第27話 もうわかってる

 昼休み、教室の隅でぼんやりと弁当の袋を開けながら、遠くから聞こえてくる陽南の笑い声に耳を傾けていた。

 陽南の笑顔や声は、これまでと何も変わっていない。

 でも今の俺には、あの周りを照らすような笑顔や、透き通るような声が、全て作り物に思えてしまっている。

「……翔太郎!」

 さっきまで教室の後ろにいたはずの陽南が、いつの間にか俺の机の脇に立っていた。

 軽く身を乗り出して、顔を俺の耳元まで近づけてくる。

「今日もお弁当、一緒に食べよ?」

 耳元で響くその声は、甘く、柔らかい。でも俺の背筋は、反射的に強張る。

「……このあと、ちょっと用事あるんだ。今日は速攻で食べなきゃいけないから、ごめんな」

 俺は視線を合わせないまま、そう言った。

 それを聞いた陽南の笑顔が、一瞬だけ揺らいだ気がした。

 でもすぐに、いつもの無邪気な表情に戻る。

「そっか、じゃあまたあとでね」

 陽南はそう言って、軽く手を振って去っていく。その背中を見ながら、俺は自分の手がじんわりと汗ばんでいるのに気づいた。


 陽南とは、心の距離を取らなきゃいけないと思ってるのに、それでも、目を逸らすのが妙に怖い。

 陽南を止めると決心したはずなのに、俺はまだ、心の底では陽南から離れたくなかった。まだどこかで、陽南がいないと壊れそうな自分がいる。

 クラスの皆を、陽南を崇める奴らを、心のどこかで軽蔑してたくせして、俺もまた同じようなものだった。

 この期に及んで、俺は、本当に最低だ。

 


 放課後の廊下を歩いていると、背後から聞き慣れた声が追いかけてきた。

「ねえ!ちょっとだけでいいから、話せない?」

 振り返ると、陽南が立っていた。

 どこか甘えるような声。上目遣いのその目には、無垢なベールがかかっている。

「ああ、わかった」

 断る理由を考える前に、言葉が口から出てしまった。

 気づけば俺は、陽南に連れられるまま、嫌な記憶が残るあの空き教室へと足を踏み入れていた。

 陽南は、俺のすぐ隣にある椅子に腰を下ろし、上半身を少しだけこちらへ寄せてくる。

 胸元のボタンが開いていて、肌がちらつく。

「ねえ、もっとさ……“仲良く”しようよ」

 陽南はそう言うと、俺の制服の袖に、そっと自分の指先を這わせるように触れてきた。

「……今はやめろよ。そういうの」

 思わず一歩後ろに下がり、陽南から距離を取る。

 陽南は少しきょとんとした顔をしたあと、小さく笑った。

「なんで?こういうの、翔太郎は嫌じゃないと思ってたんだけどな」

「……悪いけど、そういう気分じゃないんだ。また今度にして」

 陽南は少し不服そうな顔をして、しばらく黙ったまま、俺の顔をじっと見つめていた。

 その瞳の奥で、何を考えているのかは、まるで読めなかった。


 どうしても思い出してしまう、 あのときの優花のことを。身体で気持ちを確かめようとする、このやり方。

 あのときの俺は、何も出来ずにその場の空気に飲まれてしまった。だから、また同じことを繰り返したくはなかった。



 翌日になると、今度は俺の机の周りに、数人の女子たちが集まってきた。

「世良くん、ちょっといい?」

 最初に口を開いたのは中村だった。

「ヒナはね、世良くんのことを本当に大切に思ってるんだよ。普通だったらさ、そんなに想われてるなんて嬉しいって思うよね。しかもヒナだよ?男子みんなの憧れだよ?本来なら、とっても光栄なことなんだよ?」

