ここにいない貴方のための授業
ゆいつ
序章『71/48』
【01】旧校舎の人影
春の光は、寂れた旧校舎を控えめに照らし出す。
その建物は、僕がまだ小学生だった頃には使われていたそうだけれど、今では大きなフェンスに囲まれて、立入禁止の札がいくつもぶら下がっている。物々しく封鎖される理由については「安全上の都合」とだけ言われ、詳しく説明されることもない。ただ、古いだとか、傷んでいるだとか、曖昧な言葉が繰り返されるばかりだ。
僕はそこに誰かの影を見たような気がした。
正確には、窓ガラス越しに誰かがこちらを見ていた。遠い上階にいるものだから、姿は定かではなかったけれど、確かに視線を感じた。
しかし、正体を見破る間もなく、風に勢いよく巻き上げられた桜の花びらによって視界が塞がれる。一瞬のことではあったが、それっきり、影は見えなくなってしまった。
代わりに、僕の左手には何かが握られていた。
薄っぺらくて、どこか、焦げついた匂いのする古い用紙だ。紙面に『二年三組学級名簿』と書かれているからには、数十人の名前が載っているのだと思ったけれど、インクの文字が掠れていて、殆ど読むことができない。
それこそ、辛うじて認識できるのは――『
名簿の最後に、手書きで加えられていた僕の名前だけだった。
***
ここは、K
少子化の波を真正面から受けた地方都市の小規模校。とはいえ、自治体の予算には余裕があるらしく、数年前に校舎が増設されたり、電子黒板が導入されたり、学習環境の改善には随分と力が入っている。
もちろん、僕らが使うのは新しい建物の方で、旧校舎は今や取り壊しを待つだけの廃墟である。頻繁に出入りするのは用務員の方くらいだろう。
「ユイトどうしたの。早くクラス確認しようよ。」
ぼんやりしていると、一緒に登校していた
教室も図書室も保健室も、先生が過ごす職員室すらも、白く磨かれた爽やかな廊下の先にあるのだ。普通の子は、壮麗でもない過去の遺物の前で足を止めない。いつも、何かに導かれるようにして、視線を吸われてしまうのは僕だけだ。それはわかっているのに、変なことを気にしてしまう癖が抜けない。
「ああ、ごめんね。行こうか。」
今日から、僕らは中学二年生になる。
新しいクラスの名簿は、昇降口の近くにある掲示板に貼り出されていた。僕は人だかりの後ろの方から光沢のある紙を一生懸命に凝視していたが、慶太の方はあっさりと自分の名前を見つけたようで「あ!」と大きく声を上げる。
「ええと、俺は二組で、ユイトは……あぁ……」
彼の示す先には『春田 結翔』の名前がある。
どうやら、僕は二年一組らしい。この学年には二つのクラスしかないというのに、慶太とは離れ離れになってしまった。残念だと思ったけれども、僕以上に慶太が悲しそうにするものだから、少し嬉しいような心地も抱く。
「部活で会えるでしょ。それに、登校は変わらず一緒でもいいんだから。」
「まぁ、それもそうだよね……」
落胆する慶太を慰めてから、僕は三階にある一組の教室を目指す。
歩いていれば、同学年の生徒たちの声がちらほらと聞こえてきた。新学期の始まり特有のざわめきが、未だ手垢のついていない空気を少しずつ濁らせていく。皆、手探りの距離感ではあるが、新しいクラスでも仲良くなろうと言葉を交わしていた。
教室に着いた僕は、初めに前方の黒板に貼られた座席表を見た。
机は窓側から二列目。しかも、教卓から離れた後ろの方にある。僕は不真面目な生徒ではないけれど、それでも、先生の気配をあまり感じずに済む席は嬉しい。当たりを引くことができたみたいだ。
「ユイくんおはよう。今年も同じクラスだね。」
「そうだね、
「……コトちゃん、でしょ?」
荷物を置いたところで、僕に話しかけてきたのは隣席の
僕とは小学一年生の頃からの付き合いで、同じクラスにならなかったことが一度もない。だから、決して仲が悪いわけではないけれど、小さかった頃のイメージを引きずったまま話してくるのはやめてほしい。
「……おはよ、綿本さん。」
「頑固だなぁ。私はまだコトちゃんって呼ばれてあげてもいいのに。」
第一、呼び名だってそうだ。女子は今でも馴れ馴れしく振舞っていいみたいだけれど、僕は男子中学生である。幼なじみであれ、妙なあだ名で呼んでいれば、周りから面倒な噂を立てられることは間違いない。特に、慶太はそういう話が大好きなやつだから、仲良しの僕はことさらに警戒しなくてはならない。
詩葉はそういう男社会のルールを知らない。というより、知った上で面白がっているところがある。僕がいかに恥ずかしさを滲ませたところで、彼女を楽しませるだけでおしまいだ。
「もういいでしょ、呼ぶとしても下の名前ね。それも呼び捨てだから!」
「苗字呼びよりはいいか。君も大きくなっちゃったんだねぇ。」
全く意味のわからない目線から話してくる彼女に呆れ、僕は堪らず窓の外へと視線を移す。
今日はよく晴れていて、桜も満開で、絶好の始業式日和だと思う。
「いい席じゃん。旧校舎も見放題。ユイくんあそこ大好きだもんね?」
「別に、そういうわけじゃないけど。」
今はただ景色を見ていただけだ。
しかし、確かに詩葉の言う通り、この教室は旧校舎にほど近く、窓からはっきりと眺めることができる。それこそ、先ほど見た上階の影も――。
「……いるね。」
僕よりも早く、詩葉が反応を示した。
視線の先にはあの影がいる。表情や容貌は窺えないけれど、窓越しにこちらを見ていることだけはわかる。
だが、そんなことより、彼女に今すぐ訊かなければならないことが一つあるだろう。
「え、詩葉、視えるの……!?」
「うん。でも、ハッキリとしたのは今日が初めてかな。」
何事もないような口調で、衝撃の事実を告げてくる詩葉に対して、僕は返す言葉も浮かばない。
実は、僕が旧校舎の影を見るのは今に始まったことではなかった。空穂中学校に入学した頃から、あの建物を気にしていた僕の前にそれは幾度となく現れた。校舎を見上げる度に、大体、五回に一回くらいの確率で見ることができた。
怪奇現象だとは微塵も思っていなかった当時の僕は、詩葉や慶太を初めとするクラスメイトに「あの人は何だろう」と尋ねてみたこともあった。そのとき、詩葉は何も言わなかったけれど、慶太や他の部活メンバーは「誰もいないじゃん」と怪訝そうに答えてくれた。
だから、僕は今まで「あの影は、自分にしか見えない幻覚のようなものだ」と片付けて、変な体験をしてしまうのも、自分のちょっとした秘密として守ってきたつもりだった。
それが、今、詩葉にも同じものが見えているらしい。簡単に信じられるような話ではなかったけれど、彼女の浮かべる淡い笑みに一切の嘘は滲んでいない。
「――だから、今年は凄いことになるかも。」
そうして、彼女は鞄から一つの名簿を取り出すと、僕の机上にそっと広げた。
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