第23話 敵との接触

夜明け前。砦の上層詰所から戻ってきたファーレンは、従士たちにだけ短く命じた。


「今日中に動く。哨戒の編成に入る者を選ぶ。準備を急げ」


それだけで、砦の空気は確かに変わった。

騎士たちの間で私語は減り、物資の出入りが目に見えて速くなる。

誰かが命令を叫ぶわけでもない。ただ、動きが変わる。


オズベルは朝のうちに革袋を満たし、槍の木軸を拭いていた。

使われる者として、命令に備える。それだけが、自分に許された行動だった。


その朝、砦の空気は静かに張り詰めていた。


鐘も太鼓も鳴ってはいない。だが、兵たちの動きが違っていた。

歩調は早く、声は控えめに、物資のやりとりが繰り返されている。

中庭には荷馬の数が増え、鎧の音がいつもより多く聞こえた。


オズベルは、槍を手に小屋の外で立っていた。

命じられたわけではない。だが、何かが“動く”ことを、肌で感じていた。


砦に戻ってから一夜。

昨日の出張所の“空白”は、すでに報告として上に上がっている。

その結果が、今のこの静かな慌ただしさだ。


「――詰所前、列を成せ!」

甲高い声が中庭に響いた。


兵たちが一斉に動き出す。

オズベルもまた、小屋に戻り装備を整え、槍を背に負って外に出た。


指定されたのは、砦西側の柵前。

そこにはすでに、十数人の男たちが集められていた。

中には見覚えのある顔もあった。昨日の訓練場で同じ列にいた者たちだ。


その一団の前に現れたのは、ファーレン=グライスだった。


灰色の外套の下、簡素な胸甲をまとい、腰には細身の剣。

その眼差しには、言葉より先に“命令の色”があった。


「昨日報告した通り、北方の出張所は空だった。物資は残り、争いの痕もなし。だが人影は消えていた」


ざわりと、列の中に小さな波が立つ。


「本日より数日、境界線周辺の哨戒任務を行う。出張所からさらに北東、境界森の手前まで進出する」


そこは、地図上の線が乱れ始める場所だった。

帝国の明確な支配が及ばぬ土地。諸外国の残党、放逐された傭兵、ならず者――

何が潜んでいるか、誰にも分からない。


「出発は刻明けと同時だ。荷物は最小限。槍、剣、食糧二日分。……それと、後れた者は置いていく」


最後の言葉には棘があった。

だが、それは“脅し”ではない。事実だった。


オズベルは目を伏せず、ただまっすぐ前を見た。

命令がある。槍を持つ理由がある。


ならば、あとは動くだけだ。


日が高くなる前、砦の門が開かれた。


ファーレンを先頭に、二十数名の部隊が列を成して進む。

重騎兵はいない。あくまで軽装の哨戒部隊。


隊の中央に荷馬が二頭。

その背には水袋と簡易の補修具がくくりつけられていた。


オズベルは最後尾近くに位置していた。

部隊の動き、指示の伝わり方、周囲の警戒――

そのすべてを見渡すには、むしろ好都合な場所だった。


斜陽を背に、地面の砂が靴底で軋む。


彼は歩きながら思っていた。


(あの日、踏み入れた戦場と――何が違う?)


命令がある。列がある。

だが、今回は違う。


“自分の足で、ここに立っている”。


足元の地が、わずかに変わった。


湿気が増え、踏みしめた土がわずかに沈む。

木立の間を吹き抜ける風が、冷たく感じられる。


進軍を始めて半日。

境界森の縁に近づくにつれ、景色は少しずつ変化していた。


草が伸びすぎている。

枝が折れたまま、放置されている。

狩人の罠も、踏み跡も、焚き火の跡も見えない。


「……あまりにも、何もないな」


誰かの呟きが、列の端から漏れた。

だがそれに答える者はいなかった。皆、同じことを感じていたからだ。


異様な静けさ。


境界地帯とはいえ、このあたりには以前から流民や野営民が散在していた。

簡易な竪穴、炭焼きの跡、皮を干すための枠――

それらの“人の痕跡”が、どこにもない。


それが、不気味だった。


午後、斥候が戻ってきた。


「前方に……野営跡。ただし、荒れてます。焚き火の残りと、崩れた柵。人影なし」


報告を受けたファーレンは、即座に全隊を停止させた。


「俺が確認する。従士三名、同行せよ。残りは防御の半円を組め」


その声に、オズベルも足を止める。

従士の一人が名を呼ばれ、彼の隣を通って前へ出た。


(……選ばれなかった)


安堵とも、落胆ともつかない感情が胸をかすめる。

だが、足を動かすことはなかった。


ファーレンと従士たちが林を抜け、しばらくして戻ってくる。

その表情は、硬い。


「火は三日前まで使われていた痕跡。

 食器と道具が散乱している。人為的に放棄された形跡は……ない」


言い換えれば、逃げる間もなく消えたということだ。


誰も口には出さない。

だが、緊張が確かに高まった。


「このまま先へ進む。今日中に川沿いの岩棚まで出る。そこを夜営地とする。……行軍再開」


命令は静かだった。

だが、その静けさが部隊をより固く縛った。


日が傾きかけたころ、川のせせらぎが聞こえてきた。


ようやく見えた岩棚は、苔むしてはいたが、確かに人の手で整えられた平地だった。

過去の駐屯跡なのか、半壊した竈と石囲いがある。


ファーレンは小隊を展開させ、見張りの交代と焚き火の順を決めた。

明かりは最小限。声は抑え、火は遮蔽布で囲う。

どれも、敵地を想定した布陣だ。


オズベルは岩に腰を下ろし、革袋の水をひと口飲んだ。


冷たさが喉を通る。


見上げた空に、星はまだ出ていなかった。


(……今夜、何も起こらなければいい)


そう思うのは臆病だろうか。

それとも、生き残るために必要な感覚なのか。


だが――

戦場では、どちらであれ遅れる者から死ぬ。


夜が、降りてきた。


夜が深まるにつれ、焚き火の火は細くなり、岩棚の上には静寂が満ちていった。


オズベルは、外縁に張られた見張り交代の組に加えられていた。

今は第二巡――夜半をやや過ぎた刻だった。


風が、木々の間を抜ける音だけが続いている。

まるでどこかの廃村にでも紛れ込んだような、空虚な夜だった。


「異常なし、か……」


低く呟いたのは、隣の男だった。

同じ隊に入った若い兵で、名前は覚えていない。

それでもこの場では、肩を並べる“見張り仲間”だった。


「ここまで何もないのも、逆に気持ち悪いっすよね」


男が冗談めかして言う。


オズベルは、少し間をおいて返す。


「……何も、ないほうがいい」


「まあ、それもそうっすけど。けど、俺、こういうの――」


そのときだった。


風に混じって、何かが聞こえた。


かすかな音――枝が折れるような、乾いた破裂音。

一度きりではない。二度、三度。方向は、北東。


オズベルは息を止めた。


すぐに、指で合図を出す。隣の男も沈黙し、手を槍にかけた。


二人の距離が、すっと詰まる。


動かず、音を待つ。


……しかし、それきり音は消えた。


沈黙。

風の音すら、さっきよりも弱くなった気がする。


「……動物?」


男が囁く。


オズベルは、小さく首を振った。


(違う。獣の音じゃない。あれは……“歩く音”だ)


何かが、足で枝を踏んだ。軽く、速く。


ならば、それは人か――あるいは、訓練された者の足取り。


気配は消えたが、確かにあった。


彼は迷わず、腰の警笛を抜く。


だが、吹く前に――


「ッ……!」


遠くで、叫び声が上がった。


一瞬、隊の中に緊張が走る。別の見張り班の方向だ。


オズベルは躊躇わず走り出した。

槍を持ったまま、岩棚の周囲を迂回する。

暗闇の中、何人かがすでに動いていた。


「何があった!」


先に到着していた騎士の怒声。

見張りに就いていた兵が、震えた声で答える。


「動く影が――人影、です! 姿は、すぐに……」


「追え!」


命令が飛び、数名が森に走り出す。

だがその姿もすぐに、暗闇に紛れて見えなくなる。


オズベルは、槍を握り直していた。


胸の奥が熱くなる。恐怖とも、興奮とも違う――

戦いの直前に訪れる、あの感覚。


ファーレンの姿が現れたのは、それから間もなくだった。


「見張りは倍に増やせ。中央列を後方へ下げ、火を囲め。索敵班は戻るまで追撃禁止。……今夜は、動くな」


短く、鋭い命令。


オズベルは、それを聞きながら立ち尽くしていた。


(敵がいる。近くに。……ここまで、来ている)


深夜。


星のない空の下、焚き火の揺らぎが顔を照らす。


その光の向こうに、闇は確かに息づいていた。


夜明け前。空がほんのりと白み始める。


兵たちは半ば眠気に抗いながら、岩棚の上で装備を締め直していた。

見張りは三重に組まれ、焚き火は完全に消されている。

夜間の“接触”は、砦でも報告義務のある事象だった。


ファーレンは夜のうちに報告書をまとめ、すでに次の指示を出していた。


「今日中に森を抜け、境界川の渡渉地点に向かう。敵がいるなら、そちらへ向かった可能性が高い」


つまり――敵を追うという命令だった。


列が森を進む。


昨夜の接触以降、兵たちの足取りは硬くなった。

無言のうちに、それぞれの手が槍や剣へ伸びている。


オズベルも、意識が研ぎ澄まされていた。


風の音、鳥のさえずり、草の擦れる感触。

どれもが、敵の気配をかすめているように感じられた。


前方で斥候が手を挙げた。


「停止!」


全列が動きを止める。

ファーレンが前に出て、斥候の指さす方向を見た。


森の先――わずかに開けた湿地に、複数の人影があった。


距離にして、およそ百歩。

彼我の間に生い茂る下草が、完全な視界を妨げている。


だが確かに、動いていた。


「布の色、黒と灰……装備は不統一。正規兵ではないかと」


斥候の声に、ファーレンは頷く。


「散兵構成……偵察か、陽動か。先にこちらを見つけたのは奴らだな」


彼は間をおかず命令を下した。


「二列編成、第一列前進。盾は左、槍は右に。後続は遅れるな。指示あるまで攻撃せず」


整然と兵が動き出す。

その動きが、森の緊張を切り裂いた。


敵の動きが変わったのは、それからすぐだった。


前方の人影が一斉に散開する。

湿地の反対側からも、三、四名が現れる。

囮――いや、誘導だった。


「囲まれるぞ! 左右注意!」


オズベルは左手に槍を構え、前列の右端を守る形で走った。

泥濘の中を走る足が滑る。それでも止まるわけにはいかない。


(接敵する)


前方の敵が、槍を低く構えて突っ込んできた。

オズベルは咄嗟に半歩退き、柄の中程で受け流す。

衝撃が腕を痺れさせる。


反撃――

構え直す隙に、敵が横へ回り込もうとする。


(まずい)


その瞬間、別の兵が横から割って入った。

短剣で敵の脇を払う。敵は呻いて崩れ、すぐに後退する。


「おい、下がるな! 列が乱れる!」


誰かの怒声。

混戦になりかけた戦列が、ギリギリのところで踏みとどまる。


オズベルは息を吐き、再び槍を構えた。


戦いは長くは続かなかった。


相手には組織だった抵抗もない。

ファーレンの指揮のもと、部隊はじりじりと前進し、敵を後退させた。


だが、敵は完全には捕まらない。

常に一歩早く引き、再び森へと姿を消していく。


その姿が、最後に見えたのは――

川辺の葦原の奥だった。


戦後、列はその場で短い休息を取った。


負傷者は数名、死者なし。敵の死体は一体のみ。

名も身分も不明なまま、簡単な検分だけがなされる。


オズベルはその光景を見ながら、槍を拭っていた。


自分は、敵を殺していない。

だが命令通りに動き、隊列を守った。


ファーレンの視線が、一瞬だけオズベルを捉えた。

頷き――否、目礼のような微細な動きだった。


その日、隊列は川の渡渉地点に到達し、砦からの伝令と合流した。


出撃部隊のうち、初接敵報告はこの小隊が最初だったという。


命令は、再編のための一時帰還。

全員が、再び砦へと向かう。


砦の門が見えたとき、オズベルは息を吐いた。


肩の力が抜ける。だが足は、確かに前へと向いていた。


まだ何者でもないが、それでも“戦場の一部”にはなれた気がする。


そして――

また呼ばれれば、槍を持って出るのだろう。


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