 その目にちょっとした敵意を滲ませ、そして随分と押し付けがましい物言いだった。

 昨日の昼休みに放課後と、俺が陽南を避けていたのを、きっと本人から聞いたのだろう。

「ヒナちゃんが、世良くんのこと心配してたよ。ヒナちゃんに心配してもらえるなんて、ありがたいことだと思わない?」

「ヒナ様は、特別な存在なの!だから、泣かせたら許さないからね」

 中村に続くように、女子たちが次々と俺に対する不満をぶつけてくる。

 俺は無言のまま、机に視線を落とした。

 何を言えばいいかわからない。というより、何を言っても無駄な気がした。

「それは充分わかってるよ。けど、最近色々あってさ、今ちょっと体調が悪いんだよ。だから勘弁してくれって。しばらく一人でいたいんだ」

 俺がそう返すと、女子たちは「そういうことなら」と言いつつ、腑に落ちない様子で離れていった。


 俺の心の中では、不快感と、焦燥と、うんざりした気持ちがぐつぐつと煮えたぎっていた。

 これは全て、陽南があいつらに言わせてるのだろうか。

 それとも、もうこの教室が、自動的に陽南を守る空気を作ってるのだろうか。

 どっちにしても、もう俺はこの教室では、自分の思ってることすら自由に言えない。

 皆から求められている答えは、もう最初から決まっている。

 そうじゃない答えを返した瞬間に、俺はこの教室から排除されるだろう。

 


 帰り道、夕暮れの坂がいつも以上に重たく感じる。

「あ!いた!ねえ翔太郎、待ってよ!」

 ふとしたタイミングで、陽南が駆け足で俺のほうに寄ってきて、そのまま隣に並んで歩き始めた。

「ねえ、なんで私のこと避けるの?......ひょっとして翔太郎さ、まだ優花のこと気にしてる?」

 陽南のその問いかけに、俺は足を止めた。

「まだ?......だとしたら、それは悪いことなのかよ」

「そうじゃないけど……でも、もう大丈夫なんだよ?......だって、今の翔太郎の隣には、私がいるから。私だけが、翔太郎のことをちゃんとわかってるから」

「嘘つけよ……お前に、俺の気持ちの何がわかるって言うんだよ!」

 俺が感情に任せてそう言った瞬間、陽南の顔が、明らかに曇った。そして、俺を睨みつけるような目に変わった。

「優花がなんだっていうの!?あの子、何もしないで見てるだけのくせして、いっつも翔太郎の彼女ヅラして超ウザかった!なんか、ちょっと私の真似して機嫌とってきたと思ったら、今度は私の居場所まで奪おうとしてた! 翔太郎は、そんなこと知らないでしょ!」

 陽南の声が、頭に響いた。普段の彼女からは想像もつかないような、荒々しい声。

 そして、俺を睨みつけるその目には、怒りと、嫉妬と、憎しみが入り混じっているように見える。

 初めてだった。陽南が、笑顔を捨てて本音をぶつけてきたのは。

「やっぱりお前……優花に何かしてたんだな?」

「私は、何もしてないよ!優花が勝手にああなったの。私は前から言ってたでしょ?あの子は心の色が濁ってるって。私には、最初からそれが見えてた。だから仕方がないことだったんだよ。わかるよね?」

 わからない。わかるわけがない。

 俺はそのまま、何も言わずに歩き出した。その背中を、陽南の声がまだ追いかけてくる。

「ねー、ごめんって!ひどいこと言っちゃったのは謝るから、ね、仲直りしよ?」

「ああ、そうだな」

 そう言いながらも、俺は陽南の顔を見なかった。

 

 やっぱり陽南は、自覚しているんだ。

 どうすれば、人を引き寄せられるのか。そしてどうすれば、人を壊せるのか。それを、ちゃんとわかってる。

 自分がどんな言葉を投げれば、誰がどう動くかも、全て、わかっているんだ。

 それを計算しながら、実行してる。笑顔のまま、ためらいもなく。

 


 数日後。

 俺は、部屋でスマホを開き、陽南に一通のメッセージを打ち込んでいた。


『明日の夜、少し時間くれないか。お前と、ちゃんと話がしたい』


 送信ボタンを押す指先は、もう前のように震えてはいなかった。

 このクラスを変えるためには、俺が本音で陽南と向き合わなきゃいけない。

 それが本当に正しいのか、どんな結果になるのかは、正直わからない。


 でも、ここまで来たらもう、やるしかないんだ。

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