第21話 境界の地

翌朝。

町外れの一角に、雇われ兵たちが集められていた。

その一団を見守るのは、口入屋ヨハンの紹介で現れた一人の従騎士。


彼は、帝国のある男爵家に仕える若き騎士であり、この地での新たな戦へ向け、兵を募っていた。


「この家の兵として、お前たちを使う。従えない者、逃げ出す者は容赦しない。戦える者だけが残れ」




オズベルは、槍を握る手に力を込める。


望んで戦いに赴くのは、これが初めてだった。

己の意志で槍を持ち、他者の目に晒される。

それだけで、昨日までの自分とは違っていた。


この時、彼の人生がまたひとつ、確かに進み始めた。


 数日後、彼らは町を離れた。


 薄曇りの空の下、男たちは列を成して進む。行き先は、辺境地帯に築かれた前線砦――帝国と諸外国との境界線近く、絶えず緊張が渦巻く戦の地だった。



 足元に舞う砂埃の向こうに、やがて砦の影が見えてきた――。


その日のうちに、雇われた男たちはそれぞれ、グライス男爵家に仕える騎士たちのもとへ振り分けられることになる。


オズベルに知らされたのは、若い従騎士に仕えることになるだろうということだった。


荷を下ろす間もなく、彼らは厩舎を改装したような小屋へと通された。

藁束と古布が投げ込まれた簡素な寝床が並び、兵たちは黙ってそこへ腰を下ろしていく。


誰も不満を言わない。言ったところで変わらないことを知っているのだ。


オズベルもまた、自分の槍を壁に立てかけ、静かにその一角へ腰を下ろした。

土と汗と古い血の匂いに包まれながら、ひとつ息を吐く。


戦の前でも、戦の後でもない。

今はその間――兵が、ただ待つ時間だった。


その夜、火の気もないまま寝床に沈んだ兵たちが、わずかに囁き交わす声が小屋の隅で響いた。


「……明日、荷の運び出しか?」


「いや、北の砦だとよ。補充の兵が足りてねぇらしい」


「またかよ。あそこ、去年も潰されかけただろ」


「どうせ俺らが潰れても代わりはいくらでもいるってことさ」


乾いた笑いが漏れる。誰もが他人事のように話しながら、現実から目を逸らしていた。


オズベルは黙ってそれを聞いていた。

戦場では、誰がどこで死のうが、地面に穴が開くように静かに消えていく。

槍を握ることに意味を与えるのは、結局、自分自身なのだ。


ふと、彼の隣にいた年嵩の男が、ぽつりと呟いた。


「名前は?」


オズベルは少し間を置いて答えた。


「オズベル」


「そうか。俺はグルザ。……あんた、この前の戦で生き残った口か?」


うなずく。男はそれ以上、何も聞かなかった。

それだけで十分だったのだろう。互いに。


夜が明けきらぬうちに、小屋の戸が無遠慮に叩かれた。


「起きろ。配属が決まった。名を呼ばれたら外に出ろ」


兵の声に、男たちは重い体を引きずって立ち上がった。

装備をまとめ、槍や剣を背負いながら、ひとり、またひとりと戸口をくぐる。


外では、口入屋の者と鎧を纏った数名の騎士たちが立っていた。

男爵家に仕えるそれぞれの家系の騎士たちだ。

雇われた男たちは、彼らのもとへ振り分けられていく。


「オズベル!」


名が呼ばれる。

オズベルは黙って歩み出た。


彼の前に立つ騎士は、若く、まだ年季の浅さが見えるながらも、整った鎧に身を包み、背筋を伸ばしていた。

だが目の奥には、曇りのない戦場の光があった。


「この者がそうか。……随分と背の高い奴だな」


「口入屋の記録によれば、過去に戦場経験あり、槍を扱うとのことです」

傍らの男が補足すると、騎士は頷いた。


「俺はこの家の従騎士だ。今日から俺の指揮下に入ってもらう。名は後に知ることになるだろう。……着いてこい」


オズベルは小さく頷き、無言のままその背を追った。

この日から、彼の新たな仕え先での下積みが始まる。


与えられたのは、砦の片隅にある粗末な小屋だった。

壁は薄く、風を防ぐのが精一杯。薪を焚くにも煙抜きの穴すらない。


オズベルは黙って、寝台とも呼べぬ藁束の上に腰を下ろした。

この小屋には彼を含めて三人。どれも昨日、同じように振り分けられてきた顔ぶれだ。


ひとりは痩せた老兵。目元に深い皺が刻まれている。

もうひとりは無精髭の中年男で、まだ泥付きのままの靴を脱ぎもせず横たわっていた。


「……お前、やけに体がでかいな」


中年男が、寝転んだまま視線を向ける。

オズベルは特に応えず、槍を背から外し、壁際に立てかけた。


「ま、いいさ。どうせそのうち、嫌でも口をきく羽目になる」


痩せた老兵が笑った。

その声にもオズベルは無言で頷いた。


夕刻、命令が下った。


「薪の運搬だ。荷車を引いて隣の丘まで行ってこい。誰かが付き添う。逃げたりすんなよ」


簡単な雑用。しかし、それでも命令には違いなかった。


荷車を引きながら、オズベルはふと、かつて戦場で死んでいった名もなき兵たちの顔を思い出す。

今、自分がこうして生きているのは偶然か、選択か。


違う、と彼は思った。


いまの自分は、初めて自分の意思で兵としてここにいるのだ。


選んだことの意味は、まだわからない。

けれど、それを誤魔化さず、踏みしめるしかない。


小屋に戻ると、すでに先の二人が戻っており、冷えた粥が鍋に残されていた。

オズベルは無言で匙を取る。


その夜、初めて小さな火を囲みながら三人は並んで眠った。

寒さと疲れと、ほんのわずかな安心を、胸に。


朝靄の中、砦の広場には数十人の男たちが集められていた。

ほとんどがオズベルと同じ、口入屋を通じて雇われた者たちだ。


「列を成せ! 前を見ろ!」


怒声が飛ぶ。指示を出しているのは、黒髪の若い男。先日にも見覚えのある顔だ。

まだ二十を少し越えたばかりだろう。だが、その眼光には迷いがなかった。


「我が名はファーレン=グライス。男爵家に仕える騎士だ。貴様らは、しばし我が指揮下に入る」


オズベルはその名を初めて聞いた。が、周囲の者の中には、わずかにざわめく者もいた。

辺境ではそれなりに名の知れた家のようだ。


「戦で用いられる者として、最低限の規律を叩き込む」


そう言って、ファーレンは後ろに控える従士に頷いた。すぐに木槍が数本、地面に投げられる。


「順に取れ。今日から貴様らは、朝と夕の二刻、戦列訓練を受ける。逃げる者は追わん。ただし、再び門を叩いたときには、二度と中には入れん」


命令は簡潔で、ぶっきらぼうだった。だが、その裏に確かな統率力を感じさせた。


オズベルは木槍を受け取り、列の後方に並ぶ。

ただ与えられた任務をこなすのではなく、自らの手で未来を掴むために。


その日の訓練は、基本的な陣形の動きと槍の構え方を中心に行われた。

兵としての経験がある者とない者が混ざる中で、オズベルは荒削りながらも動きに迷いがなかった。


「そこの大男。動きは鈍いが、足の運びは悪くないな」


ファーレンの声が飛ぶ。

オズベルは返答せず、ただ前を向いたまま頷いた。


その反応に、従士のひとりが小さく笑ったのが聞こえた。


変わり者か、それとも――


訓練の終わり。夕陽が砦の端に落ちる頃、ファーレンは小声で従士に言った。


「……あいつは、少し使えるかもしれんな」


朝靄の残る空気を裂くように、軍靴の音が砦の中庭に鳴り響いていた。小規模な木造砦は、男爵家の支配するこの地方の最前線に築かれた拠点であり、戦の都度、寄せ集めの兵を束ねて送り出すための「場」であった。


オズベルはその砦の壁沿い、粗末な詰所のひとつに寝起きしていた。


昨晩、口入屋から騎士の名を告げられ――「ファーレン=グライス。その従騎士が指揮を執る陣に入れ」とだけ――そのまま数名の男とともに連れられてきたのだ。


荷ほどきなどというものもない。槍一本と体一つ。支給されたのは干し肉と水袋、それだけだった。


「おい、新入り、起きてるか」


低い声に振り返ると、詰所の隅で寝ていた一人の男がこちらを見た。髪はぼさぼさ、顔には無精髭。年齢は三十ほどか。口元に癖のある笑みを浮かべている。


「昨日、同じくここに放り込まれたんだ。名前は……まあ、まだ名乗るには早いか。どうせすぐに何人か減る。ここじゃ、それが常だ」


オズベルは言葉を返さず、ただ槍を背に立ち上がる。今さら、どこかの列で交わされたような安い誓いや希望に意味はなかった。今はただ、目の前の任に応えるのみ。


その朝、彼ら“新参の者”は、初めてファーレン=グライスの前に立たされた。


中庭に集まった男たちの前に現れたのは、浅葱の縁を持つ簡素な鎧をまとった若き騎士。二十代の半ばと見えるその男は、決して威圧的ではなかったが、どこか冷静に人を見る眼を持っていた。



「お前たちには、暫くの間、この砦での雑務と訓練を課す。次の動員命令が下れば、俺の指揮のもと戦場に立ってもらう」


そう言ったファーレンの声に、誰も逆らう者はいなかった。逆らう術もなければ、拒むほどの贅沢もない。


オズベルはその言葉の一つ一つを、噛みしめるように聞いていた。


今回は「選ばれて兵になった」のではない。自ら「使ってくれ」と願い出た。その差は、彼の背に重くのしかかっていた。


それが、今の自分の居場所。

槍を選び、再び戦場に戻ると決めた男の、新たな一歩である。


砦の裏手にある細長い訓練場。地面は固く踏み締められ、幾度もの足跡と、槍の突き立った痕跡でざらついていた。


「列を揃えろ。脚を開け、腰は落とす――まだ上体が浮いてるぞ!」


声を張るのは、この男爵家に古くから仕えているという年嵩の兵だった。灰色の肩掛けを結んだその男は、騎士ファーレンの下で雑兵をまとめる係にあるらしい。


オズベルは、他の兵たちと共に槍を構えながら、言われるままに足幅を調整し、槍の角度を確認した。


かつて、命がけの戦場で身に染みて学んだ“間合い”や“重み”の感覚。それは、こうして静かな訓練の場に持ち込むと、周囲との「ズレ」となって表れる。


(なんで、こんなに隙間を空けてる)


彼の隣に立つ男は、槍を持ちながらも視線を泳がせていた。もう片方の兵は、無駄に肩に力が入りすぎている。


それでも、オズベルは口を噤んだ。


ここでは、自分が教える立場ではない。使われる側であり、選ばれる側だ。

ましてや、他人の立ち位置に口を出せば、疎まれるのは目に見えていた。


「はい、休め! ……剣使いは剣使い、槍は槍。道具も構えも違えば、動きも違う。だが戦場じゃそれが混ざる。足並みを揃えられねぇ奴は、最初に死ぬ」


年嵩の兵がそう言って振り返った瞬間、ちらりとオズベルと目が合った。


「……お前、槍は慣れてるな」


言葉少なに、そう言い残して男は去っていった。


褒められたわけでも、評価されたわけでもない。ただ、その“目”が、過去の誰かと重なるようで、オズベルは少しだけ背筋を正した。


日が暮れるころには、泥と汗と木屑にまみれていた。

兵舎に戻っても、湯などあるわけもなく、桶の水で顔を洗い、塩の利いた干し魚をちぎって口に入れる。


隣では、昼に見たあの視線の泳いでいた男――まだ若い――が、ぶつぶつと愚痴を漏らしていた。


「なんで槍なんだよ、剣の方がかっこいいのに……。しかも列に並んで突くだけって……」


オズベルは言葉を挟まず、黙って干し魚をかじった。


かつての自分と同じだ――と思った。

理由も分からず槍を渡され、誰とも知らぬ敵に追われ、気づけば地面を這っていた。


(……今度は、違う)


今の自分は、槍を選んだ。

この家を選び、命の置き場を選び、戦場に立つことを選んだ。


誰に強いられたわけでもなく、誰を恨むでもなく。

ただ、生きるために――。


オズベルは黙々と、明日も槍を握るつもりでいた。


朝霧が砦の周囲にかかる頃、オズベルはいつもより早く目を覚ました。

まだ他の兵が寝返りを打つだけの時間帯。

昨日と同じ、薪置き場の裏で手早く身支度を整えると、槍を肩に担ぎ、砦の裏手へ向かった。


昨日と同じ場所。

訓練場の土は朝露でぬかるんでおり、足音が吸い込まれるように消えた。


一人で突きを打つ。

同じ間合い、同じ姿勢。繰り返し、ただ繰り返す。


「……暇か?」


背後から声がした。


振り向くと、鋲打ちの革鎧を羽織った若い男が立っていた。

肩には短く裁たれた赤いマント。その縁には銀糸の刺繍が走っていた。


騎士――その身なりは、すぐに分かった。

だが貴族の気取ったそれではなく、実用一点張りの装いだった。


「お前、昨日の新入りだな。槍を振ってた姿、ちょっとだけ目に入った。……名は?」


「オズベル、です」


「姓は?」


一瞬、言葉に詰まった。


だが相手はそれ以上は聞かず、軽く鼻を鳴らした。


「まあいい。戦場じゃ、名より前に姿が残る。……槍か。好きで選んだのか?」


オズベルは、わずかにうなずいた。


「変わり者だな。最近は誰もが剣に憧れるというのに。……だが悪くない。俺も剣より槍のほうが、兵には向いてると思ってる」


男は言葉を切り、土の上を数歩歩いてから、ぽつりと言った。


「明日、馬丁の付きで人を回すことになってる。荷の積み下ろしと、馬の見回り。余った分は訓練に戻っていい。……お前、来い」


オズベルは驚いたが、すぐに一歩前に出て頷いた。


「はい」


「言葉は短くていい。動きで示せ」


そう言って男は踵を返した。


周囲に誰の姿もない訓練場に、また静寂が戻る。


(あれが、騎士……)


オズベルは背筋を伸ばし、もう一度槍を構え直した。


――槍を選び、戦場に戻ると決めた以上、ここで“使える者”にならなければならない。

その最初の機会が、今だった。


槍の先がまっすぐ空を突く。

冷たい風が吹き抜けた。


オズベルは、黙って一歩を踏み出した。

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