【21】穢れた血に関する解釈

 蝉の鳴き声は朝から途切れることなく響く。

 演劇部にも夏の大会がある。私たちはそれほど強豪でもないけれど、先輩はやはり燃えていた。夏休みが始まってから、熱に当てられた部員たちは、先月よりも幾分か真剣に取り組むようになった。


 照明を浴びながら声を張り上げる。

 珍しく体育館を借りられる日には、床にテープを貼って舞台の寸法を取り、台本を片手に動きを繰り返す。演出を担当する子は容赦なく指摘を飛ばし、私たち演者は汗を拭く暇もなく修正に邁進する。声量が足りなければ仕切り直す。感情が乗らなければ、相手役としっかり目線を合わせる。


 「間を空けて。焦ると台詞は死ぬから!」

 「観客は体育館の後ろの壁にいると思って!」


 響く台詞は、盛夏の熱気と混ざって揺れる。

 声が掠れ、足が棒のように重たくなっても、不思議と誰も不満をこぼさなかった。むしろ、稽古を繰り返すたび、作品の質が高まっていくことに充足を感じているようだ。


 欠番の影はない。

 奴らは今も潜伏しているのか、私たちの邪魔をしない。――私は名簿を肌身離さず持ち歩き、消す準備を常に整えていたのだが、夏休み中に実行することはついになかった。


 やがて、本番の日を迎える。

 会場は広い市民ホールだ。舞台袖から眺める客席は、体育館で想像したときよりも随分と遠く感じられる。そうして、照明が落ちて空間が静まり返ったとき、胸の奥が一気に熱くなった。


 「どうして黙ってるの。私たち友達でしょ。」

 「行かないで、置いていかないでよ!」


 後は、身体が覚えた通りに動くだけだった。

 台詞の一語一句を噛み締めるたび、迫力が会場全体を満たし、観客の視線がこちらに集まる。隣に立つ先輩の表情も普段とは違う。緊張と昂揚がないまぜになり、舞台の熱をより押し上げようと奮闘しているのがわかる。袖で控える仲間の気配すら背に伝わって、私たちはもはや全員で呼吸を合わせようとしていた。


 ――結果は銀賞だった。

 本来の実力と比べてみれば健闘した方だ。それでも、世話になった先輩たちには金色を贈りたかった。私は小さな無念も抱えながら、空穂中学校に拍手の波をくれた観客席を眺める。


 「あ……」


 そこに、見覚えのある姿を見つける。

 後ろの方で、父が大きく手を叩いてくれたのは喜ばしいことだが――隣に母がいた。胸元の開いた派手なワンピースは場違いなほど明るく、奇妙に光沢のあるヒールサンダルを履きこなしている。隣席にハイブランドのバッグを雑に置きながら、彼女は軽々とした笑みを私たちに向けている。


 私は不快感を露わにしながら母を睨んだ。

 もちろん、遠くにいる彼女に私の心は伝わらない。私は理解されることを期待しているわけではなく、ただ、行き場のない不満をぶつけたいだけだ。


***


 学校の周辺には危険な繁華街も多い。

 校則をまとめた冊子にもそのことが明記され、行事ごとの打ち上げは基本的に認められていない。――そこで、私たち演劇部には「大会の日に遊ぶ約束を取り付けていただけ」という名目でファミレスに向かう伝統がある。先生も既に気がついているとは思うが、私生活を厳しく縛るのも本意ではないようで、暗黙のうちに認められていた。


 「私……この部活に入ってよかった……」

 「先輩、大袈裟ですよー。」


 先輩は今にも泣き出しそうな声で想いを語る。

 文化祭まで引退はしないけれど、今回の大会を機に役職は継がれる。私は次期部長として指名を受けたので、簡単に新世代の目標を語ることになった。


 「次は金賞かな。今日の結果が嬉しかったから。……それに、先輩のおかげで、皆もスパルタ稽古についてこれるようになったもんねぇ?」


 口角を上げて部員の方を見る。

 軽く脅かしてみたつもりなのだが、皆もどうやら乗り気らしい。激しい練習は嫌だと笑いつつも、目標を高めること自体に一切の異論は出なかった。本気で取り組めば結果が出る――今夏の喜びを噛み締めているようだ。


