第3話 少しだけ絵に触れるとき
このクラスは、たぶん理想的なんだと思う。
誰かが浮くこともないし、故意に無視されるような子もいない。全体が穏やかで、まとまりもあって、少なくとも自分がこれまで経験してきたどのクラスよりも、うまくいってる感じがする。
それでも、俺はなんとなく、どこか少しだけ息が詰まっていた。
もう見慣れ始めた朝の教室では、中村が内野の手を引いて、「今日も一緒にダンス動画撮ろ」と声をかけていた。
「陽南と撮ると、マジで再生数上がるからさ」
流行りの曲に乗った可愛らしい振り付けの練習をする内野と中村。周囲もそれを笑顔で見ている。
特別な騒ぎなんて微塵も起きていない。むしろ平和そのものといった光景。
だけど、俺の中には、やはりどこか落ち着かないというか、言葉にならない小さな違和感が拭えなかった。
その日の放課後、この学校では初めての掃除当番として教室に残された。
窓際の机を動かしていたとき、教室の外から戻ってきた内野と目が合った。
「今日の掃除当番一緒だよね。よろしくね、世良くん。普段隣の席だけど、何気にちゃんと話すのは今日が初めて?」
軽やかで明るい声だった。特に変な抑揚もなく、普通に感じがいい。それだけのはずなのに、俺は一瞬、思わず間を置いた。
「ああ……そうだったっけ?こちらこそ、よろしく」
改めて内野と顔を合わせて話すことに緊張しているせいか、そう言いながら、首筋辺りから少し汗が出るような感覚があった。
内野は既に雑巾を片手に、教卓を拭き始めている。ほんの少し離れた距離。会話が生まれるには、ちょうどいい間合いだ。
「今日もいい天気だねー。ていうか少し暑くない?掃除してるだけで、ちょっと汗かいちゃうんだけど」
内野はそういうと、制服のネクタイを少し緩め、襟元のボタンを何個か外しながら、手で首の辺りを煽いでいる。
目の前で、可愛いくてスタイルの良い女子にそんな大胆なことをされて、ドキッとしない思春期の男子はおそらくいないだろう。
「た……確かに暑いね」
目線の位置と、どう返答したらいいのかが思い浮かばず、それ以上の言葉が出てこなかった。
「ねえ見て!このへんさ、意外とホコリたまるんだよね。なんでかな?」
「あー、そこらへんは風が通るからじゃない?窓際のホコリがそっちに流れてるんだと思う」
「なるほど、確かにここ涼しいね」
会話はギリギリ成立している。でも俺は内野と話しているはずなのに、どこか自分の声が、空中で消えていくような感覚に囚われていた。
目も見て話をしているのに、どこか目が合ってる気がしない。
前に内野と目が合ったときに感じた違和感と、ほとんど同じだ。それが妙に怖かった。
早く掃除を終わらせたいと思い、急ぎめに手を動かす。
「内野さん。ちょっと、雑巾もう1枚取ってくれない?」
「陽南でいいよ」
「……え、いきなり下の名前?少し段階飛ばしてない?」
「そうかなあ。岸本くんとか石川くんとか、すぐに陽南って呼んでくれたよ?世良くんって何気に真面目なんだね」
確かに、あの普段からおちゃらけている二人と比べたら、俺は真面目なんだと思う。
でも、だからといって俺はノリと勢い任せで口から言葉は出さない。いつだって会話の流れを考えながら言葉を選ぶようにしてきた。
「とりあえず、内野って呼ぶじゃダメ?」
「えー、つまんない。優花のことは優花って呼ぶのに?」
「あ……あれは、昔からの知り合いだから慣れてるだけで」
内野はフッと笑いながら、自分の後ろにある雑巾を取りにいく。
そして、持ってきた雑巾をこちらに渡しながら、じっと俺の顔を見つめる。
「世良くんてさ……ひょっとして、私のこと嫌い?」
内野のその唐突すぎる質問に、言葉が出てこない。背中に、じわじわと汗が滲んできた。
「き、今日ちゃんと話したばっかりじゃん!嫌いもなにも、まだ俺は、内野のこと全然知らないし」
「そう……じゃあ、好きになってもらえるように、頑張るね!」
内野は満面の笑顔で、男子が女子から言われたいセリフランキングだったら、間違いなくトップクラスに入るであろう浮いたセリフをいとも簡単に吐いた。
普通の男子なら、飛び上がりたくなるほどに嬉しい言葉だろうが、この点においていえば、俺は違っていた。
「すげえ嬉しいけど、それさー、ひょっとして他の男子にも言ってるんじゃないの?なんか、言い慣れてる感じがするなあ」
少し冗談っぽく、いじわるっぽく言ってみたが、これには正直本音が混ざっている。
「ひどくない!?こんなこと言ったの、世良くんが初めてなんだけど!」
「そりゃどうも、ありがとね。俺もそんなこと言われたの初めて」
「うわー、信じてないでしょー。感じわるーい!」
なるほど、これが内野に感じていた違和感の正体だと、自分の中に一つの答えが出た気がした。
内野は人の関心を自分に向けるように、空気を操るのが上手いんだ。男子にはこういう態度でこう言っておけば、簡単に自分になびくだろうという感覚が備わっている。もちろん、女子に対する適応性も同時に兼ね備えているだろう。
そうやって周りをコントロールして、自分の学校内での地位を確固たるものにする。可憐なお姫様の中に、したたかな女王様を宿したような、そんなタイプの女子。
思い出さないようにしていたが、こういうタイプの女子は過去にもいた。そして、その女子に振り回された経験もある。だから、この手の女子への対処法は身をもって知っている。
それは、あまりこちらから深く関らず、適当に同調して相手を褒めながら、一定の距離感を保ち続けることだ。
そうしようと心に決めた。
掃除を終え、先に教室を出た内野を見送ったあと、俺は教室をぐるりと見回す。
じんわりと疲れを感じ、もう今日はこの空間から離れようと思った。
教室の扉を引いた瞬間、同時に教室に入ってきた優花とぶつかりそうになる。
「あっ、ごめん!……って、どうしたの?顔、なんかこわいよ」
優花の言葉に驚く。そんな顔をしていたことに自分でも気がついていなかった。
「そう?暑いからかな。なに、忘れ物?」
断片的な言葉しか出てこない。喉の奥が乾いて、声がうまく通らなかった。
優花は俺をじっと見つめたあと、カバンからハンカチを取り出して、そっと差し出した。
「そう、ノート忘れてたの。それより、汗、少し目立つよ?これ使って」
「……あ、ありがと」
受け取ったハンカチは少し冷たかった。でも気分は妙にあたたかかった。
「なあ、優花。変なこと聞くけど、やっぱ今日暑いじゃん?ネクタイ緩めて、胸元出したりしないの?」
「はあ!?バカじゃないの!なに急にセクハラみたいなこと言い出してるわけ?」
優花は顔を真っ赤にしながら、俺の腕を引っ叩く。そう、これが俺の考える普通の女子の反応だ。
「やっぱ、そうだよな!ありがとう!」
俺は優花の手を取り、両手でしっかりと握手をした。
優花はポカンとしながら、「……どういたしまして」と言った。
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