【20】不器用な人間に関する観察

 午後も慶太は不機嫌そうに見えた。

 ただ、不快な噂話を繰り広げた私たちではなく、何故か寛人さんに対する受け答えがぎこちない。最初は懐いていたのに、慶太は彼と目を合わせなくなっていた。オーナーも、自身の軽率な発言が招いた不和だと認識しているのか、少し注意しづらいみたいだ。


 「慶太、寛人さんのこと苦手?」

 「ううん。優しいから好き。」

 「じゃあ、どうして?」

 「……わかんない。俺、変だったよね。」


 帰り道、私は慶太に今日のことを尋ねてみたけれど、返事はどこか曖昧だった。

 恋愛の話をしていたときから、彼が見かけ以上に繊細であることは知っていた。やはり、結翔が心を開いて親友と呼ぶ相手だ。彼にも他の人より敏感な部分があるのだろう。


 「変じゃないけど、心配になっちゃった。」

 「ごめんなさい。……次はちゃんとする!」


 しかし――翌日以降は雰囲気も元に戻る。

 寛人さんとシフトが重ならなかったことが影響したのか、慶太は再び明るく振る舞い、私たちの学習は順調に進んだ。大したミスもトラブルもなく、概ね楽しいことばかりの職場体験として記憶に残りそうだった。


 最終日の夕方には記念撮影も行った。

 カフェの制服を着たまま、私たちはオーナーと一緒に肩を並べて写る。初めに正面から数枚、そして、店の広報用に後ろ姿もしっかりと収める。慶太は自分が可愛らしく撮られていることを確認すると、オーナーの方に向き直り、満足そうに頭を下げる。


 「三日間、ありがとうございました!」

 「こちらこそ。今年も賑やかでよかった。」


 温かな笑みを湛えながらオーナーは呟く。

 そういえば、昨年度は璃子先輩がここに来ていたはずだ。彼女は真面目でありながら明るい人だし、オーナーの口ぶりからして、当時も賑やかな雰囲気のまま終えられたのだろうか。


 「やっぱり、去年も盛り上がったんですか。」

 「ええ。君たちくらい優秀な先輩が来たの。今年と同じで、配膳の手伝いや、パフェ作り体験をやってもらったわ。」

 「今の生徒会長ですよね。……手際、良かったんだろうなぁ。」

 「そうね。二人とも息がピッタリで――?」


 途中まで言いかけてオーナーは止める。

 彼女はこめかみの辺りを軽く抑えつつ、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。


 「二人?」

 「……いえ、記憶違いかしら。佐野さんよね。」

 「そうですよね。例年、生徒は一人で参加していたような……」


 SNSアカウントには一人しか写っていない。

 二人の生徒が見られたのは五年も前のことだから、去年の話において、先程の言葉が出るのはおかしい。疲れて記憶が混濁しているのだろうか。もしくは、何か特別な理由があるのだろうか。


 「私、二人までは受け入れられるって、中学校の方には伝えてるのに。」

 「……そうなんですか?」

 「まあ、他に素敵な体験先があるのよね。」


 オーナーは首を傾げて言葉を漏らす。

 私も奇妙だと思う。YURAGIは希望調査でも人気の高い事業所だ。それが、生徒を二人まで見るというならば、埋まらない理由がない。今まで、私は店の都合で人数を絞っていたのだと思い込んでいたが、実態はどうやら異なるらしい。


 「何はともあれ、二人ともお疲れ。気をつけて帰ること。」


 とはいえ、疑問の答えはここでは出ない。

 私たちは三日に及ぶ職場体験学習を終わらせて、また、通常の時程に戻ることになる。


***


 多目的室の電子黒板にスライドが投影される。

 夏休みまで残り三日、一学期の最後には、職場体験の報告会があった。


 私たちは資料の作成にも発表にも苦労していない。

 接客を通じて学んだことや、今後の進路選択についての意気込みを晴れやかに話せば、先生は好意的に受け止めてくれた。それから、慶太が綺麗に盛り付けたパフェの写真を見せ、自慢げに紹介したときには、生徒の方からも感嘆の声が生じた。


 「次は空穂国立大学図書館です。」

 「……はい。」


 やがて、結翔の出番が来る。

 彼は普段から人前に立つことには慣れているし、毎回、完璧に仕上げて遂げるだけの力を有している。それなのに、心はあまり追いついていないようで、待機列にいるときから、胸の辺りに握り拳を当てていたり、深呼吸をしていたり、随分と緊張している様子だった。大方、頭の中で「大丈夫」とでも呟きながら、気持ちを落ち着けようとしていることだろう。――そういうところは、昔から変わっていない。


 「一組の春田 結翔です。僕は、空穂国立大学図書館で三日間の体験を行いました。」


 壇上に立った彼は、資料にレーザーポインターを当てながら滑らかに話す。

 彼のスライドはとても見やすい。無難にまとめられた青系のデザインと、UD体で統一されたテキストが調和している。また、色数や装飾は控えめで視覚的な刺激が少ない。洒落ているというよりは機能的で、読み手に配慮しながら丁寧に構造化していることがわかる。


 「――仕事内容はこの通りです。熱心な学生が利用されることもあり、本の管理をするだけではなく、皆の学びを支え、的確に案内することこそ大事だと教えていただきました。」