 何より、部員は私のことを信頼している。

 誰からも必要とされる位置に立つのは気分がいい。


 盛り上がったおかげで解散は22時になった。

 条例には引っかからない時間だけれど、駅前の空は既に暗く、店のカラフルなネオンばかりが映えている。そろそろ、酔っ払いの声が聞こえ始める頃だろうか。


 「――あら、詩葉じゃない。」


 不意に背後から名前を呼ばれた。

 振り返れば馬鹿な女が立っていた。昼間と同じ格好のまま、夜の街に馴染む厚化粧を施し、傍らにスーツ姿の見知らぬ男性を立たせている。


 「……パパは?」

 「昼間に話したもの。夜はこの人。……紹介してあげてもいいわよ?」

 「別にいい。」


 母は男と腕を絡めながら何事もなく告げる。

 「愛される人間になりなさい」――昔から彼女の教育方針はそれだけだった。自力で目標を達成するという発想が一つもなく、美貌と愛想だけで優遇されて、ロマンスの気配を漂わせながら男の間を練り歩く人間。持ち物の殆どは貢ぎ物だろうか。頭が悪いくせに計算高く、相変わらず、甘えた世界観で生きている女だと思う。


 「そうそう、舞台、見たわよ。」

 「パパと一緒だったもんね。」

 「詩葉が主役なら金賞だったのに。他の子はちょっと、垢抜けてない感じだったねぇ。」


 悪びれもしないで私の顔を眺めてくる。

 母は人の心を弄ぶ才能を有していながら、相手が大切にしている物事を読み取り、尊重しようとするモラルに欠けていた。今のも愛娘に対する褒め言葉のつもりなのだろう。主役として頑張った先輩を、私が強く尊敬していることも彼女は知らない。


 母は決して私のことを嫌っていなかった。

 むしろ、深い愛着を持っていることは窺える。幼稚な人間ではあるけれど、腹を痛めて産んだ子を大切にしたい心はあるらしく、小さな私に綺麗な服をいくつも用意してくれたことを覚えている。昔は私も母のことが好きだった。綺麗で若々しい親に甘やかしてもらえるというのは、幼児にとって誇らしいことだった。


 一方で、優先順位は明確である。

 母は私のことを愛している。自身を射止めた父のことも見所のある男として高く評価している。――しかし、彼女は自身が最も厚遇されなければ気が済まない人間だった。


 家族が別れたのは厄介な気質が原因だろう。

 父は名門大学を卒業したエリートだ。安定した収入があり、容姿もほどほどによく、何より、好きな女には尽くすタイプだ。出会った頃から母を大切に扱っては、心が躍るようなデートを重ね、沢山の宝物をプレゼントしてくれたらしい。――だから、母の中では特別な存在として位置づけられていたのだが、不幸にも父は真っ当な感覚を持っていた。娘が生まれてから、彼はそちらに時間を使うようになったのだ。


 父は母の無駄遣いを軽く咎めるようになった。

 娘には同じように大学まで行かせてやりたい。少なくとも、中学校から全て私立を選んでも問題ないほどには貯金が必要だ。そのため、記念日を除いて夢のような時間を味わうのは難しくなることを彼女に伝えた。


 当然、軽薄な女が納得するはずもない。

 彼女は幼い私の前で何度も泣いて喚いた。ハサミを父や自身に向けては、汚らしい嗚咽を漏らして罵った。


 ――どうして、詩葉のことは大事にするの。


 母が思わず口走ったとき、父は初めて激怒した。

 娘を大切にするのは当たり前だ。それに、自分は君のことを蔑ろにしているつもりはない。普通の幸せを掴んで、三人で温かい家庭を築こうと約束したはずだ。――父は泣きながら母に怒鳴った。母は虚ろな目で父のことを見ていた。


