第4章 彼女が満ちるとき

第16話 信じる者は

 治樹とのメッセージ欄には、既読マークだけが、ぽつんとあるように見えた。

 治樹からの返信は、あの一言以来、返ってこないままだった。

『おめでとう!』

 その言葉が、今になってやけに白々しく見える。内野と付き合っていることを認めた俺への、ただの社交辞令か、それとも皮肉か。それすらも、確かめられない。

 それに返事が来ない理由は、当然わかっている。

 だって俺は、あいつの想いを踏みにじって、平気な顔で、内野と楽しそうに笑っていたのだから。

 今日から、新学期が始まる。

 夏休み明けの教室で、嫌でも治樹と顔を合わせる。俺はどんな顔をすればいい。何を言えばいい。むしろ、もう何も言わない方がいいのかもしれない。

 その答えを探せないまま、俺は制服のボタンを留め、スマホをポケットに滑り込ませた。


 足取りが重くなっていたせいか、いつもより登校が遅くなってしまった俺は、ホームルーム直前に教室に滑り込んだ。

 だが、教室内は夏休み明けにしては、妙に静かだった。

 まだ、夏の残りを多く含んだ陽射しが、窓から強く差し込んでいるのに、どこか冷たい。そんな雰囲気の中、俺は席についた。

 治樹は、自身の席にはおらず、教室をぐるりと見回しても、どこにもいなかった。

「……治樹、遅刻か?」

 誰にともなく呟いたそのとき、担任の田辺が入ってきた。手にしたファイルを胸に抱え、顔色は土気色をしていた。

「えー……まずは、夏休みはどうだったかと聞きたいところなんだが、みんなちょっと、静かに聞いてほしい」

 その声には、普段の軽さがなかった。教室がピリつき、皆は、田辺が次に何を言うかを静かに待っている。

「新学期早々、こんな話をして申し訳ないが……この夏休みの間に、岸本治樹くんが亡くなった。大変残念なことだが、自宅で、命を絶ったそうだ」

 一瞬、世界が止まったような気がした。

 耳鳴りがした。呼吸が浅くなる。心臓がバクバクと動き、椅子の上でバランスを崩しかけた。

「自室のクローゼットで……首を吊っていたらしい。遺書などはなく、葬儀はご家族のみの密葬という形で……すでに終わった」

 ざわざわと騒がしくなってきた周りの声や音が、どんどん遠くなる。視界もゆがんでいる気がする。

 ——嘘だろ?

「岸本くんのご両親から、学校で何かあったのではないかという話も出てる……正直に言えば、いじめを疑っているらしい。場合によっては、調査委員会が入ることになるかもしれない」

 やめろ、と心の中で叫んだ。胸をナイフで引き裂かれたようだった。

「でも、みんな、岸本のこといじめたりとか……そういうのは、なかったよな?このクラスは全員、仲が良かったよな?」

 まるで、そうであって欲しいという、田辺の切実な願いのような言葉に、教室が凍りつく。誰も何も言わなかった。

 あのとき、俺が内野の告白を断っていれば——

 あのとき、治樹にもっとマシな返事ができていれば——

 あのとき、直接会って話していれば——

 俺は、ただひとり、全ての“もしも”を背負っていた。


「……そんなの、ひどいです!」

 涙声が、空気を切り裂いた。内野だった。

 彼女はうっすらと目を潤ませながら、前を見据えていた。

「治樹くんは、明るくて、優しい子でした!誰もいじめたりなんか、するわけない……そんなこと、絶対にあり得ません!」

 誰かが、息を呑んだ。

 内野のその言葉がきっかけとなり、皆が涙を流し始め、ぽつぽつと声が上がる。

「そうだよ、俺たち仲良かったよ!」「あいつは、超いいやつだった」「いじめなんて……私、見たことない!」

 教室の空気が、内野の言葉を押し上げるように、一体になっていくのを感じた。

 でもわかる。そうしなければ、この空気には耐えられない。


 ただ、俺だけは、この渦に、入れなかった。入ってはいけなかった。

 だって、治樹を追い詰めたのは、いじめでもなんでもない。

 ——この俺だ。


 俺は、今すぐにでも、この教室から逃げてしまいたかった。

 でも、動くことが出来ない。それに、周りは俺を逃してはくれなかった。

「世良くん、ヒナちゃんと付き合ってるってほんと?」「いつから!?」「内野の方から告白したって、マジ?」

 昼休みになる頃には、教室はもう、俺と内野の恋バナを探るモードに切り替わっていた。

 今朝のあの冷たい空気が嘘みたいに、教室内では、好奇心たっぷりの問いかけと、笑い声が飛び交う。

 治樹の死という現実が、あまりにも、あっさりと、まるで煙みたいに消えようとしていた。

「……なあ、今日はその話、やめてくれないか?」

 俺が、力なく小さく呟いた声は、誰にも届かない。

 今のこのクラスにとっては、人ひとりの死よりも、クラス内で誰と誰が付き合ったかということの方が、よっぽど重大なんだろう。

 俺だけが、異なる時間軸に取り残されているように感じる。



 放課後、優花から『少し、話がしたい』とメッセージがあり、俺は校舎裏に呼び出された。

 優花は、神妙な顔つきで俺の目を見つめると、話を切り出した。

「……治樹くん、本当に……残念だったね」

 優花のその声に、胸が詰まった。

 彼女はこのクラスで唯一、治樹の死に、一緒に向き合ってくれる存在じゃないのか。そう思うだけで、心が少しだけ解けそうな気がした。

「優花……俺さ」

 俺は、本当のことを言おうとした。言ってしまいたかった。

 全部、俺のせいなんだ。俺が、間違った選択をしてしまったんだと。

 でも、その一歩手前で、優花の声がそれを遮った。

「ねえ……ほんとに、陽南と付き合ったの?冗談だよね?何かの……間違いだよね?」

 その言葉に、目の前の景色が、音を立てて崩れた気がした。

「治樹くんの気持ち、わかってたんでしょ?それなのに、陽南と付き合うなんて、おかしくない?……それに……私のことだって!」

 わかってる。さっき、それを説明しようとした。少し待ってくれ、そんなに矢継ぎ早に責めないでくれ。

「なんで、お前のことが出てくるんだよ。関係ないだろ」

 瞬間的に口から出てしまった言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。

 優花は目を見開き、手で口を押さえると、そのまま何も言わずに走り去っていった。

 また、ひとつ、大切な何かが、俺の手からこぼれ落ちた瞬間だった。



 帰り道、スマホを開いても、画面は空白に見えた。

 治樹からの返信は、もう二度と来ない。

 優花からのメッセージも、もちろん入っていない。

 ふと、内野から『翔太郎、大丈夫?』というメッセージが一通だけ来たけど、今はそれに言葉を返す気力もなかった。

 俺は、自分だけを守る道を選んだ。だから、誰にどう思われても、仕方がない。これは、自業自得だ。

 でも、俺が選択をしたあのときは、なんとなく、うまくいく気がしていた。しかし、俺の始まりの鐘の音は、治樹の命を代償にして、鳴ってしまった。


 

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