 説明に過不足はない。

 写真や図表と一緒に伝えてくれるから、図書館に縁がない人でもイメージはしやすい。声のトーンは一定に抑えられているけれど、要点が整理されているおかげで退屈はしない。必要なことをわかりやすく表すことにかけて、彼に勝る者はいない。


 「今回の体験を通して、僕は将来の進路について、前よりも具体的に思い描くことができるようになりました。」


 ただ、結翔の発表は少しだけ寂しい。

 内容は充実しているのに、彼の意見や顔が見えることはない。いかにも、生徒会役員の子が言いそうな正しいことだけで構成されている。


 「利用者の方々との関わりを見て、職員への尊敬の念を深めた」「進路を考える上では、自分の興味や特技だけではなく、その仕事に必要な努力について調べる必要がある」「学びをこれからの進路選択に生かしていけるように多くの経験を積みたい」――彼の言葉は全て正しい。正しいからこそ中身がなくて、誰が言っても同じように響く。


 豊かな優しさも、細やかな感受性も、発表の中にはない。

 私の知らない模範少年の言葉が結翔の口から放たれている。他でもない結翔自身の意志はずっと閉じ込められている。


 ――コトちゃん、僕……


 結翔は完璧な中学生になった。

 彼の発表には瑕疵がない。彼の生活態度に問題はない。隣の席で震える怖がりで泣き虫な少年はもういない。もういないはずなのに、時折、弱い子の片鱗を覗かせるから放置もできない。


 君はどこまで変わったのだろうか。

 あるいは、何を隠しているのだろうか。


 私は防壁の下の素顔を見なくなって久しい。

 結翔の意志は悔しくなるくらい強い。隙のないプレゼンテーションを終えた彼は、また、誰かに褒められて笑っている。私はその様子をもどかしく眺めながら、六時間目の終わりを告げるチャイムを聞いた。


***


 一人で家に帰ると父の姿があった。

 今日は早めに仕事を終えられたようで、久々に手料理を作ろうと意気込んでいる。普段はそれなりの額の小遣いだけが置かれ、外食か簡単な自炊で済ませることが多いのだけれど、手間が省けて助かる。


 「詩葉、いつものでいい?」

 「もちろん。頼んだよ、パパ。」


 それに、私は父の作るパスタが大好きだった。

 トマトソースの香りが家に漂うのはいつぶりだろうか。待っているだけで胸が高鳴るのがわかる。


 「最近はどう?」

 「うーん、職場体験が楽しかったくらい?」

 「そっか……カフェに行ったんだよね。」

 「駅前の人気店だよ。制服も可愛いんだ。」


 父は興味深そうに話を聞いてくれる。

 だから、私も学校での出来事を細かく伝えていた。流石に欠番にまつわることは言えないけれども、楽しいことはそれなりに多い。特に、友達とのエピソードを簡単に話せば、父は安心したように笑む。


 「いつも、ご飯は食べてる?……栄養は平気?」

 「パパがうるさいからちゃんとしてるよ。」

 「はは……本当はもっと見てあげたいんだけどね。」

 「私、中二だよ?……平気だって。」


 私と父との関係はすこぶる良好だ。

 それでも、父は遅くまで帰らないことについて後ろめたさを感じているようだった。――私は仕方のないことだと思っているし、シングルファーザーとしては上手くやっている方だと評価したいのに。


 父は私のことを丁寧に気にかけるし、それでいて、仕事を疎かにしたこともない。

 おかげで、私は家事に沢山の時間を取られてしまうような子どもでなければ、周りよりも苦しい生活をしているわけでもない。小学生の頃は寂しかったかもしれないけれど、子どもは留守番にすぐ慣れるものだ。それに、私は父に深く愛されていることを知っていたから、安心して待っていられた。


 父が私に対して申し訳なく思う必要はない。

 私は父に感謝している。もちろん、父の日には毎年のように気持ちを伝えているのだが、父は責任感が強すぎる。ありがたいことに、自分はもっと娘を支えられるのだと、前向きに信じているようだ。


 「そうだ、夏休みだけど――」


 テーブルにパスタを並べると、父は私に新しい話を切り出した。

 表情から大体の要件は想像つくけれど、私はフォークを回しながら、軽く話を聞いてあげることにする。


 「ママとごはんに行くんだ。詩葉もどうかな。」

 「……あー、今年は演劇部が忙しいんだ。楽しんできてね。」

 「そうか……」


 私は父のことが大好きだけれど、完璧な人間だとは思わない。

 父は未だにかつての妻――要するに私の母のことを愛しているのだ。馬鹿な女に心を掴まれたまま離れないのは、父が途方もないくらい善良な人間だからだ。こうして、毎年のように復縁のチャンスを掴んでは傷つけられて帰ってくるのが私の父という人間だ。


 「頑張ってね、パパ。」


 本当に愚かしいとは思う。

 だが、私のために多くの犠牲を払っているのだから、多少は愚かしい部分があってもいい。父は父の幸せのために、母のことを追いかける権利がある。娘のことを蔑ろにしない分には文句も言えない。


 惜しむらくは――私の母がどうしようもなく馬鹿で軽薄で意地の悪い、世界で最も穢らわしい女だということだけだ。

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