【15】死闘結束
僕は右手に持つラケットで打撃を弾く。
武器としての強度には差がある。当然ながら、テニスと比べてバドミントンの用具は軽い。それでも、寛人が腕を持ち上げた頂点に素早くフレームを差し込めば、慣性を纏う前に止めることができる。
「結翔、道具は大事にしなよ。」
「君がそれを手放してから考える。」
予備の大縄を取りに行くという名目なのに、僕も寛人もラケットを自席に置いてはいかなかった。
互いに張りつめた空気を感じ取り、こうして、大喧嘩になることも心のどこかで察していたのだろう。僕らは決して引き下がることなく、勝つために神経を研ぎ澄ませていた。
「欠番くん、早めに観念してくれない?」
横合いから風を切るような音が走る。
詩葉が振るう大縄の先端が鞭のようにしなり、寛人を正確に打ち据える。――繊維が肌を擦ったのか、彼の首元には細く赤い線が浮かんだ。
「仲間にそんなことしていいの。」
「将司くんを追い詰めた貴方が言う?」
「仕方ない。彼は悪い人だから。」
痛がる素振りも見せずに寛人は攻撃を続ける。
重厚なラケットが容赦なく振り回され、必死に受け止めようとするたびに、腕には鈍い衝撃が伝い、靴裏が地面を削る。
「違う。寛人が被せた冤罪だ。」
「言いがかりだね。」
打撃は間断なく叩き込まれる。
僕は後退しながら寛人の注目を引き寄せる。振り下ろしは身を傾けてかわし、横からの打ち込みはフレームで受け止めて押し返す。突きはガットで弾き、踏み込みを遅らせて間合いをずらす。
「君が最初にありもしない疑惑を生んだ。」
そして――暫くの攻防の後、詩葉が別方向から縄を叩きつけようとするも、彼は待ち構えていたと言わんばかりに左手で先端を捕らえる。
「僕は見たものを伝えただけ!」
寛人は力任せに縄を引く。
すると、詩葉の体は前のめりに寄せられてしまう。
「……危ない!」
僕は思わず彼女に視線を向けた。
――それこそ、寛人の狙いだった。彼は僕の注意が逸れた一瞬を逃さず、脇腹に目がけて横薙ぎの一撃を力いっぱいに振るう。
「余所見はしないこと。」
「……うぐ……っ……!」
肺の奥から空気が押し出された。
痛みのせいで握力が抜け落ちて、膝が勝手に折れる。幾度も重撃を受けたラケットのフレームは酷く歪んでいて、僕は敵の強さを嫌でも思い知る。
「次はこっち。」
そのまま、寛人は詩葉の方へと躙り寄る。
咄嗟の判断で、彼女は掴まれた大縄から手を離していた。おかげで、相手のペースに呑まれはしなかったけれど、同時に大切な武器を失ったことも意味する。彼は丸腰の状態で勝てる相手ではないだろう。
「ダメだ、逃げて……!」
詩葉は腰元に手を当てながら、何もかも諦めたように目を閉じている。
心臓の音が煩い。今くらい限界を超えなければいけないのに、腹部の鈍痛と、目眩と吐き気が僕の身体を地面に留めて離さない。
逃げて。
僕のことはいいから早く逃げて。
お願いだから逃げて。君は無事でいて。
しかし、祈りも虚しく鈍器は振り下ろされる。
僕は今も弱かった。咄嗟に飛びつく勇気がないくせに、彼女が傷つく瞬間を直視できず、ただ、情けなく目を瞑る。
「君は殺して……ッ……?」
「――ヒトのフリが上手だねぇ。」
状況は一変していた。
再び目を開けたとき、視界にまず飛び込んだのは、腹部から血を流して顔を歪める寛人と、赤色に染まったハサミを持って彼を睨みつける詩葉の姿だった。
「オバケの血も赤いんだね。」
ポシェットの口が開いている。
どうやら、詩葉はそこに切り札を忍ばせていたようだ。
「私は貴方を平気で殺せる。悪い子だから。」
彼女は冷ややかに言い放った。
声色には覚悟ありきの余裕を感じる。刃先から滴る赤色は、僕の心拍と同じくらいのペースで地面に水玉模様を描く。けれども、凶器を握る指先は心許なく震えていた。
「部外者なのに頑張るね。」
寛人は目を逸らさない。
痛みも焦りもあるはずだ。それにもかかわらず、彼は果てしない執念だけで立ち上がり、詩葉に再びラケットを向ける。
「正体を隠すのも飽きた?」
「証明できないなら同じ。」
二人は殺し合いを始めるつもりだ。
