第33話 敵旗と風と槍
空は、重たく曇っていた。
陽の光は雲の奥に閉ざされ、砦を発った兵たちの列を、鈍い光が覆っていた。空気には湿気があり、遠くの森から鳥の声ひとつ聞こえない。
オズベルは列の前方、先遣の位置にいた。馬ではなく徒歩のまま、槍を肩に担ぎ、周囲の地形を目でなぞっていく。
左右には緩やかな丘、足元にはまだ水気の残る泥の道。前線に通じる軍道だが、手入れは行き届いていない。
後方では、ファーレンが馬上で進軍を指揮していた。従士たちがその周囲を固め、補給車列が間隔を取って続いている。
「気温が下がりそうだな。風向きが北からだ」
オズベルが小さく呟くと、近くを歩いていた副兵が頷いた。
「雨は……まだ、落ちてこなさそうです。ですが、午後には」
「ああ。斥候の報せも受けておけ。敵陣の配置は、開けた丘の向こう側だ。射程の短い弓隊なら、丘を越えられない」
副兵が走って後続へ伝令を戻す。
オズベルは再び、先を見据えた。
かすかに地面が変化していた。ぬかるみの質、踏み痕の密度、草の倒れ方――
誰かが通った痕だ。それも、今朝か昨夜のもの。数は多くないが、規律のある歩調だ。
敵の斥候か。あるいは後方補給の偵察か――
オズベルは眉を寄せ、後ろを振り返った。
その視線を察してか、ファーレンがわずかに顎を上げる。言葉はなくとも、そこに込められた意図は明確だった。
「――見極めてこい」
それは、従士としての信任だった。
頷くと、オズベルは足を止め、左右に軽く指を動かす。数名の兵が間隔を空けて前方に散る。足音を抑え、草を掻き分け、地形の起伏を頼りに敵の気配を探る動き。
自らは道の端を歩きつつ、丘の稜線をにらんだ。
この先に敵がいる。
だが、待ち伏せか、斥候か、それとも――
やがて、一人の斥候兵が戻ってくる。
「オズベル殿、報告です。敵の前衛、小規模ながら布陣あり。丘の裏に三十名ほど。陣形は散開、臨戦態勢にあり」
「……敵は、こちらの進路を察していたということか」
その場で即座に判断する。
丘の形状、風向き、日光の乏しさ――これらはすべて、正面突破に不利。だが、それでも突くべきとしたのは、上からの意図か、それとも……。
後方へ戻り、オズベルはファーレンのもとへ。
「敵、すでに前衛を布いています。こちらの動きを読んでいます。地形は敵に有利ですが、数は限られます」
「……突け、ということだな」
ファーレンは短く言い、眼前の丘を見据える。
「旗の立たぬ場所にこそ、道を通す。そう教わった」
その言葉に、オズベルは槍を握り直した。
命令が間もなく下される。
風が強まり、草が音を立てる。
その先に、戦の火は、確かに息を潜めていた。
短く鋭い角笛の音が丘の麓に響いた。
「進め!」
ファーレンの声が、馬上から全軍に放たれる。
その一声と同時に、鼓手が太鼓を鳴らし、従士たちが次々に命令を飛ばす。陣は動き出した。斜面を踏みしめ、泥を蹴り、槍を構えた兵たちが前へ、前へと突き進んでいく。
オズベルもまた、先陣を担う一人だった。
足元は滑りやすい。湿った斜面に身体を預け、左右の兵と呼吸を合わせながら登る。前方に敵の影が見えた。草の陰、低木の影に紛れるように散開し、迎え撃つ体勢を取っている。
「乱れずに詰めろ! 槍先、低く!」
自ら叫びながら、オズベルは前へ出る。
敵の矢が飛んだ。だが、距離が短いぶん、こちらの盾兵が先に前へと飛び出し、数本を弾く。弦の音、風を裂く音、兵の咆哮――すべてが混じり合い、音の海と化す。
距離が詰まった。
一番槍が敵に届いたのは、丘の三分の二を越えたあたりだった。
斜面を駆け上がったオズベルの部隊が、最前線で敵の陣形に突き当たる。そこからは、ただの衝突だった。
敵もまた、槍兵だった。
鎧こそ粗末だが、手慣れた構えをしている。陣形の間に斧兵が混じり、接近してからの打撃を狙っているのがわかる。
「左に斧! 崩すな、前を保て!」
オズベルは叫び、槍を突き出した。
泥を飛ばしながら踏み込んだ敵兵の胸を、寸前で突き返す。腕がしびれる衝撃。槍の柄がたわむのが、掌を通して伝わってくる。
後続の兵が叫び声を上げ、乱戦が始まった。
その最中、ファーレンの隊が右側から駆け上がってくるのが見えた。
重装の従士たちが半ば駆けるように丘を駆け上がり、中央突破を図る。
「中央、前へ出るぞ! 左右は維持しろ!」
オズベルは副長に指示を飛ばし、隊列を再編する。
丘の斜面が乱戦を生み、整った陣形は長く保たない。それでも崩さぬように、声を枯らして命令を出す。
ひとつの矢が、斜め後方から飛んだ。オズベルの右腕をかすめ、肩口で刃が止まる。だが、振り返る暇もない。
槍を突き返し、足元に転がった敵兵を踏み越えて前へ。
――敵前衛の一角を、確かに揺らした。
草の匂い、血の臭い、泥の感触。
すべてが戦場でしか得られない、あの感覚だった。
