第32話 嵐の兆し

 戦は終わっていた。


 あの斜面の戦場から数日が経ち、部隊は砦へと引き上げた。戦後処理もおおむね終わり、血の匂いも消えた今、砦の中庭にはいつも通りの兵らの声が満ちていた。

 だが、騒がしさの下に、何かが伏せられているようだった。


 朝靄の残る石畳を踏みながら、オズベルは詰所へと歩いていた。従士となってからというもの、こうして砦の奥を行き来するのも日常となったが、今朝の空気は何かが違う。兵たちの声が、どこか抑えられているのだ。近衛詰所の前を通ると、門番がちらと一瞥を寄越しただけで、敬礼もない。ふだんよりも警戒の色が濃いように思えた。


 詰所の戸をくぐると、すでにラルスが腰掛けていた。


「遅いぞ、オズベル」


「すみません。荷駄の確認をしていました」


 そう応じながら、オズベルは部屋の空気を見回した。朝の簡素な明かりの下、従士たちの姿はまばらだった。数日前の戦で傷を負った者は療養に回され、新しく配属された若い従士が数人、所在なげに壁際に立っている。


 そのとき、外から兵が顔を出した。


「オズベル殿、ラルス殿、ファーレン様よりお呼びです。戦議室へとのこと」


 オズベルとラルスは顔を見合わせ、小さくうなずいた。


「……やはり、来たな」


 ラルスが立ち上がりながら、低く呟いた。

 オズベルも黙って頷く。朝の空気が重かった理由が、ようやく形をとって現れた気がした。


 二人は連れ立って廊下を抜け、砦の主棟へと向かう。廊下の窓からは、中庭で訓練を続ける若い兵士たちの姿が見えた。ぎこちない槍の構え、遠く響く号令。だがその隣では、装備の手入れをする古参兵たちの手がやけに丁寧だった。


 戦の余韻がまだ消えきらぬ砦の中――

 その静けさが、嵐の前触れであることを、誰もが肌で感じていた。


 戦議室の扉が視界に入ったとき、オズベルはひとつ息を吐いた。

 扉の向こうに、また新たな命令が待っている。


 それが、何を呼び起こすのかを知ることもなく。

 ただ、命ずれば従うのみ。

 それが、従士の務めだった。


 戦議室の扉は重く、静かに開かれた。

 中は薄暗く、蝋燭の火だけが机上を照らしていた。

 その中心に、地図が広げられている。地の線は濃くなり、幾重にも書き加えられた印が、今度の戦がただの野戦ではないことを物語っていた。


「来たか。座れ」


 奥に立っていたファーレンが、声だけで二人を促した。

 甲冑は身に着けていないが、その顔つきには戦支度と同じ張り詰めた意志があった。

 オズベルとラルスは卓の端に控え、椅子には座らず直立のまま視線を地図へ落とした。


「次の命令が来た。……帝国からだ」


 ファーレンは言葉を切ることなく、地図の一点を指でなぞった。


「ここだ。ルフェル山地の東縁。古い砦が一つある。その西側一帯が、今度の戦場になる。規模はこれまでとは比べ物にならん。……敵が動いた。こちらも、それに応じる形になる」


