第36話 戦に臨む道
まだ空が青みも帯びぬ頃、砦の中庭には既に人の動きがあった。
冷えた空気を割るように、馬のいななきと荷車の車輪が軋む音が断続的に響いている。
薪の炎が、最後の支度を照らしていた。
槍を束ねる兵たち。革紐を締め直す従士。荷を括り直す若者。
誰もが黙って手を動かしていた。声を出す者はない。
オズベルは砦の正門近くで、革の鎧の締め具を確認していた。
肩を動かし、柄に手を置いては離し、何度か呼吸を整える。
「おい、オズベル。鎧の紐、緩んでんぞ」
背後から声がかかる。振り向くと、ラルスが馬の横で手綱を繰りながら立っていた。
その顔は平静だが、どこか引き締まった気配がある。
「しっかり締めとけ。今日からは見られる立場だぞ、俺らはな」
「……はい」
素直に頷き、オズベルは紐を締め直した。
ラルスはもう何も言わず、先に歩を進める。
門のほうで、見張りの兵が主君の姿を確認し、合図を送った。
高い門扉が軋みながら開き、まだ夜の名残が残る空に向かって、砦の口が開かれる。
先頭にはファーレン=グライスの姿があった。
騎乗し、すでに馬の向きを整えている。背には家の紋章を掲げた旗がある。
「出るぞ。……この砦を、戻る場所にするためにも」
短く、それだけを言った。
馬の蹄が地を打ち、ゆっくりと進み出す。
それに続いて、整列した兵たち、荷車、従士らが門を抜けていく。
砦に残る者は、ひとまずの守備を任された老兵と、負傷兵数名のみ。
門の内側に立っていた数人の村人が、遠慮がちに顔を出す。
老女がひとり、手を合わせていた。
ラルスがつぶやくように言った。
「……見送ってくれてんのかね」
「そう……みたいですね」
オズベルの返しは短く、言葉の調子にも力はなかった。
ただ、行軍の列の中で振り返り、砦を見上げた。
夜の霧にけぶる石の壁。その上に翻る新しい旗。
ほんの数年前までは、誰にも名を知られぬ若者がいた砦だった。
だが今や、騎士の領地であり、従士の名を持つ者の居場所となっていた。
その砦が、視界の背後へと沈んでいく。
「……進め」
オズベルは声を出し、歩みを前へと戻した。
行く先には、風が吹き下ろしていた。
朝霧がまだ地を這うなか、一行は西へと向かっていた。
砦を出た道は、谷を縫うようにしてゆるやかに続き、やがて幹道へと合流する。そこを経て、北方に展開する諸侯連合の陣へと至る手はずになっていた。
行軍の列は整然としていた。
兵は百名弱。荷車が六両。馬は二十騎ほど。
その先頭に、ファーレン=グライスの騎があった。
彼の背には家旗が高く掲げられ、周囲の騎兵たちもそれに倣って進む。
日が昇るにつれ、旗布が風を受け、緩やかに揺れた。
「……一冬は明けたが、道の荒れようはひどいな」
ファーレンがぼそりとつぶやいた。
すぐそばを並走していたラルスが、手綱を引きながら応じる。
「前回の戦で、運搬路もかなり痛んだままですからね。補修が追いついていないようで」
オズベルはその一歩後ろに付き、周囲の地形を目で追っていた。
道の両脇には雑木が伸び、地面には石が散っている。
荷車の車輪がときおり傾き、兵たちがそのたびに肩を貸して押し戻していた。
「……本当に戦になるんですか」
オズベルがふいにそう問うた。
ファーレンは前を見据えたまま、言葉を選ぶように口を開いた。
「ああ。今回は小競り合いじゃ済まん。
帝国の東縁に位置する四つの小侯が、隣国と密通していた。……それが“表沙汰”になった」
「謀反、ですか」
ラルスの声には、ほんの僅かに緊張があった。
「否。あくまで密通の疑い、という建て付けだ。だが、出兵には十分な口実になる。
実際は、領地再配分の予兆だろう。上の者たちの腹の探り合いだな」
空気が冷たくなったように感じられた。
兵たちはその話を知らぬまま、歩を進めている。
「俺たちは、どの侯に付くんです?」
ラルスの問いに、ファーレンは少しだけ口元をゆるめた。
「選ぶ立場にあればな」
「……承知しました」
オズベルは黙っていた。
ただ、戦が再び始まるのだという事実が、腹の底に落ちていく感覚があった。
そのとき、道の先で先行していた斥候の騎が戻ってきた。
ファーレンに駆け寄り、低く報告する。
「前方に他領の部隊が集結中。旗印より、ハルデス伯領と思われます」
「よし、合流せよ。余計な詮索は無用、従う姿勢を見せろ」
「はっ!」
斥候が馬を返し、駆け戻っていく。
ファーレンが手綱を締めた。
「――ここからが本番だ。備えを怠るな」
その声に応じるように、兵たちの足音がわずかに強くなった。
オズベルは手綱を握り直した。
これから始まる戦は、いつもの戦場とは違う。
領地を巡る、騎士たちの覇を競う争い。
その渦のなかで、主君は何を得ようとするのか――。
そして、自分は、何を担うのか。
風が、先を急ぐように吹き抜けていった。
午の頃には、陽も高くなり、行軍の一行は丘陵を抜けた先の平野部に到達していた。
地の開けた場所に、すでに複数の旗印が並び、幾筋もの行列が一帯に集まりつつある。
その中心にあったのは、帷幕の張られた仮設の野営地。
将校らの戦議が行われるであろう、臨時の本陣である。
「ずいぶんと……集まってますね」
ラルスが小声で言った。視線の先には、幾つもの家旗がはためいていた。
槍を象った印、狼の意匠、城壁を背負った紋章。
それぞれの旗が属する家は、いずれも帝国中東部の諸侯たちである。
「見たところ、七、八家は集まっているな。……この戦、ただの制圧では終わらんぞ」
ファーレンは馬上で軽く鼻を鳴らした。
彼の目には、すでに状況を測る冷静な光が宿っている。
オズベルは、その隣で身じろぎした。
主君の姿勢を見て、自然と背筋が伸びる。
彼は、かつてのような従騎士ではない。
すでに一領を率いる騎士であり、これからさらに上を目指す者だ。
その後ろに立つ者として、自分もまた、軽々しく振る舞うことはできなかった。
野営地の外縁で馬を降りると、兵たちは荷を下ろし、幕営の準備にかかった。
オズベルもラルスと共に、持ち場を確認しながら動き出す。
兵同士の視線が交差する。
すぐ近くの組からは、他家の従士らしい男がちらとこちらを見やった。
口には出さずとも、互いの立ち位置を計っているのが伝わる。
「……気を抜くなよ、オズベル」
ラルスが肩越しに言った。
「戦場に出る前に、こういう場所でしくじった奴が、後で苦労すんだ。相手の顔と家の印は見ておけ」
「心得ました」
淡々と答えながら、オズベルはすれ違った男の腰元に視線を落とす。
刃の鍛えが、革の染めが、細かい差異が身分の格を物語っていた。
――この場における「強さ」は、剣ではなく、家と血の重みで決まる。
ファーレンは、臨時本陣の内へと招かれていた。
戦議に出るには、旗主としての立場が必要だ。
オズベルたち従士は外で待機し、主の命があれば即応できるように控えていた。
そのとき、野営地の西側から、一団の騎が到着するのが見えた。
全身を黒革で統一し、馬にも黒布をかけている。
「あれ……」
ラルスが目を細めた。
「ローデン辺境伯家の従騎士団……か。こりゃ、なかなか骨のある連中が来たもんだ」
オズベルもその一団を見た。
その騎士たちの動きには、無駄がなかった。
一糸乱れぬ隊列。滑らかな馬の進み。訓練の行き届いた、静かな威圧感。
だが、オズベルの胸に去来したのは、奇妙な感情だった。
畏怖でも、羨望でもない。ただ、胸の内に確かな“火”のようなものが灯った。
――いずれ、あのように振る舞う日が来るのか。
そんな問いが、言葉にならぬまま心の奥底に沈んでいく。
やがて日が傾きはじめ、各隊は持ち場の調整を始めた。
配置が定まり次第、明朝には出陣が命じられるという。
オズベルは槍の柄を手のひらで撫でた。
今はまだ、声を出すときではない。
だが、この静かな幕営の空気の下で、戦の気配は確実に近づいていた。
野営地に夜が落ちた。
火を囲む声があちこちに灯り、地の果てまで続くような旗印の森の中で、それぞれの隊が沈黙の備えを始めていた。
オズベルは、割り当てられた一画で臥せる兵たちの数を確認して回っていた。
寝具の整え、武具の置き場、見回りの交代順。こうした雑務は、実際には従士が手配しなければ成り立たない。
「――灯はこの列まででいい。これより先は消せ。視認される」
「は、はい!」
若い歩兵が慌てて松明を伏せる。
このあたりは外郭に近く、火を目印にされるには都合が悪い。
「交代の時間、刻で区切って四組に。夜半は寒くなる。布を一枚ずつ多く使え」
「承知しました。オズベル様」
伝令に似た若い兵が走って去っていく。
オズベルはひとつ息をついて腰を下ろした。
夜風が冷たく、耳を掠めて抜けていく。
と、その背後から声がした。
「おい、オズベル。こっちだ」
ファーレンの声だった。
幕舎の一角、仮設の天幕に灯りがともっている。
「はっ。参ります」
オズベルは立ち上がり、幕の中へと足を進めた。
そこにはファーレンとラルス、そして数名の兵がいた。
地図と配置図が、粗い木板の卓の上に広げられている。
「ようやく顔を出したな」
ラルスが軽く笑った。「仕事が多いのはいつものことだが、いささか抱えすぎだろ」
「……手を抜けるような場じゃないんで」
オズベルは短く答え、地図の傍へ寄った。
ファーレンはそのやり取りを聞き流すように、声を続けた。
「明朝、我らは左翼の第二列に就く。前面にはシュヴァイト家が出る予定だ。
だが、もし中央が押された場合、我らに転進の命が来る。……その際の備えを整えておけ」
ラルスが眉をひそめた。
「中央に回されると、包囲されかねませんね。背を断たれる構図にされると厄介です」
「そのときは……」
ファーレンは言葉を切って、オズベルを見た。
「オズベル、お前に先手の判断を任せる。
主戦列から分かれ、こちらが主動に出る状況になれば――まずお前が動け」
「……承知しました」
即答の裏で、心の中で火が灯った。
“判断を任せる”というのは、つまりは戦況を読む力を前提に置かれているということだ。
ファーレンの目は、ただ従士を見る目ではなかった。
指揮の一端を預ける者に向ける、それだった。
「ラルスは後備から支えろ。必要なら、物見を前線に出してでも周囲を確認しろ」
「任されました」
短い指示のあと、夜風が天幕をわずかに揺らす。
誰も言葉を発さず、その音だけがしばし続いた。
やがてファーレンがゆっくりと口を開く。
「……俺はこの戦で、証を立てる。
立場でも、名でもない。
この者には土地を任せてよいと、上が思うような、証をな」
オズベルはその言葉を胸の奥で受け止めていた。
ファーレンの目に、かつての若き従騎士の面影はない。
代わりに、誰よりも重きを背負う者の静かな決意があった。
「…私は、ファーレン様についていきます。」
それだけを言って、オズベルは深く頷いた。
外では、別の隊の兵が槍の柄で地を突く音がする。
その音に、誰もが小さく反応した。
戦が近づいている。
その実感だけが、野営の夜を深くしていった。
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