そして、オズベルの目はさらにその先――まだ崩れきらぬ敵の中段陣形を見据えていた。
突撃は確かに成功していた。
敵の前衛は丘の斜面で分断され、斧兵も散り散りに逃げる者が出始めた。味方の槍兵がその隙を突き、押し返す勢いは確かにあった。
だが――空気の匂いが、変わった。
「……火の匂い?」
オズベルが瞬時に鼻を動かし、振り返った。
後方、丘の麓近くで、地面が歪んだように見えた。次の瞬間、爆ぜる音が土を割った。
――轟音。
土煙とともに、火の束が爆ぜる。
それは火矢などという生易しいものではなかった。地面ごと爆ぜるような炎。魔法によって精製された、純然たる攻撃魔術――
「魔法兵!」
誰かが叫んだ。
すぐさま第二波の炎が、後方部隊の中程に降り注いだ。火の塊が地面に触れた瞬間、爆ぜ、熱風が地形ごと変える。
「――だめだ、隊形が、崩れる!」
副長の声が掻き消えるほどの叫び声。
混乱が走る。味方の後続隊が突撃の途中で足を止め、混乱し始めていた。
「炎の出処はどこだ!」
オズベルは斜面の逆側、木立の陰をにらんだ。
遠く、影の中にローブをまとった人物。腕を上げて詠唱の姿勢を取っているのが見える。
「狙撃距離では届かん! 突っ込ませろ! 盾持ち前!」
即座に声を張り上げ、命令を飛ばす。
後方の盾兵たちが前進。指揮の届く範囲で、中央に開いた突破口を通し、敵魔法兵の射線を遮断する動き。
そのとき、またひとつ炎が生まれた。
魔法兵が放った炎弾が、斜面の中央を狙う――そこには隊の要が集中していた。
とっさに、オズベルが叫ぶ。
「散開! 密集を避けろ! 斜面を転がってでも避けろ!」
指示を受けた数名の兵が転がるように身を翻し、爆炎は地を抉って土砂を舞わせる。
だが、それでも一人、二人は倒れ、火に巻かれて地を打った。
オズベルは前に出る。
槍を肩に担ぎ、味方の盾兵を引き連れて、斜面を駆け下る。
「左側のくぼ地から回り込め! 俺が目を引く!」
盾兵が無言で頷き、指示通りに動き出す。
オズベルはひとつ呼吸を吐き、次の瞬間には草を蹴って前へ出た。
敵魔法兵の視界に、はっきりと飛び込む。
距離はまだあるが、明らかにこちらに気付いた。
再び詠唱の構えを見せた、その瞬間――
別の方向から、草むらを蹴って現れた兵がいた。
ファーレンだった。馬を下り、剣を抜いた姿で、背後から敵魔法兵へ迫る。
魔法の詠唱が乱れる。
次の瞬間、ファーレンの剣が敵兵の肩口に深々と突き立った。
「……討ったか」
その光景を、オズベルは斜面の途中から見ていた。
敵魔法兵の姿が崩れると、丘の空気が一変した。
兵たちの動きが戻り、後方からは新たな号令が飛ぶ。
味方の陣形が、ふたたび進み始めた。
戦は、終わっていた。
敵はすでに陣形を崩し、散発的な抵抗だけが残っていた。
ファーレン隊の突撃を皮切りに、本隊がその背を継いで丘を制し、さらに横合いから別部隊が合流することで、敵の左翼を完全に切り崩したのだ。
丘の上に立ち、オズベルは槍の石突を地につけた。
肩には重さが残る。火の臭い、血の鉄、泥の湿り気。すべてが身体に貼り付いたようだった。
「……あれが、敵の指揮幕の痕跡です」
副長が指差した先、潰れた天幕と、転がる鉄具。
すでに誰もいないが、ここが敵陣の中核だったことは間違いない。
「敵将の首は、どうなった」
ファーレンの問いに、従士の一人が答える。
「味方の別隊が回収したとの報告が入っています。名もある者のようで、後ほど報告が届くかと」
ファーレンは頷いた。それだけだった。
喜びも昂ぶりも見せない。いつものように淡々と、戦の帳を確認していく。
その背を、オズベルはただ見ていた。
(この戦が、終わりを変える)
誰にも聞こえぬように、胸の中でだけ、そう呟いた。
この戦で得た突破の成果は大きく、本隊の進軍は確実に前進した。敵の防衛線が薄くなれば、戦線全体が動く。
その最初の槍となったのが、ファーレン率いるこの隊だった。
(領地が与えられるかもしれない……)
それは、騎士として独立するに足る勲功である。
オズベルも知っていた。これまで幾度も戦場を見てきたが、これほど明確に突破を果たした戦は稀だった。
「風が……強いですね」
副長が、静かに漏らした。
見上げれば、雲の隙間から射す陽に、破れかけた敵旗がたなびいていた。誰も掲げぬまま、倒れたまま、風に任せている。
オズベルはそれを、黙って見つめていた。
(何のために、槍を掲げるのか)
そう思った。
この槍が貫いたのは、ただの陣形ではない。
味方の進路、敵の意志、主君の未来――それらを貫いて、道を拓いた。
風は、旗の先より吹く。
ならば、己の立つべき場所は、決まっている。
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