 オズベルは息を詰めてその場所を目に焼きつける。かつて一度、名だけを耳にした山間地。防衛線の一角だったが、今は敵がそこを拠点に動きを見せているらしい。


「我らには、突破口を作る任が与えられた。前衛の一角として、味方本隊の到達前に突出し、敵の封鎖線を切り崩せ。……戦の口火を切る役だ」


 ファーレンの声音は落ち着いていた。だが、その言葉が持つ意味は重い。


「……遊撃では、ないのですね」


 ラルスの低い声に、ファーレンはかすかに目を細めて頷いた。


「そうだ。これは、戦局の本流に関わる。だからこそ、これをやる価値がある」


 一拍置いて、ファーレンはオズベルに目を向けた。


「お前の部隊はどうだ。連携、整っているか」


「はい。配置も人数も、全て確認済みです」


 口調は抑えられていたが、返答に迷いはなかった。

 数度の戦を経た今、オズベルの部隊は既にひとつの“輪”として機能していた。前に出る者、後ろを守る者、指示を繋ぐ者。そのすべてが彼の指揮で動く。


「いいだろう。今夜中に準備を整えろ。明朝、出立する。必要な補給は……こちらで手配済みだ」


 ファーレンは最後に地図を巻き、蝋燭の火を指で消した。

 その仕草一つにも、決意の色が濃かった。


 部屋を出ようとするその背中に、オズベルは言葉を投げなかった。

 ただ、続く足音を踏みしめるように、歩を重ねるのみ。


 戦場に出るより前に、心を決めさせられる。

 それがこの静かな戦議室だった。


 戦議室を出た時、空はまだ薄曇りだった。

 砦の中庭では、さきほどよりも人の動きが目に見えて速くなっていた。馬が引か れ、荷駄が積み上げられ、口数の少ない兵たちが槍と鎧を整えている。


「すでに動き始めてるな……」


 ラルスが呟き、オズベルも黙って頷いた。

 命令が上から下へと流れていく。それは誰かが声を張り上げずとも、訓練された者同士の動きだけで砦全体に伝播していくのだった。


 二人はそれぞれの詰所へと足を向けた。


 オズベルが戻った従士詰所では、すでに副長役の兵が待っていた。


「オズベル殿、出立との報せは――」


「ああ。明朝だ。整備班には今夜中に終わらせるよう伝えてくれ。装備は軽装で構わない。前衛任だ。速さを重視する」


 簡潔に言い渡すと、部屋の空気が変わった。

 若い兵たちが思わず姿勢を正し、古参の従士たちが手元の布を握り直す。


「荷駄の確認、済んでいます」


「隊列は昨戦と同じ配置でよろしいですか?」


 いくつかの確認が飛び、オズベルは順に返していく。すべて、手の内にある――そんな確信が、指先を通して伝わってくるようだった。


 ふと視線を窓の外に向けると、廊下を抜けていく兵たちが荷車を押していた。干し肉、水袋、矢束――それらが、夜のうちに整然と備えられていく。


 戦が近いことに、皆が気づいている。

 だが誰も騒がず、慌てず、ただ自分の持ち場をこなしていた。


 オズベルは自らの槍を手に取り、その重みを確かめた。

 手に馴染んだ感触は、いくつもの戦をくぐり抜けた証でもあった。


 背後で部下の一人が声をかけてきた。


「……戦は、やはり大きなものになるので?」


「そのつもりで動け。命令は徹底される。油断は一つも許されん」


 短く、それでいて重い言葉に、兵たちは頷いた。

 不安よりも、命令の明瞭さが勝っていたのだ。


 夜が砦に深く降りるころ、整備の音が静かに響き続けていた。

 火の灯る各所で、兵たちが黙々と動く。笑い声もないが、悲壮感もない。

 それが、戦を何度も越えてきた砦の顔だった。



 夜半、砦の天幕のひとつにて。


 風はなかった。空に星の灯りすら乏しく、砦のあちこちに点された松明だけが、微かに夜気を照らしていた。

 オズベルは天幕の端に腰を下ろし、静かに湯を啜っていた。中身はただの薄い干草湯だが、戦の前には妙に沁みる。


 幕の外では、歩哨の交代が行われていた。

 足音が遠ざかり、また近づく。それが幾度も繰り返される。


「……緊張してるのか?」


 ふいに声がした。振り向けば、ラルスだった。片手に水袋、もう片方にパンの切れ端を持っている。珍しく夜に話しかけてきたその顔には、笑みも険しさもなかった。


「いえ。ただ、落ち着かせているだけです」


 オズベルは素直に返し、椀をもう一口口に運ぶ。

 湯はぬるくなっていたが、それもまた悪くない。


 ラルスは幕の入り口近くに腰を下ろし、背を壁に預けた。


「従士になったとはいえ、少し前までは前線の片隅で、いつ潰れてもおかしくなかったのにな。……それが今じゃ、戦の口火を任される側だ」


 言葉の響きに誇りはなかった。ただ、過ぎた時の重みが滲んでいた。

 オズベルも返す言葉を持たず、黙って耳を傾ける。


「……なあ、オズベル。お前は、それでもやっぱり、前に出るつもりか?」


 一瞬、返答が遅れた。

 オズベルは椀を見つめ、その底に残った湯の揺れを見た。


「俺の立場が変わっても、槍の重さは変わりません。……それに、背中を預けてくる者たちがいるのなら、やはり自分の足で前に出るべきだと思っています」


 それが、答えだった。


 ラルスはしばらく黙り込み、やがて「……らしいな」とだけ言った。


 砦の外では、風の音がひとつ、瓦の上をかすめていった。

 それが夜の深まりを告げる唯一の気配だった。


 やがて火が静かに小さくなり、湯の残りも尽きた。

 それでも、まだ誰も眠りには落ちなかった。


 戦が迫っている――それだけが、夜の静けさの底に確かにあった。



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