第22話 静かなる命令

朝靄の中、砦に低く太鼓が鳴った。

薄曇りの空を背に、砦の門が軋みながら開き、数名の男たちが荷車を押して出ていく。荷車には薪束や水袋、そして包帯と干し肉が積まれていた。


オズベルはその一行の後方を歩いていた。

革の肩掛けがごわつく。肩にかけた槍が軋むたび、握る手に力がこもる。


「ここから北の小砦まで補給を運ぶ。道中での命令には従え。……あと、荷を崩すな」


命じたのは、年嵩の従士だった。髪はまばらで、口調には威圧よりも実用の響きがあった。

オズベルは頷き、無言で荷車の端を押す。


他にいたのは、昨日同じ詰所にいた老兵のグルザと、髭面の中年男。三人一組の補給任務。それ以上でも以下でもない。


砦を出て、獣道を越えたあたりで、グルザがぽつりと言った。


「このあたり……昨日まで封鎖されてた道だ。前に、襲撃があったらしい」


「補給が、ですか?」


「そうだ。部隊ごと潰されたって話だ。相手が何者だったのかも分からんままだとよ」


中年男が肩をすくめた。「勘弁してほしいっすね、そういうの……」


オズベルは何も言わず、ただ足を進めた。こうした噂話は、戦の地では珍しくもない。


やがて、道端に焼け焦げた木片が見えてきた。


その先には、黒ずんだ土が広がり、崩れた荷車の車輪がひとつ転がっている。

鉄片と革帯、灰の中に覗く白いもの。

人の痕跡。だが人そのものではない。

すでに干からび、焼け、名前も顔も分からなくなったものたち。


中年男が顔をしかめて呻いた。「気持ちわりーな……」


グルザが一瞥し、「運が悪かったな」とだけ呟いた。


オズベルはその場に立ち尽くし、しばし無言で辺りを見回した。

包帯の切れ端。干し肉の皮袋。

道具の残骸とともに、誰かの“任務”の痕跡が、地面に沈んでいた。


だが、目に映るそれらに、心は波立たなかった。

死は、そこかしこに転がっている。

もう何度も見た光景だった。


ただ、今回は自分がその場にいなかった。

その違いだけが、妙に意識に引っかかった。


風が、血と灰の匂いを運んできた。


「動くぞ」

グルザの声に、オズベルは再び足を踏み出した。

荷車の軋みが、沈黙の道に音を戻す。


砦に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

荷を下ろし、報告を終えた後、解散の声がかかる。


小屋に戻ると、中年男は藁束に倒れ込み、グルザは無言で水袋を口に運んだ。

オズベルは槍を壁際に立てかけたあと、いつもの寝床に腰を下ろした。


胸の奥に、わずかな重みが残っていた。

怒りでも悲しみでもなく、ただ――


“今日も生きている”という実感だけが、確かに残っていた。


その夜、いつも通りの粥が鍋に残され、灯のない小屋に三人の影が横たわった。


「……あんなの見ても、今さら驚きゃしねぇけどよ」

中年男が天井を見ながら呟く。


「死んだ奴らに用はねぇ。問題は、自分がどう使われるかだけだ」


グルザの低い声に、誰も返さなかった。

それで十分だった。


火の気もない闇の中、ただそれぞれの思いが、声の届かぬところで燻っていた。


外では、風が遠く唸っていた。


翌朝。砦の中庭では、馬のいななきと水桶を引く音が交錯していた。

空は鈍い灰色。冷たい風が吹くたび、木柵が軋む音が低く響いた。


オズベルは、砦裏の馬小屋で作業にあたっていた。


「乾草はそっち! 鉄桶は奥に並べとけ!」


短く怒鳴ったのは、馬丁長の老人だった。

皺だらけの顔と節くれだった手で、黙々と馬の足元を掃除している。

その横で、ファーレン=グライスが無言のまま馬の脚を押さえ、蹄を点検していた。


「……お前、農村の出だな?」


不意にかけられた声に、オズベルは作業の手を止めた。


「はい」


「牛の世話でもしてたか?」


「……馬も、少し」


「なら動きが早いのも納得だ」


ファーレンはそう言って視線を戻した。

それはただの確認だったのか、それとも、何かを測るような言葉だったのか。


オズベルには分からなかった。

だが、そのやりとりの端にわずかでも“意味”を感じたのは、久しぶりだった。


昼を少し過ぎた頃、荷積みが終わり、一区切りがついた。

蹄鉄の補充も終え、馬丁長が腰を伸ばして呻いた。


「ふん、若いのにしちゃ手が早い」


その言葉に、ファーレンはちらと目を向けて言った。


「動きで示す奴は、口が少なくても分かりやすい。……悪くない」


オズベルは言葉を返さず、無言で最後の桶を並べ終えた。


そのとき、ファーレンが一歩前に出て言った。


「訓練場に戻っていい。夕刻の列訓には加われ。……ただし、水桶を全部満たしてからだ」


頷いて、オズベルは二つの桶を抱える。


その背を見送りながら、馬丁長がぽつりと呟いた。


「随分気に入ったな。何か思うところでもあったのか?」


「……いや、まだ分からん。ただ――」

ファーレンは言った。


「嫌な感じはしない」


午後、訓練場では木槍を手にした男たちが列を組み始めていた。

脚を開き、肩幅を取り、呼吸を揃える。


灰色の肩掛けをつけた年嵩の兵――カノッツが声を張る。


「脚を揃えろ! 間合いを見ろ! お前、そこの! もっと脇を閉めろ!」


オズベルは静かに列の端に入り、槍を構えた。

朝の作業で体は重い。だが、疲れを言い訳にする場ではない。


隣に並んだ若い兵が、ひそひそ声で話しかけてきた。

二十にも届かぬ顔立ちで、槍を握る手がわずかに震えている。


「……昨日、荷運びしてた奴だよな? 訓練まで来るなんて、真面目だな」

「俺はまだ一度も戦場出たことないんだ。……剣の方がよかったな。見た目も格好かっこいいし、騎士みたいじゃん」


オズベルは返さず、ただ黙って槍を握り直した。


若い兵は、かすかに苦笑して肩をすくめたが、しっかりと列の形に戻っていった。


訓練の終盤。隊列の整理が終わり、休めの号令がかかる。


カノッツが列の間を歩いていたが、ふとオズベルの前で足を止めた。


「……お前、槍に慣れてるな。昔、列兵だったか?」


「……はい」


短く答えると、カノッツはしばし黙り、軽く頷いて去っていった。


ただの確認。だが、その目には、ある種の“観察者”の視線があった。


評価でも称賛でもない。

だが、見られている――そう思えたことが、妙に重たく残った。


日が暮れかけ、小屋に戻った頃には、身体中が泥と汗にまみれていた。

桶の水で顔を洗い、干し魚をちぎって口に入れる。


「……どうせ突くだけなんだし、槍なんて誰でもできる、って思ってた」


先ほど訓練場で話しかけてきた若い兵が、ぽつりと呟いた。

オズベルは言葉を返さなかったが、その言葉の裏にあった“気づき”には、微かに頷きたくなった。


自分もかつて、そう思っていたのだ。


理由も分からず、誰とも知らぬ敵に追われ、気づけば地面を這っていた。


だが今は――


槍を選び、ここにいる。

命の置き場所を、自分で選んだ。


誰かに与えられた戦場ではなく、自ら足を踏み入れた場所で。


だから、明日も槍を握る。

その意志だけが、ぶれることはなかった


夜が明けきる前。砦の石壁に沿って、馬の蹄音が低く響いた。

まだ寝静まっている小屋も多い中、砦の裏門から数頭の馬が姿を見せた。


その先頭にいたのは、浅葱の縁取りのある実用鎧に身を包んだ若い騎士、ファーレン=グライスだった。


「……やはり戻っていないか」


砦の外れに立ち、彼は小さくそう呟いた。


横に控える従士がうなずく。


「出張所からの報告が途絶えて三日。先遣の斥候も、まだ戻りません」


「行方が知れぬまま放っておくには、時間が過ぎた。いずれ誰かが見に行かねばならん」


ファーレンは、しばし沈黙した。


そして、砦へと馬首を向けると一言だけ発した。


「人を選ぶ。明日、連れていく」


その翌日。

オズベルは朝の雑務を終えて、小屋へ戻ろうとしていた。


すると、詰所前の柵のところに、一人の従士が立っていた。昨日見かけた、ファーレンの近習と思しき青年だった。


「オズベル、と言ったな。……呼ばれている。すぐに訓練場裏の井戸まで来い」


言い捨てるような口調だったが、そこに敵意はなかった。

むしろ、ある種の「選別」が行われた後のような口振りだった。


オズベルは頷き、槍を背に担いで歩き出す。


砦の裏手、井戸の傍らにファーレンはいた。

足元には簡素な地図が広げられ、赤い線で何本かの道筋が引かれていた。


「来たか」


ファーレンは振り向くことなく言った。


「お前、昨日の訓練にも参加していたな。……口数は少ないが、手が止まらない。そういう者のほうが俺は信用できる」


言葉の調子は平坦だったが、そこには明確な“選別の意志”があった。


「明日、北方の監視出張所へ向かう。定期報告が三日滞っている。理由は不明。だが、敵の動きなら、放置できん」


オズベルは黙って聞いていた。


「戦闘の可能性は低い。ただ、崩れかけの道を越えるには、荷の持ち運びも要る。馬に荷を積んで進むが、途中で人の手が要る場面も出る」


そこで、ようやくファーレンがこちらを見た。


「どうだ、やらないか?」


短く問われ、オズベルは静かにうなずいた。


「……なら、夜明け前に厩舎裏へ。装備を整えておけ。寝る前に水袋を満たしておくといい」


それだけ言うと、ファーレンは地図を巻き上げた。


日が落ち、小屋に戻ると、グルザが口元に薄い笑みを浮かべて言った。


「呼ばれてたな。騎士殿に気に入られたか?」


オズベルは黙って頷いた。


「……ま、使われるうちが花ってな」


中年男がいつもの調子で笑いかけたが、どこか、わずかに羨望が混じっていた。


その夜、オズベルは槍の柄を磨いた。


戦いになるかは分からない。

けれど、“選ばれた”以上、動ける者でなければならない。


そうでなければ、次の命令は来ない。


火の気もない小屋で、わずかに薪が爆ぜた。


誰も口にはしないが、明日からまた、別の地に立つ者がいる。


オズベルは目を閉じながら、心の奥底で、境界の地を思った。


霧が深かった。

砦の石垣すら輪郭を失うほどの朝靄の中で、数人の男たちが馬を引いて歩いていた。


荷馬の背には、水袋、保存食、簡易な医薬具、予備の槍柄が括られている。

完全武装ではない。だが、戦う準備をまったく欠いているわけでもなかった。


その小規模な一行の後方を、オズベルは無言で歩いていた。

背には槍。脇に結んだ革袋には、前夜に満たした水が重みを宿す。


ファーレンは先頭で馬を曳いていた。

表情は見えないが、その背筋には張り詰めた緊張と、戦場とは違う“気配を読む目”がにじんでいた。


「抜かるぞ、足元を見ろ」

と、従士のひとりが声をかけた。


霧の中、街道の一部が崩れ、地面がゆるんでいる箇所があった。

昨日の夜に小雨が降ったらしい。


オズベルは無言で荷車の後輪を支え、角度を直す。

その手際に、従士がちらりと目を向けたが、何も言わなかった。


黙々と働くものは、好感として伝わる。


午前のうちに、小高い丘を越えた。

見張り台の柱が、林の間にかすかに見えた。

出張所だった。


だが――


「……旗がない」


ファーレンの声が低く落ちた。


通常、出張所の小屋には、連絡用の赤布が掲げられている。

それが、見えない。


風にたなびいていないのではない。物理的に“ない”のだ。


ファーレンは馬の手綱を渡し、自ら前に出た。


「警戒態勢に移る。荷馬は一か所にまとめて止めろ。槍を持て」


命令に従い、男たちは散開しながら、慎重に歩を進めた。


小屋の周囲には人の気配がない。

入り口も開きっぱなしで、風に軋んでいる。


ファーレンが手を上げ、合図する。


「オズベル。左側から回れ。入口から中を見る。……声を出すな」


頷き、オズベルは槍を手に、低く構えて移動した。


小屋の中には、誰もいなかった。

が、散らかった椅子と、落ちた水袋。書きかけの報告用紙が机から滑り落ち、床で湿っていた。


争った痕跡はない。

だが、急に姿を消したという異様さが、空気にこびりついていた。


「ふむ。おかしいな。荷もある。装備も、道具も残っている。だが、人だけがいない」

従士が言う。


ファーレンは小屋の隅でしゃがみ込むと、土に靴跡を見つけた。


「複数の靴跡。内側から出ていった形跡はある、か。……集団で動いたのか」


だが、向かった先までは分からなかった。


出張所をひととおり調べたあと、彼らはしばし周囲に潜むように身を伏せ、変化を待った。

日が高くなるにつれ、霧は晴れ、林の葉が淡く揺れる音が広がっていく。


しかし、結局、誰も現れなかった。


「戻るぞ。これは報告が要る」


ファーレンの声に、皆がうなずいた。


オズベルもまた、黙って小屋を後にした。

振り返った出張所は、まるで最初から空だったかのように静かだった。


砦に戻ったのは、夕刻だった。

簡単な報告の後、ファーレンは一人、上級騎士の詰所へと向かった。


それから数刻のうちに、砦の空気がわずかに変わる。


誰が何を言ったわけでもない。

だが、兵の足音が速くなり、各小屋には追加の物資が配られた。


“何かが起こる”

誰もがそう感じていた。


小屋の隅で干し魚を噛んでいたオズベルは、それを特に驚きもせず、ただ事実として受け入れた。


彼は知っている。

戦とは、始まる前が一番静かで、一番重たいことを。


その夜、オズベルは槍を手入れしたあと、火の気もない藁束に体を横たえた。


――いつかまた敵と槍を交える日が来る。


そのとき、自分は戦えるだろうか、ただ戦場で死ぬのではないか。そんな考えが頭をよぎる。


静かな夜だった。

砦の奥で、ふたつ三つ、鎧の音が鳴った。


命令はまだ降っていない。

だが、戦はもう、すぐそこまで来ていた。

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