これから、戦局がどのように動いたとしても、辿る結末は二つしかない。それは「詩葉が死ぬ」か「詩葉が殺す」か。――僕は、前者も後者も許したくない。
「……やめろ。」
詩葉には幸せに生きる権利がある。
相手が怪異であれ、引き返せないところまで進む必要はない。僕は彼女の潔白を守りたかった。彼女にはそれが必要だった。刃物を持つ手があれほど震えていることだけが答えだ。友達想いの親切な子に、これ以上、余計な負担をかけてはいけない。不甲斐なくとも僕は闘わなければならない。
「――詩葉は悪い子じゃないから!」
地面を全力で押して立ち上がる。
それから、寛人の背後まで駆けて、胴体に渾身のタックルを食らわせた。出血のせいで体幹は安定しないようだ。だから、全体重をかければ僕でも彼を転倒させることができる。
「元気だね。」
ところが、次の瞬間には視界が逆さまになっていた。
背中が地面に叩きつけられる。寛人は身体を翻し、僕の胸元に乗る。彼の少し大きな両手が首に当てられると、今度は強い圧力が加わった。
「邪魔しないで。」
喉に重たい石が詰め込まれたかのような痛みが走る。空気の通り道が閉ざされる。視界の端は薄暗く滲んで、耳鳴りが鼓動と混ざりながら響く。
――しかし、彼は途中で力を緩めてしまう。
「……君は、僕を殺せないだろ。」
僕は呪いの中心という聖域に立っていた。
始業式の日、二年三組で暴れた透明人間は僕に致命的な攻撃を与えなかった。そして、寛人も同じ類の怪異だとすれば、制約を共有していると考えていい。
「勘がいいね。」
彼は必要以上の危害を加えない。
厳密に行動を縛られているせいで、倒れ伏した僕にも追撃ができず、首に手を置いても本気で絞められない。つまり、彼は今――僕という消せないデコイに無駄な時間を割いてしまったことになる。
「――私たちの勝ちでいいかな?」
そこに、詩葉が裏から縄をくぐらせる。
調子に乗るなら絞め殺してやると警告するように。もちろん、暴れる手足には僕が纏わりついて止める。
「……縄、捨てたんじゃ?」
「三分の二はね。なにも、ハサミは人を刺すための道具じゃないでしょ。」
彼の首元にかけられたものを見れば、大縄にしては随分と短く、後ろの詩葉がすぐ両端を引ける長さになっていた。――予め、扱いやすいスペアを作成して服に忍ばせていたようだ。
「詩葉、殺しちゃだめだよ。」
「……うん、脅しで済ませてあげる。」
「僕も手伝う。さっきは、一人にしてごめん。」
縄の端がゆっくりと引かれた。
寛人の顔色はみるみるうちに青ざめる。無様な抵抗も激化する。しかし、詩葉のつけた傷口を僕が下側から抉れば力も抜けるようで、見かけほど制圧に苦労はしない。
「死にたくないなら負けを認めて。」
「……二人とも、敵は僕だけだと思ってる?」
刹那――大勢の声が耳元に届く。
二年生の皆だ。大縄の時間になっても現れない僕らを心配したのか、複数人で校内を探し回っているようだ。
「あ、ユイくん?」
「えっと、不味いかも。」
果たして、不安は的中する。
捜索グループは間もなく広場を訪れた。寛人の口ぶりからして、大方、中に紛れる欠番仲間がここまで皆を誘導したのだろう。惨状を見せつけることが目的か。
「ユイト!?」
最初に慶太が声を上げながら駆け寄る。
無理もなかった。僕に馬乗りになっている寛人と、彼の首元に縄をかけている詩葉の姿。それに、辺りには血痕が広がっていて、刃先の染まったハサミまで落ちている。
「僕はここにいる。正体がどうであれ、仲間を傷つけた以上、二人は犯罪者になる。」
寛人は悪あがきで難題を突きつけた。
彼はいかに怪しかろうと――実体を持ってここにいる。本当はいないはずなのに、認知が狂わされている以上、不在の証明は不可能にも等しい。
――君は、僕を殺せないだろ。
それでも、彼はルールに縛られた怪異だ。
厳密であればあるほど突破口は見つけやすい。前提として、彼は何によって存在を定義されているか。彼の正体はどこでわかるのか。
――そう、三組の出席番号なんだと思う。
一つの解釈は既に成立していたはずだ。
