第6章 沈みゆく太陽

第26話 そこにあるのに

 インターホンの音が鳴ったのは、日曜の休日が終わろうとしている、夜十一時過ぎだった。

 俺の両親はもう寝室にいて、リビングには俺ひとり。テレビもつけず、ソファに寝転んだまま、ぼんやりとスマホを眺めていた。

 こんな時間に誰だろうと怪しみつつ、玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、優花の両親だった。


「ああ、翔太郎くん!久しぶりだね」

「あ、おばちゃ……杏子さん!」

 久々に会う優花の母親、杏子さん。思わず子供の頃のノリで応対するところだったが、以前、優花に釘を刺されていたことを思い出した。

「それ、優花から言われたんでしょ?変なとこ真面目なのは、昔から変わらないね。おばちゃんでいいよ」

 杏子さんはクスクスと笑いながらそう言う。その見た目や喋り方は、優花にそっくりだ。

 でも、その目は赤く腫れた感じで、明らかにさっきまで泣いていたことがわかる。

「こんな夜分に、ごめんなさい……でも、どうしても、聞いておきたかったの」

 状況的に、ただごとではないというのはわかる。たぶん、このあいだの優花との一件についてだ。

 相当怒られるかもしれないと思いながら、覚悟を決めて話を聞く。

「実はね、昨日から……優花が、家に帰ってきてないの」

 杏子さんは、声を振るわせながらそう言った。

「……え?」

 予想外の言葉が返ってきて、思考が一旦止まる。

「私が最後に話したのは、金曜日の朝だったの。優花が、『今日の放課後は友達と遊ぶから、帰りが遅くなるかも』って……でも、そのまま何も連絡が取れなくなって。電話も繋がらないし、メッセージにも既読がつかないの。それで、その日の最後に会った“友達”って、もしかしたら、翔太郎くんじゃないかと思って」

「その日の夜中には、たぶん家に帰っていたんだよ。制服や学校の荷物が部屋に置いてあったし、なぜか、鏡も割れていたんだ。翔太郎くん、何か知らないか?」

 横に立つ優花の父親が、口を挟むように言った。名前は確か、正樹さんだったと思う。

 自分の胸が、どんどん締まるような感覚になってくる。

 心当たりはある。でも、それを口には出せなかった。

「僕は放課後に、校内で優花さんと話をしただけです。それ以降は、一緒だったわけじゃありません。あのあと優花さんがどこに行ったかまでは……僕には」

「じゃあ、優花と話したときの様子は?何か変なところとか、なかったかい?」

「……クラスの人間関係で、悩んでることは聞きました。でもそれ以上は、よくわかりません」

 これは嘘じゃない。かといって、本当のことでもなかった。

 正樹さんは苦しげに笑って、俺の肩に手を置いた。

「ありがとう。もし、何か思い出したことがあったら、どんな些細なことでもいいから、すぐ教えてほしい。よろしく頼むよ」

「気を遣わせて……ごめんね。でも、あの子のこと、よろしくお願いします」

 杏子さんは深く頭を下げて、泣き出しそうな顔で、俺を見上げた。

 そのまま二人が帰っていく背中を、俺は玄関で立ち尽くしたまま、ただ見送ることしかできなかった。

 

 俺は、あの日起きたことを、ほとんど何も言えなかった。

 そもそも、そんなことを優花の両親に言えるはずがない。あのとき、優花が俺に何を言って、何をしてきたかなんて。

 それでも、きっと、俺のせいだ。

 優花がいなくなったのは、俺が、あいつの気持ちに向き合わず、何もしてやれなかったから。


 まさか、優花まで、治樹のように——


 そこまで考えが巡ると、膝が震え、崩れ落ちそうになった。

 全身の力が抜けて、足元から冷たい氷が這い上がってくるようだった。


 


 翌朝の教室は、いつも通りの賑やかさだった。皆が陽南を囲んで、朝の会話を楽しんでいる。

 俺の目線は、空席になった優花の机を、何度も追っていた。

 でも俺と同じように、そこに目を留める者は、一人もいなかった。


 田辺が教室に入ってきたところで、ホームルームが始まったが、田辺の顔は、いつも以上に疲れているように見える。

 それに、プリントを持つ手も微かに震えていた。

「えー、大事な連絡があります。高野優花さんが、一昨日から家に帰っておらず、現在、ご家族とも連絡が取れていません。警察にも行方不明者として届けが出されており、現在、捜索が行われています。もし、何か知っていることがあれば、先生に教えて欲しい」

 一瞬、教室が静まり返る。

 けれど——

「え、マジ?」「事件とか?こわっ」「まあ、警察が探してるなら、見つかるでしょ」

 ざわめきが広がる。でも、そのどれもが、妙に軽かった。

 誰も本気で、優花を心配していない。口調に、感情が伴っていない。

 クラスメイトが行方不明だというのに、どうして、こんなにいつも通りでいられるんだ。

 この教室は、もう、他人への関心を完全に失っている。

 他人の不幸なんて、自身の心に届く前にすり抜けて、跡形もなく消えていく。

「繰り返すが、何か知ってることがあれば、今すぐにでも教えてくれ」

 田辺は沈んだ声でそう締めて、教卓にプリントを置いた。

 でも、誰もそれに対して返答しようとはしなかった。



「ヒナちゃん、今日の言葉って、いつもらえるの?」

「ヒナ様、またお手紙書いてきました!」

「俺、最近また親と喧嘩したんだ!どうすればいいかな?」

 そんな声が、教室の端々から聞こえてくる。

 女子たちが陽南を囲んで、相変わらず目をキラキラさせながら笑っていた。

 それに男子たちも交じって、誰もが彼女に声をかけたがっている。

 陽南は、教室の中央に、悠然と立っていた。

 それはアイドルじゃない。もはや宗教の教祖のように、微笑みながら一人ひとりに言葉を投げかけていく。 

 俺にはもう、陽南がこの役割を演じているようにしか見えなかった。

 誰かのために、何かを投げかけるのではなく、ただそれを投げかける自分を演じ続けている。

 そこには、迷いも、揺らぎもなかった。

 ただ静かに、完璧に、“女神様”であり続けていた。


 もう誰も、優花のことを話さない。ついこの前までこの中にいた、彼女の存在を語らない。

 きっともう、明日には、誰もこのことを覚えてはいないんだろう。


 狂ってる。 このクラスは、もう完全に壊れてしまったんだ。


 放課後、誰もいない教室で、俺はひとり、その真ん中に立っていた。

 ふと、優花の席に目をやる。

 机の中には、教科書やノート、そして、ヘアピンがいくつか入っていた。

 優花が、よく部活のときに着けていて、カチャカチャと揺れていたことを思い出す。

 どれも、彼女がここにいた証だった。でも、誰もこれらを見ようとしない。

 ここに彼女がいたことすら、記憶の中から消し去られていく。


「……優花」


 ぽろぽろと、涙が頬を伝って落ちた。

 音もなく、静かに。自分でも気づかないほどに。


 俺は、また現実から逃げた。

 でも、これ以上逃げたくない。逃げることは、もう終わりにするんだ。


 こんなクラスを、こんな空気を、誰かが止めなきゃいけない。

 その誰かは、もう俺以外にいないんだ。

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