第2話:出かけた妻と、もう一人の妻の顔

 翌朝、カーテンの隙間から差し込む朝日が、寝室を淡い光で満たしていた。

 翔太がキッチンで朝食の準備をしている間、日奈子はベッドサイドで身支度を整えていた。パステルブルーの半袖ブラウスを身につけ、鏡の前で肩を少し超える黒髪を丁寧にかしている。その所作の一つ一つが、まるで舞台女優のように思えた。

 翔太は、三人分のトーストとサラダ、そしてコーヒーをダイニングキッチンに並べた。日奈子は洗面所で歯を磨き終え、ダイニングテーブルへと向かってきた。

「翔太、おはよう」

 彼女の声は、朝の光のように澄んでいた。

「おはよう、日奈子。今日も簡単なもので悪いね」

 翔太は少し照れくさそうに言った。

「ううん、そんなことないよ。いつもありがとう」

 日奈子は微笑み、椅子に腰を下ろした。二人の食卓はいつも、穏やかな空気に満たされている。

 食事が終わると、日奈子はリビングのローテーブルに広げてあった今日の授業の準備を整え、玄関へと向かった。ベージュの膝丈フレアスカートが、彼女の動きに合わせて柔らかく揺れる。

 日奈子が靴を履いているところで、翔太は後ろからそっと近づいた。日奈子が振り向く。すると翔太は、彼女の額に顔を近づけ、軽くキスをした。夜の残り香が蘇るように、日奈子の肌が熱くなった。

「日奈子、愛してるよ」

「もう翔太っ、バカ!」

 日奈子が小さく声を立て、顔を赤らめて翔太の胸を軽く叩いた。翔太はそんな彼女を、衣服が乱れないように穏やかに抱きしめて、そっと手を離した。日奈子は「行ってくるね」と目元を緩めて笑顔で外に出た。

 その背中を見送ると、翔太はリビングに戻った。ふと、ダイニングテーブルの上に置かれた花瓶に目が留まった。花瓶には、色鮮やかなガーベラが生けられている。それは昨日、日奈子の双子の妹・山崎佐奈子が近所の花屋で買ってきた花だった。

 佐奈子は四月半ばから、このマンションに居候している。この春、佐奈子は結婚生活に終止符を打ち、離婚した。新しい行き先を探す彼女に、日奈子が「こっちに住んでみたら?」と提案し、姉夫婦のマンションに身を寄せることになったのだ。その背景には、彼女がフリーランスのウェブライターで賃貸の信用審査が厳しい事情もあった。

 佐奈子さんはまだ寝ているのか……?

 彼女の部屋もリビングのすぐ隣にある。六畳の広さで、四月末までダンボールに詰まった本が山積みになっていた。今はすべて中身を取り出し、五段の本棚にはスペイン語系文学の研究書や洋書がぎっしりと詰まっている。少し前まで翻訳業もしていたが、報酬が極端に少なくなり、今はウェブ記事の収入がメインとなっていた。

 翔太は、朝食の洗い物を終え、リビングのソファに座った。テレビをつけ、ニュース番組をぼんやり眺める。彼の職場は、徒歩で通える近さだ。いつも日奈子を見送ったあと、少し時間を潰してから通勤に向かう。

「翔太さん、おはよ」

 佐奈子が姿を現した。ゆったりしたTシャツの首元が広く開いていて、その動きに合わせて胸が揺れている。翔太は思わず視線を逸らしたが、その目に焼き付いた身体の輪郭が、彼の胸を波立たせた。寝癖で乱れた栗色の髪が、柔らかく波打つシルクのように艶めいていた。

 佐奈子の顔立ちは、日奈子そっくりだった。翔太は、ついさっき外に出たばかりの日奈子が、またそこに現れたような不思議な感覚を覚えた。ふたりともストレートのロングヘアでよく似ているが、妻は黒髪、佐奈子は明るめの栗色で、少し雰囲気が違っている。

 日奈子が静かな月の光だとしたら、佐奈子さんにはカラッとした太陽のような気安さがあった。この共同生活が始まってから、家の中が以前とは違う光で照らされているようであった。

「おはよう。ぼくはそろそろ出かけますね。朝食はテーブルの上にあるから」

 翔太は陽気な声を残して立ち上がった。

「うん、いつもありがとう。翔太さん。今夜も定時?」

「いつも通りかなぁ。買い物の用があったら、帰りにスーパーに立ち寄りますよ」

「いいよ、あたしジムに行った帰りにしておくから。今夜の晩ごはん、生姜焼きにしようと思うけど、いい?」

 佐奈子が、冷蔵庫から飲み物を取り出しながら尋ねた。

「日奈子のスタミナ回復にちょうどいいかな」

「だよねー。じゃあ生姜焼きにしとく!」

 翔太は玄関に向かう。佐奈子は律儀にお見送りに歩いてきた。スウェットパンツの裾から、しなやかに鍛えられた足首が覗いていた。

「翔太さん」

 ハスキーがかった甘い声だった。佐奈子は翔太の腕にそっと触れると、悪戯っぽく瞬きをするように、その指先で彼の手首の内側をなぞった。

「いってらっしゃい。無理しちゃダメよ。翔太さんがストレス抱えすぎたら、姉さんもあたしも困っちゃうからね」

 可愛らしく手を振る佐奈子と別れて、仕事に向かう。

 妻を見送った自分が、またその妻に見送られているような不思議な感覚に包まれ、嬉しさと恥ずかしさの入り混じる笑顔がこぼれた。朝の穏やかな光の中、翔太はマンションを後にした。

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