第34話 新たなる地
陽が高く昇る頃、戦場に残された丘は、すでにかつての気配を失っていた。
火と血が支配した場所には、今、規則的な足音と指示の声だけが響く。兵たちは片付けと収容に追われ、物資の移送や野営地の再構築に奔走していた。
オズベルは、槍を脇に立てかけ、荷の山の傍で腰を下ろしていた。
目の前には、破れた旗が二枚。どちらも敵のものだったが、一方は明らかに指揮幕に掲げられていたと見える重厚な作りだった。
「……これも、記録に残るんだろうな」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
すぐ傍で巻かれていた羊皮紙には、文官らが記録した「戦功一覧」が転写されていた。斥候が集めた情報と、各隊からの報告をまとめ、功績の程度を順位付けしていくという作業だった。
「前衛突破、敵将討伐、丘制圧……」
低く、重く、文官の声が続いていく。
その報告の中に、「ファーレン=グライス」という名前が幾度か出た。
味方部隊が膠着する中、独断での突撃、敵陣への直接攻撃、そして魔法兵への対応。指揮の明快さと損耗の少なさも加味され、評価は高いものとなりつつあった。
「……騎士任命、あるかもな」
別の従士が呟いたのを耳にしても、オズベルは振り向かなかった。
ただ、槍の石突を握り直し、少しだけ空を仰いだ。
戦は終わっても、空気は冷えていた。
風が吹けば、焦げた草と乾いた血のにおいがまだ鼻を突く。
だが、それでも風景は変わろうとしていた。
テントの奥から、ファーレンが出てきた。
短く整えられた鎧の留め具を確かめつつ、周囲を見渡すその姿は、かつて従騎士であった時よりも、どこかしら輪郭が際立って見えた。
「オズベル」
呼ばれ、即座に立ち上がる。
「はい、ファーレン様」
「そろそろ、上役の使者が来る。詰め所へ同行してくれ」
「承知しました」
そのやり取りに、周囲の従士たちがちらりと視線を寄越した。
だが、誰も何も言わない。戦で指揮を飛ばし、仲間を生かした者として、今のオズベルには――それだけの立ち位置が、確かにあった。
歩き出しながら、ふと振り返る。
丘の上に、仮に立てられた小さな木製の十字。
そこには名札もない。ただ、仲間だった兵のために、誰かが突き立てたそれを、オズベルは静かに目でなぞった。
(名が残らぬ者の槍が、今の地を切り拓いた)
そう、心の中でだけ呟いて、彼はまた前を向いた。
簡素な帷幕の中、文官が座していた。
手元には幾重にも巻かれた羊皮紙と、青の封蝋が押された小筒がある。
文官の背後には、戦場全体を管轄する司令部から派遣された「戦功報告係」の軍使が控えており、場の空気を引き締めていた。
「……ファーレン=グライス殿」
名を呼ばれて、ファーレンは一歩進んだ。
その後ろには、従士であるオズベルが控えるように立つ。
「今次の戦、貴殿の隊は中央突破を果たし、敵将と目される者を討ち、味方の損耗を最小限に抑えた。これを高く評価する旨、本軍司令より伝達を承る」
文官が淡々と読み上げる。
事務的で抑揚のない声だが、その意味するところは明白だった。
「よって、帝国騎士としての任命を許可する。貴殿は以後、帝国騎士ファーレン=グライスとして、独立の指揮権を有し、配下を率いることが許される」
オズベルは、無意識のうちに姿勢を正していた。
目の前で告げられたその言葉は、ファーレン個人だけでなく、従士である自分たちにとっても、重大な意味を持っていた。
「さらに、付属の領地が一つ――」
文官が筒を解きながら続ける。
「北東方面、トルヴァ平地の外れ。山間に築かれた古砦を含む一帯を、貴殿の所領とする。名は――『ヴァルト』」
ファーレンは、その地名を一度、心に刻むように繰り返した。
その表情には誇らしげな色も、過剰な喜びも浮かばなかった。ただ、静かに受け止めていた。
「封地の詳細は後日、正式な軍勅と共に届けられる。まずは、貴殿の戦功に感謝を。帝国の旗の下、忠義を尽くされよ」
その言葉を最後に、文官は首を軽く垂れる。
「……受領いたしました」
短く、それだけを答え、ファーレンもまた一礼した。
帷幕の外へ戻る途中、オズベルはちらと主君の横顔を見た。
やはり、変わらぬ顔だった。ただ、その歩みは、どこか確かなものを踏み締めているように感じられた。
(これが……本当の始まりなんだ)
従士として仕える者の務めは、ここからさらに重くなる。
主君の地を守り、その名を高めるために、槍を掲げねばならない。
オズベルは、背筋を伸ばし直した。
ヴァルト――その名が、風に乗って、彼の耳にも深く刻まれた。
陽が傾きかける頃、砦の裏手にある小さな厩舎では、馬の足音と皮鎧の擦れる音がひっきりなしに響いていた。
荷駄の積み込みが進み、補給用の槍や矢束、干し肉や水袋が手際よく運ばれていく。いずれも、ファーレン隊が新たな地へ向かうための準備だった。
「この荷は三列目の馬車に。重ねるな、壊れるぞ」
オズベルの指示に、周囲の従士たちが素早く動く。
命令は簡潔に、だが的確だった。補給簿を確認し、配分に過不足がないよう目を光らせながら、彼は一つひとつの作業を見て回っていた。
戦場で学んだのは、槍の振り方だけではない。
部隊の動き、補給の流れ、兵の気配と配置。
指示を出すだけでなく、誰より先に体を動かすことが、従士としての責務だと知っていた。
やがて、帷幕の方からファーレンが戻ってきた。
騎士としての任命を受けたとはいえ、服装は簡素なまま。だが、背負うものの重さが変わったことは、見る者に明らかだった。
「進発は明朝とする。出発は騎馬二列、徒歩三列。先発で偵察を出す。オズベル、明け方までに編成を整えておけ」
「承知しました」
即答すると同時に、隊の帳簿と兵の名簿を胸元から取り出す。
すでに頭の中では、誰を先行に回すか、誰を護衛に充てるかが組み上がり始めていた。
「……慣れたもんだな」
ぽつりと漏らしたラルスに、オズベルはただひとつ頷くだけで返した。
砦に夕暮れの影が落ちる。
だが、その影の向こうには、未知の地での新たな生活と戦いが待っている。
ヴァルト――その名も、いずれ血と鉄で形を得ることになるだろう。
その初日を、オズベルは確かに迎えようとしていた。
夜明け前の砦は、まだ眠っていた。
だが、南門の脇では、すでに小さな隊列が整っている。
干し草を踏みしめる音、馬が鼻を鳴らす気配。空は白み始め、空気の冷たさが肌を刺した。
オズベルは、肩に掛けた槍の重みを感じながら、先頭に立っていた。
自ら選んだ位置だった。背後に並ぶ従士と数十の随伴兵。その全てが、今日から新たな地へ向かう。
それはただの移動ではない。――旗の下、地に根を張るための、最初の一歩だった。
「……隊列、整っております」
振り返り、声を張る。
ファーレンが頷くと、号令が短く響いた。
「進発」
その一言で、列は動き出す。
鉄の音、馬の歩み、荷車の軋み――それらが重なって、静かだった砦の朝に、微かな余韻を残していく。
砦の兵らが見送りに立つわけでもなかった。
だが、それが不自然だとは思わなかった。
この道は、誰もが通る。戦いの後に、新たな地へ赴く者たちの道だ。
それが報いであると同時に、責務であることもまた、皆が知っていた。
「……この道の先に、何があるんだろうな」
馬上のラルスがぼそりと呟いた。
オズベルは隣を向かず、前だけを見据えたまま応じた。
「何があろうと、我々の務めは変わりません。地を守り、人を導き、名を汚さぬこと。それだけです」
ラルスは笑ったような気配を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
小一時間も歩けば、砦の姿は背後の霧にかすれた。
その瞬間、オズベルの胸の内に、ほんのわずかだが風が吹いたように感じられた。
振り返ることはなかった。
今や向かうべき地は前方にあり、彼はその行く末を担う一人として、歩を進める。
名も形も、まだ定まらぬ地。
ヴァルト丘地――その名が、いつか地図に記され、人の営みに満ちるその日を夢見て。
彼らは、地に槍を立てるための旅へと進んでいった。
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