 私のせいで喧嘩が起きていると思った。

 悪いのは母だ。それでも、私が産まれていなければ、母はいつまでも父の姫でいられたのではないか。幼い私は同じことを延々と考えていた。


 次の日、母は新しい男を捕まえて家を出た。

 母はあっさりと父のことを捨てた。家族三人で描く幸せな未来は、彼女の中には存在しなかった。愛から生まれる怒りを理解できるほど、母は成熟した人間ではなかったのだろう。


 「――そうだ、詩葉。誕生日プレゼント。」

 「なにこれ。」

 「もう14歳になるでしょ。どこかで渡してあげたかったの。」


 母の持つ紙袋には有名なロゴが刻まれている。

 中身はハイブランドのリップグロスだ。メイクを嗜む中高生にとっては憧れの品で、普通は嬉しく思えるのだけれど――。


 「……ごめん、いらない。」


 私はプレゼントを突き返して走り去った。

 先に家族を捨てたのは向こうなのに、一瞬だけ姿を窺えば、母は酷く寂しそうな顔をしていた。他に愛してくれる男がいるのだから、媚びを売るならそちらでいいだろう。私は母の期待に応えない。母に自分を投影されたくはない。


 「あぁ……本当に嫌い。」


 ふと、店のガラスに自分が映ったことに気づく。

 ――穢らわしい女と同じ顔をしている。


 中学生になった私は母とよく似ていた。

 母のようにはなりたくないと願えば願うほど、私の中に彼女の手口が染み付いてくる。要領と愛嬌だけで良い印象を勝ち取って、何気なく相手の気持ちを満たしてあげれば、人は私を必要とするようになる。私はその感覚が嫌いではないから、計算的な自己像を手放さない。好かれていれば得をする――私の辿り着いた結論は、母の生き方と何も変わらない。


 私には、軽蔑する相手と同じ血が流れている。

 遺伝子の半分が欠陥品で出来ている。人を傷つけても平然としていられる女の心がある。私は穢れた人間だから、あのとき、寛人の腹にもハサミを向けられたのだ。欠番を処理することに少しも心を痛めなかったのだ。


***


 練習に身が入らない。

 人に見せるための姿を研究するたびに、母の顔が脳裏を掠め、苛立ちが止まらなくなった。部員にも申し訳ない。的確にまとめてやりたいのに、上手く言葉が出てこない。


 仕方なく、私は教室を出て空を見ていた。

 夏休みの終わりは近い。風は七月頃より少しだけ冷たくなっているのがわかる。広場のベンチに腰を下ろして、私は何も考えないようにしていた。


 「……ユイト、大丈夫?」


 練習を終えたバドミントン部の声が響く。

 また、結翔は旧校舎を眺めては、慶太に不審がられている。――以前より結翔の目は遠い。彼は左手でラケットケースを優しく撫でながら、不安げに屋上を見つめる。そういえば、教室でよく泣いていた頃の彼は、今と同じ表情を私によく見せてくれたことを思い出す。


 意地悪な血が疼く。

 私にも隠している心を彼は旧校舎に向けている。


 優しくするだけでは足りないのだろうか。

 私だって結翔のことを揺さぶりたい。昔みたいな結翔を見たい。本物の結翔を確かめてみたい。――私は結翔の鎧を完膚なきまでに砕きたい。


 私は自分のことを少しも信頼できない。

 今も、結翔を傷つける想像ばかりを繰り返している。


 それから、再び校内は荒れ出した。

 校舎前の大きな血溜まり。教室の天井から垂れ下がる首吊りロープ。多目的トイレに転がる空の洗剤と、充満した有毒ガス。――新学期を前にして、死の気配が次々と漂い始めた。

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