彼を始めとする欠番は二年三組の生徒である。ということは、三組の名簿に寛人が載っていることさえわかれば、逆説的に一組にはいないことを証明できる。ただ、僕らは名簿の文字を読むことができない。流石に、何も読まずして「三組にいること」を知らしめる手段は――。
――私も転入したいな。
ふと、最後のピースが当てはまる。
僕は突飛な妄想に取り憑かれているのかもしれない。意味のわからないことをしでかすかもしれない。だが、他にできることもないのなら、試す価値がある。
「大丈夫、切り抜けるよ。」
僕は寛人の血に濡れた手を掴み上げ、同時に、体育着のポケットから二年三組の名簿を取り出す。
『
理屈は至って単純だ。
一般論として、既に在籍しているクラスに転入することはできない。つまり、寛人の転入が拒まれた時点で、元から「二年三組」のメンバーであり、僕らの仲間ではないことが証明される。
「君はここにいない。」
半ば祈るようにして最後の一画を書き込む。
瞬間、古びた紙が妙に熱くなる。重たい風邪を引いた人間の額のように、あるいは、酷使されたコンピューターのように。――不具合を拒む熱を帯びた。
「嘘だ……」
寛人は怯えた様子で名簿を見つめる。
いつの間にか、所定の位置に『21番 仲治 寛人』と読みやすいフォントで記されていた。真実を告げるように、掠れた文字の輪郭が露となったようだ。
「君は、二年三組の生徒だから!」
僕は高らかに叫ぶ。
寛人はここにいてはいけない。存在しないクラスの人間だ。だから、僕らの輪から出ていくべきだ。
***
「結翔、詩葉ちゃん、もうすぐ大縄だよ。」
「入場待ちだから、早く行かないと!」
――同級生の声が聞こえる。
辺りに血痕はない。僕らと死闘を繰り広げた彼もいない。ただ、歪な形になったバドミントンラケットと、ハサミで切られた大縄に、僕らを心配そうに見つめる友人だけが集まっている。
僕らは勝ったのだろうか。
少なくとも生きてはいる。疑いの目も向けられていない。
「……ユイト、戻ろ。」
驚いた顔で惨状を眺めていた慶太すら冷静だ。
あたかも、彼は何も起こらなかったかのように振舞って、僕らを会場まで連れようとする。
「心配かけちゃったね。」
「涼しい場所を探してただけなの。」
応援席には、昼頃から姿を見せていなかった二人も並んでいた。
生徒や保護者のざわめきの中、彼らの間だけは時が止まっているように静かだ。将司は膝の上で拳を握りしめ、足先で砂をいじる。陽菜は彼の横顔を見つめながら、背中を優しく叩いている。
やがて、将司が動く。
彼は自身に敵意を向けていたクラスメイト全員の前で息を吸い込み、少し赤くなった目も隠さずに告げる。
「俺、本当に……皆と一緒に楽しく勝ちに行きたいだけなんだ。だから、お願いします。一緒に跳んでください。」
次に、陽菜も将司の隣に立った。
頬には涙が伝っている。彼女は何度もしゃくり上げながら、それでも、絞り出すように本音を吐露する。
「私……将司がいない運動会なんて嫌だから。馬鹿でうるさいけど、でも、それでいいじゃん。皆で楽しくやろうよ……!」
皆は神妙な面持ちで二人の言葉を聞く。
気まずい沈黙が流れた後、最初に誰かが小さな声で「ごめん」と呟いた。そうして、彼に続くように、色々なところから謝罪の声が上がる。
火を付ける寛人がいない今――皆には将司のことを疑い斥ける理由も動機もなかった。
他の欠番も、潜伏を選んだのだろう。
「別にいいよ。」
将司は口元に小さく笑みを浮かべる。
無理に表情を作っているのはわかったけれども、それは、将司なりに楽しく過ごしたい心の表れだ。彼は再び深呼吸をすると、今度は普段通りの大声を発した。
「じゃあ――やるぞ、二年一組!」
将司の音頭に合わせて全員が肩を寄せ合う。
腕が絡み、背中が触れ合い、輪の中の体温が一つにまとまった。
「俺たちの底力を見せよう!」
「おー!」
僕らはグラウンドに駆け出した。
次のプログラムは大縄跳び。今年度の運動会、僕らのクラスが真に団結して挑む、最初で最後の宝物のような種目だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます