第3話:甘くて危険な「間違い探し」
その日の夕方、「ただいま」と翔太が会社から帰ると、マンションのキッチンから香ばしい
佐奈子がエプロン姿で夕食の準備をしており、ダイニングテーブルには、すでに二人分の食器が並べられていた。オレンジ色の夕日がバルコニーから差し込み、佐奈子の栗色の髪を淡く照らしていた。
「おかえり、翔太さん。今日もお疲れ様」
佐奈子が振り返り、にこりと笑いかけた。その笑顔は日奈子と瓜二つで、胸が高鳴った。
「ただいま。佐奈子さん、もう準備してくれていたんですね」
翔太の言葉に、佐奈子はご機嫌な顔をしていた。この時、翔太は仕事で汗をかいた自分の熱した鉄のような匂いが気になった。佐奈子は気にするそぶりも見せず、「部屋着に着替えて楽にしててよ」と気安く声をかけた。
「姉さんから連絡があったでしょ? 『二人に先にご飯食べてて。私はコンビニで済ませるから』って」
佐奈子はそう言って、スマートフォンの画面を翔太に見せた。三人のLINEグループで、日奈子から謝罪と連絡が届いていた。そこには、いつものように絵文字がたくさん散りばめられていた。
「また遅いんだね。無理が重なっていなければ、いいけど」
翔太は心配そうな顔で言った。
「うん。なんか、また一人
佐奈子が鍋の中の味噌汁をかき混ぜながら言った。
「日奈子の話だと、引き継ぎもなく突然のことだったから、振り分けが大変みたいだって」
「学校の先生でも、そういうのあるのねぇ……。姉さんも真面目だからさ、何も気づかない顔して『お先に失礼します』って逃げちゃえばいいのに」
佐奈子の言葉に、翔太は思わず吹き出した。
「無理ですよ。日奈子にそんなことできない」
「ま、それもそうか。あたしたちで支えなきゃね」
佐奈子は味噌汁を椀によそいながら、ふと、翔太の顔を覗き込んだ。フローラルな香りがふわりと漂う。
「ね、翔太さん、もしかして気づかない?」
翔太は首を傾げた。その問いは、まるで解けないパズルのピースを突きつけられたような感覚だった。
「えっ、何に?」
「あー、やっぱり? じゃあ、間違い探しのつもりで、あたしのこと、よく観察しなよ」
佐奈子は悪戯っぽく笑いながら、翔太に食事を促した。テーブルに並んだのは、生姜焼きに小鉢がいくつか。彩り豊かで、食欲をそそる。二人は他愛ない会話をしながら、食事を進めた。
翔太は「間違い探し」と言われてから、佐奈子に見られていることを妙に意識してしまった。ふとした瞬間に目が合い、彼女から甘い微笑みを返されて、自分の頬が熱くなるのを感じた。
食事が終わると、佐奈子は「食べると暑くなっちゃったね」とサマーカーディガンを置き、翔太に「さ、後片付けしよっか」と声をかけた。翔太は食器を持ち、佐奈子と並んで洗い場に立った。シンクに食器と、二つの茶碗、二つの箸が置かれていく。二人は肩が触れるほどの距離で並び立ち、洗い物を始めた。水道から流れる水の音が、静かな会話の背景になる。
「姉さんも大変だよね。これからもっと遅くなるんじゃ、『妊活』も休みになっちゃわない?」
翔太はスポンジを危うく落としそうになりそうになるのを抑えて平静を装い、洗い物に集中した。
「あ、日奈子が言ってました?」
佐奈子はくすりと笑った。
「ううん、あたしの勘。やっぱり当たってたね」
佐奈子の肘の先が翔太の腕に触れ、翔太は心臓が跳ねるのを感じたが、佐奈子は顔をシンクに向けたまま微笑んだ。
「だってさ、二人いつも早起きでしょ。朝食もあたしの分含めて二人で作ってくれてる。だけど、姉さんがギリギリ起きる時あるじゃん。その時、姉さんが慌ててるわけじゃなくて、普通の顔してるの。あれってつまりそうなんじゃないかなーって推理してたんだよね」
佐奈子の言葉に、翔太の頬がとうとう熱くなった。佐奈子は全てを見透かしているかのようだった。日奈子との夜の営みの後、日奈子が少し寝坊してしまうことがあった。佐奈子はそれを見抜いていたのだ。
「夫婦って大変だよね。いつから頑張ってるの?」
佐奈子の問いに、翔太は少し考えてから答えた。
「去年から」
「そうなんだ〜、二人とも
「わからない。ぼくは無理をさせたくないけど、彼女は最近、友達が続けて出産してるのが気になったみたいで……」
