二   解かれ

 あ、と小さく声がもれる。いっぱいに目をみひらいてしまう。障気しょうきの動きが、止まっていたのだ。実緒みおの袖を呑むほど迫り、けれどぴたりと止まっていた。そして、実緒は息を飲んだ。今度は声など出なかった。動かぬ障気のその上に、すらりと立った、ひとがいたから。月も、雪もかなわない、まばゆいすがたのひとだった。

 いっそあざやかなまでに真白い、狩衣かりぎぬ指貫さしぬきを身につけている。八角の並ぶ籠目紋様がうっすら浮かび上がった絹の地。ふくらむ裾からくつがのぞいて、その足でやはり障気の上になにごころもなく佇んでいる。それから、太刀を佩いている。

 ほっそりとしてきらきらしい太刀。左手に握られた鞘は銀地で、螺鈿らでんのかたどるおおとりが舞い、金具は枝菊紋の透かしにとりどりの玉をちりばめたもの。つかの鮫皮に糸は巻かれず、鍔は八重咲く桜のかたち。それが軽く押し上げられて、白刃しらはがわずかのぞいている。

 篝火かがりびだけが頼りであっても、色もかたちもはっきり見える。そのひとがひかりをまとっているから。朝日と見まがう、澄んだひかりを。

 実緒は、そのひとを仰ぎ見た。すんなりと、目が合った。つめたいくらいにすずしげで、なんでもひょいっとやってのけそう。なんだかそういう面差しの、若い男のひとだった。すこし年上くらいだろうか。頭の隅に思いつつ、実緒はその若者を見つめる。

 くろ瑪瑙めのうに似た静かな瞳が、またたく睫毛のあいまにのぞく。低くひとつに束ねた髪が、細くひとふさ肩を流れる。すっきりした頬の輪郭は、ゆらぐ炎になぞられており、そして結ばれた唇が、ふいにほどける。声がこぼれる。

 たちまち、ひかりが風を切り裂き、がらん、がらんと虚ろに響く。手枷足枷の、転がる音。金物の枷は、落ちていた。すべてまっぷたつになって、すべて舞台に落ちていた。にわかに縛めを解かれた実緒は、驚くこともできなかった。

 なにが、なんだかわからない。若者はなにか言うこともなく、いまだこちらを見下ろしている。ただ、そこに立っていて、実緒をその目に映している。

 実緒も、ただ、若者を見ていた。やはりひかって、かがやいている。いったい、どうしてそうなのだろう。ただびとだとはとても思えず、なんだかまるで神さまみたい。でも、あぶなくはないのだろうか。いくら神さまみたいと言っても、障気を踏んだままでいるのだ。ふれれば、おしまいになるはずの障気────

 薄氷うすらいが背を滑った気がした。実緒は急いであたりを見回し、ひとが落ち着ける場所を探した。けれど、どこにも見当たらない。木々も篝火も障気に浸り、くらい海に立つ杭のようだ。石舞台はほとんど呑まれ、実緒もぎりぎりまで囲まれている。ぎりぎりまで。そうだ。

 突然よいことを思いつき、実緒はその場に立ち上がった。もっと早く気づくべきだった。このひとにはとりあえず、かろうじて無事に残ったここに立っていてもらえばよい。場所を交代すればよいのだ。さっそく足を踏み出して、障気に乗ろうとしたときだった。

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