出る。
「水路がな。塞がってて、雨のたびに畑が駄目になる。
何年も誰も手をつけられなかった。……見てくれねえか?」
「ああ。優先して見る。
砦と村をつなぐ道も手を入れるが、それと並行でやる」
応じるオズベルの声に、はじめてわずかな安心が混じった。
「火がつかねえんだ、あの竈」
「納屋の屋根が落ちそうだよ」
「獣よけの柵も、壊れてて……」
口々に漏れはじめる声は、ささやかだが、確かに“生活”の匂いをしていた。
それをオズベルはひとつずつ、無理なく拾って聞いた。
語気を強めることも、笑ってごまかすこともせず、ただ必要な分だけ、真っ直ぐに返す。
風が吹いた。砦の方角から、細く伸びる道の上を、土埃が舞っていた。
戦のように声を張る必要はない。だがここでもまた、人を動かし、土を動かし、日々を守る槍が求められる。
そのことに、オズベルは気付いていた。
朝靄の残る砦の中庭に、乾いた木材の音が響いていた。
積み直された材木が順に並び、半壊していた倉の骨組みが整えられていく。
「……そっちは三本、横材で押さえとけ。杭は、午前中のうちに打ち終える」
指示を出すオズベルの声は大きくはないが、必要な場所には確実に届いていた。
村人たちは黙々と作業にあたり、一部の兵士たちも手を貸している。
砦の修復は、軍事施設というよりも、生活の基盤を作る作業になっていた。
納屋の整理、水路の掘り直し、外壁の補強、そして井戸の囲い直し。
「――ああ、それ、継ぎ目が甘い。いずれ崩れるぞ。やり直せ」
若い兵が焦ったように頭を下げると、オズベルは続けた。
「慌てて崩れたら、骨が折れるだけじゃ済まねえ。……仕上げは急がず丁寧にやれ」
兵士は短く「はい」と答え、再び手を動かした。
周囲では村の若者たちが、兵の動きを見よう見まねで倣っている。
かつてのオズベルがそうであったように、初めて触れる作業に手間取りながらも、黙ってついてきていた。
その様子を、砦の高所からファーレンが見下ろしていた。
「……変わったものだな」
横に控えるラルスが、小さく笑う。
「変わった、というより……育ったんでしょうね。あいつなりに。
戦場で培ったものを、こうやって地に下ろして使える従士ってのは、そう多くない」
ファーレンは答えず、視線だけを下にやった。
オズベルは今、剣でも槍でもなく、人を使って砦を動かしていた。
無言で運ぶ者、黙って従う者、少しずつ口を開く者――
誰ひとり声を荒げることなく、それでも確かに、砦は回り始めていた。
昼過ぎ、砦に戻ってきた使者がひとり、急ぎ足で主棟へ駆けこんだ。
帝都の名が記された封筒が、主の手に渡る。
そして――その夜。
ファーレンは従士を招集した。
火を灯した簡素な部屋に、オズベルとラルスが顔を揃える。
「新たな命令が届いた。……東方方面軍の動きが活発になっている。
これまでの小競り合いでは済まん。大規模な編制が進んでいるらしい」
ファーレンの声は低く、だが躊躇はなかった。
「我らグライス家にも招集がかかった。……三日後、この砦を出る」
オズベルの眉がわずかに動いた。ラルスは深く頷いた。
「……行くんですね」
「行くさ。俺は、まだ“騎士”にはなったが、“領主”としては名ばかりの存在だ。
地を得たとて、それを守る戦をこなさねば、上の連中は認めん。……俺は、名だけでは終わらん」
ファーレンの目が、燻る火の色を映して揺れていた。
オズベルはその横顔を見つめながら、心のどこかで、槍の重さを思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます