第31話 交差する指令
戦の気配は、もう感じられなかった。
数日前までの騒がしさが嘘のように静まりかえり、砦の内外は、勝者のための陣地整理にすっかり様変わりしていた。敵の残滓は既に追われ、今は味方の陣が一面に広がるばかりである。土の匂いも、血の気配も、まだどこかに残ってはいるが、それも間もなく過去のものとなるだろう。
オズベル=ハスタは、砦の南側に設けられた臨時の連絡拠点の傍らに立ち、紙を広げて地形とにらめっこしていた。視線の先では、伝令たちが各部隊へと忙しく駆けてゆく。自分の持ち場が終わったわけではない。むしろ、ここからが本番だった。
「そっちは片付いたのか?」
声に顔を上げれば、ラルス=レークがひょいと顎を持ち上げて近づいてきた。鎧は土埃でくすんでいたが、その目はいつもと変わらず、抜け目ない光を宿していた。
彼はオズベルより二つ、いや三つほど年上で、戦歴も深い。もともと、オズベルが従士となる以前からファーレンの配下として動いていた男であり、いわば“従士の先輩”である。あの戦の後、幾度かの戦場を共にし、今では連携も板についてきたが、オズベルにとって彼への敬意は薄れていなかった。
以前の自分であれば、多少気安い口調で返していたかもしれない。だが、従士という立場を得て幾つかの隊を指揮し、経験を積む中で、彼は徐々に考えを変えつつあった。
上下を意識せずに並び立つなど、ただの理想論だ。役目を果たすには、筋を通し、礼を保たねばならない。
「はい。南端の谷筋は問題ありません。偵察も戻り、敵の動きは見られないとのことです」
気づけば、自然と口調がかしこまったものになっていた。
ラルスは、それに対して特段の反応を返さなかった。軽くうなずくと、彼もまた地図へ目を移した。
「こっちは、東の尾根沿いで少し手間取ってる。歩兵の一隊がまだ連携が悪くてな。ああ、騎士様からの指示だ。次の布陣を確認しておいてくれ」
「承知しました」
そう言って紙を受け取り、記された内容に目を通す。要点はすぐに把握できた。前線の配置替えと、数隊の再編成。大規模な進軍ではないが、指示を誤れば混乱が生じる。
読み終えたところで、ラルスが地図の一点を指差した。
「この丘の陰、昨日の戦でやられた隊の空白地帯がある。そこへ補填をかける形で騎兵が回されるらしい。前もって、通りの地形を確認しておいたほうがいい」
「では、私が先行して確認してまいります」
「悪いな、頼む。俺は後方の報告をまとめる必要がある」
ラルスが軽く手を振って去っていくのを見送り、オズベルは地図を手に歩き出した。以前よりも、こうした任務を任されることが多くなった。信頼されている実感はある――だがそれだけではない。
「腹心」と呼ばれるようになって久しいが、それが重みを増すほど、彼は自分の足元をより厳しく見つめるようになっていた。
剣を抜くだけが従士ではない。全体を見て、動かし、支える者であれ。
そう、あの男――ファーレン=グライスが、何も言わずとも示し続けてきた姿だ。
あの背を追いながら、自分もまた歩みを重ねている。槍を前に出すのではなく、指示を飛ばすその立場に、今や少しずつ近づきつつあることを、オズベルは自覚していた。
丘を登ると、風が強くなった。乾いた草がざわざわと鳴き、帷子の裾を揺らす。
遠く、味方の旗が風に翻っていた。そこへ至るまでに、自分が何をなすべきか――今は、それを考えるだけでよかった。
あれからしばらく、斥候の報が届いた。
森の北縁を巡って進んでいた敵の一隊が、ふたたび姿を現したという。先の戦闘で一度散らされたが、壊滅までは至らず、残存兵が合流して新たに編成を整えたものらしい。地形を活かし、迂回気味にこちらの背後を突こうとしているのは明らかだった。
詰所の一室に集まった従士たちは、地図を囲んで短く息を呑んだ。
扉を背に立つファーレンは、口元に指を添えて押し黙っている。
「この動き……敵は、またしてもこちらの間隙を衝いてくるつもりか」
呟いたのはラルスだった。分厚い眉をしかめ、地図上の丘陵部を指でなぞっていく。
確かにそこは、先日の小競り合いで味方の展開が遅れた一帯であり、斥候の報が届きにくい地でもある。地形的な見通しの悪さに加え、森の枝道も複雑だ。敵にとっては、隠密行動を取るには好都合な場所だった。
「正面の陽動に釣られるように戦線を出せば、背を取られる。だが、このまま背後を許せば――」
「合流を許して、包囲の懸念すら出ます」
オズベルの声は静かだったが、芯のある調子だった。幾度もの戦場を越えてきた今、戦況の読みも格段に深くなっている。単なる突撃役ではない。策の要も理解し、状況に応じて必要な一歩を見定められる。
ファーレンは軽く頷き、やがて指を伸ばして一つの丘陵を指した。
「この尾根を越えた先に、崖沿いの獣道があったはずだ。視界が利かず、騎馬は通れんが、軽装の歩兵ならば回れる。あそこに一つ、こちらから圧をかける隊を回せば、敵も動きを抑制されるはずだ」
「奇襲気味に押さえるわけですね」
ラルスが短く返す。だが、次の瞬間、その視線は自然とオズベルへと向いた。
オズベルは頷いた。既に胸中で幾つかの布陣案を組み上げていた。味方の展開、敵の動線、地形――すべてが頭の中で組み上がっていく。
そして、少しだけ間を置き、口を開いた。
「……確認ですが、こちらの側面を回る策、私にお任せいただけますか」
その口調は、自然と丁寧なものになっていた。
従士となって時が経ち、軍の中で動くうちに、オズベルの中で「上の者との言葉遣い」は、いつしか意識すべきものとして根づいていた。無骨な若者だった頃よりも、自分の立ち位置や言葉の重さを知るようになっていたのだ。
ラルスの表情が動くことはなかったが、彼の視線に揺らぎはなかった。
「よかろう」
ファーレンの返答は端的だった。だが、それは信頼の裏返しでもある。
「ただし、敵に気取られればそのまま孤立する。速さと慎重さを両立しろ。お前なら、それができるはずだ」
「心得ております」
応える声に、迷いはなかった。
やがて、その場にいた従士らが一人、また一人と持ち場へ向かい始める。
オズベルは部屋を出る直前、ふと背を振り返った。ファーレンと目が合う。
「風を読むには、旗よりも先に空を見よ」
過去に一度だけ聞かされたその言葉が、今も心に残っていた。
その“風”がどこへ吹いているか――今の自分なら、読める気がした。
オズベルは頷き、扉を静かに閉じた。
――策を仕掛けるときが来た。
崖沿いの獣道は、濡れた岩肌と木の根が絡まり、進軍には細心の注意を要した。
足を滑らせれば即座に転落、あるいは物音で敵に察知される。だがオズベルは一言も発さず、先頭を切って進み続けた。指揮下の歩兵たち――半数は軽装の弓兵、残りは槍を短く持った機動寄りの者たち――もまた、息を殺してその背を追った。
風が、森の奥から吹いてくる。木々のざわめきと共に、どこか焦げた匂いを孕んだ熱を運んでいた。
(――魔法か)
オズベルの足が止まる。微かな熱の流れ、湿った空気の圧――これは自然のものではない。
彼は、前方の茂みに身を伏せた。そして、わずかに手を挙げて後方へ合図を送る。
伏せろ。
兵たちは訓練どおり、一斉に姿勢を低くした。音もなく、枝を潜り、根を踏み越え、ただひたすらに気配を殺す。
視界の先、木立の向こうに赤が揺れた。
やがて、火と共に現れた影――燃える衣をまとったような男が、林を横切って歩いていく。
敵の魔法兵だ。
腰には剣、肩には小ぶりの杖。頭部には焼けた兜が乗っていたが、飾りはない。ただ静かに、道を遮る者なきよう、揺らめく火の気配をまとって歩いていた。
(見せて歩いてやがる)
オズベルは思った。
あれは威嚇だ。存在を誇示し、味方の士気を挫くためにあえて姿を晒している。
だが――ならば。
「……行くぞ」
低く囁くと同時に、オズベルは地面を蹴っていた。
その動きに、後続の兵たちが呼応する。
音もなく迫った一撃。崖沿いの獣道という狭隘な地を利用し、敵が通り過ぎた直後を狙ったのだ。
魔法兵は、咄嗟に反応した。焔が迸る。だが――
「下がれッ!」
オズベルの怒声が響いた次の瞬間、先頭の一人が焔に包まれた。
火は意志を持っていた。
ただの熱ではない。肌を焼く前に、心を怯えさせる“炎”。それが魔法という異常の本質だった。
だが、オズベルは退かない。
焔を越え、一気に間合いを詰める。槍の石突きが地を蹴り、全身の体重を乗せた踏み込みが、魔法兵の胸元を穿とうとした――
「ハッ!」
敵が杖を振る。
だが、読み切っていた。
オズベルは腰を落とし、焔の流れを外すように斜めへ滑り込む。炎が背後を灼いたが、かすり傷一つ負わずに間合いに入った。
「――ッ!」
怒声と共に、槍が突き出される。
魔法兵は応じられなかった。戦場で鍛えられた槍の一撃――正確さも、威力も、かつての新兵とは比にならない。盾すら構えず、術の過信で前に出た男に、それを止める術はなかった。
ごっ、と骨を割る音がした。
槍が、鎖帷子の隙間を穿って沈んだ。
焔が掻き消えるように、ふっと静寂が訪れる。
背後の兵たちは動かなかった。見守り、判断を待っていた。
オズベルは、短く首を振る。
「……戻れ。もうひとり、いるはずだ」
魔法兵は複数で動く。特にこうした裏道では、互いの補完を意図して二人一組で派遣されることが多い。そうファーレンからも教えられていた。
その予測は、数秒後に正解と証明された。
「伏せろッ!!」
叫んだその瞬間、後方の木々が爆ぜた。
風が逆巻き、熱が爆ぜる。
炎ではない――風そのものが刃となって迫ったのだ。
「……風魔法」
ラルスが口にしていた分類の一つ。見えない斬撃。視界も、音も、気配もなく、ただ空気の流れとして襲いくる。
兵の一人が、肩を裂かれた。叫び声が漏れるが、即死には至らず。咄嗟に倒れ伏せたことで、命だけは繋いでいた。
「弓兵、展開ッ!」
オズベルの指示が飛ぶ。
森の木立を遮蔽に、弓兵たちが静かに位置を変える。敵の位置は不明――だが、攻撃の角度と風の変化が示していた。
「――あの楡の裏だ!」
指差した方角に向け、三本の矢が放たれる。
瞬間、鋭い叫びが返った。
命中ではない。だが、狙いは届いた。
敵は下がった。再び姿を晒すことはなかった。
しばしの静寂。森が、元の音を取り戻していく。
オズベルは、槍を地面につき、息をついた。
まだ終わっていない。だが、道は切り拓かれつつある。
戦が終わった後の空気には、どこかしら重たく、濁ったものが残る。叫びの跡、血の色、地に伏す者たちの静けさ――それらすべてが、確かにここに「戦い」があったことを物語っていた。
オズベルは、崩れかけた土斜面の上に立っていた。そこから見下ろす戦場跡は、ようやく収まりかけた混乱の最中だった。味方の旗が立つ陣地では、負傷兵の運搬が続いており、血にまみれた兵士たちが、互いに手を貸し合いながらも、自らの持ち場へ戻ろうと足を引きずっている。
その姿を、オズベルは無言で見つめていた。
風が、斜面の上で彼の外套を揺らした。だが寒さは、もはや感じていなかった。戦いの余熱が、身体の奥に根を張って残っている。
「……結局、あの魔法兵は何者だったんだ」
ぽつりと洩らした声に、返事はない。ラルスも、部隊の再編に駆け回っている。自分も下へ降りねばと思いながら、脚がその場を離れようとしない。
敵の魔法兵は、明らかに先の戦よりも訓練されていた。部隊の動きを制し、味方を翻弄するその火力と指揮力。だが、それに対し彼らは、崩れず、散らず、踏みとどまった。むしろ、その逆だった。全員が、自分の動きを信じてくれた。
それが、戦の最中にあった実感だった。
オズベルは、右手を見た。握ったままの槍の感触が、いまだ指の間に残っている。
数年前、自分はただ父の形見を持って戦場へ出たにすぎなかった。今、こうしてこの場所に立っている自分は、かつての自分とどれほど違うのだろうか。
「……違うさ」
誰にともなく、そう呟いた。かつての自分なら、あの火線の前にただ身を伏せ、命をつなぐだけで精一杯だった。だが今、自らが命を張って、部隊を動かし、仲間を守ることができた。ほんの一手であれ、戦の流れを変える決断を下し、それが形になったのだ。
――槍を掲げる者として、ここにいる意味はあった。
風がまた吹きすぎてゆく。遠く、味方の陣地で誰かが声を張っているのが聞こえた。もう、戻らなければならない。
オズベルは、槍を肩に背負い直し、斜面を下り始めた。土がぬかるみ、足を取られるが、もう何も迷いはなかった。
たとえこの手に、名誉の印などなかろうと。盾も、紋章も、金の飾りもなくとも。
この槍を掲げて進むことで、自分はここにいると、示せる。
空白の盾持たぬ者として。
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