翔太は正直に打ち明けた。佐奈子は「ふうん」と相槌を打つ。そして、洗い物の途中で、またしても自然な動作で佐奈子の腕が翔太の腕に触れた。
「世の中に合わせようとすると、苦労するだけだよ。姉さんもそうだけど、無理に背伸びして、本当に大事なものを見失わないでね」
彼女の指先が、洗い物の泡の中で、翔太の腕をイタズラっぽく優しく撫でた。
「ね、そろそろ気づいた? 間違い探し」
翔太はまだ答えを見つけられずにいた。確かに佐奈子はいつもより薄着だとは思っていた。ノースリーブのシャツに膝下丈のカーゴパンツ。部屋着としてはラフな格好だ。その健康的な肌が、照明の下で艶めいて見えた。しかし、それが間違い探しの答えとは思えなかった。
洗い物が終わり、翔太はソファに座った。そこに佐奈子が近づいて隣に座り、「じゃーん、答えです!」と自分の両手の指を広げた。その爪には赤と緑の鮮やかなネイルが施されていた。
「これ、今日変えたんだ。スイカのカラー。可愛いでしょ?」
佐奈子は自慢げに微笑む。
「うん、すごく可愛い」
翔太が笑顔で褒めると、佐奈子は嬉しそうに目を細めて、ちょっとからかうような口調になった。
「鈍感なのも翔太さんのかわいいとこだと思うけど、スイカちゃんに気づかないで、どこ見てたんでしょうね〜。もしかして、あたしのもっと別のところを見てたとか?」
そう言って笑い、指を改めて広げた。佐奈子が身を乗り出したため、首元の開いたTシャツの隙間から、谷間が見えそうになった。翔太は反射的に目を逸らした。
「ほら、あたしの指も姉さんみたいで細いでしょ。姉さんの指、あたしも好きなんだ」
佐奈子の白い指が、翔太の目の前でキラキラと揺れる。その視線は、翔太の指先へと向けられていた。
「あたしね、姉さんのこと大好き。少し前までお互い夫婦ができて、そこから少しずつ別の家族を作って、別人みたいになるのかなって思ってた」
佐奈子は、顎に手を当てて息をつく。
「でも久しぶりに一緒に住むと、姉さんのかわいさ、たまらない。翔太さんみたいな素敵な人とだったら、本当に幸せになれると思ってる。これ、本気だよ? だって、あたしにとって、姉さんと翔太さんは、この世で一番大切な二人だもん」
佐奈子の真剣な眼差しに、翔太は穏やかに応じた。
「ありがとう。日奈子もきっと、佐奈子さんがいてくれて心強いと思ってるはず」
佐奈子は、翔太の言葉に満足したように頷いた。しかし、すぐに彼女の瞳に、また別の光が宿る。
「ただ、あたし気になることがあるんだよね。姉さんって、すごく真面目だから……世間様の考えとか、そういうのを大真面目に守ろうとして、肝心なことを見落としちゃうんじゃないかなって」
「肝心なこと?」
翔太が佐奈子の言葉の意図を測りかねていると、佐奈子の手がゆっくりと翔太の膝に触れた。
「たとえばね……」
その指先は、まるで迷子になった蝶のように、翔太のズボンの上をゆっくりと撫でていた。
翔太は身体が勝手な反応するのを感じた。佐奈子の唇が、ゆっくりと翔太の耳元に近づいてくる。爽やかな甘い香りが強くなり、佐奈子の声が甘く小さく響く。
「好奇心って大事だと思わない?」
二人の顔は、すでに頬が触れ合う距離まで近づいていた。翔太は唾を飲み込む。その時、二人のスマートフォンが振動した。
軽快なLINEの通知音。日奈子からだった。
「仕事、思ったより早く終わったー! やっと帰れる! 来週からはわかんないけど、今週は何とかなりそう。とりあえず急いで帰るね〜!」
佐奈子は、翔太のスマートフォンを覗き込み、日奈子のメッセージを読むと、くすりと笑った。
「姉さん、よかった。でもこれって、まだ来週からしばらくこんな時間が増えるってことね」
いつもの自然な声に戻っていた。
「じゃあ、続きはまた今度。今日は相手してくれてありがと」
佐奈子は陽気な声で言い、翔太の膝から手を離して立ち上がった。
カーゴパンツから伸びる細い脚が、夕暮れの光に照らされた。その足取りは軽やかで、まるで次の悪戯を企んでいるかのように見えた。
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