第1話:抱かれたばかりの妻の寝顔
六月はじめの夜だった。
南関東の端にある地方都市・
テレビのスポーツニュースが流れていたが、二人の意識にはほとんど届いていなかった。
大江日奈子は翔太の右腕にもたれかかり、膝にブランケットをかけていた。翔太の顔は涼やかで、落ち着いた目をしていた。
空調の音だけが耳の中に響き渡っていく。その姿は、二人だけの異世界をそこに展開しているようにも見えた。翔太は黙って彼女の髪を撫でている。
黒く、柔らかく、ストロベリーの香りが微かに立ち上っていた。日奈子が好きなシャンプーの匂いだった。
「翔太、もう眠い?」
日奈子が顔を上げずに言った。声はどこか遠くから流れてくるラジオのように穏やかで、ほんの少しだけ湿り気を帯びていた。
「ううん、まだ全然」
翔太は笑顔で答えた。ほんの少しだけ嘘だった。
物流会社の事務というのは、ただ机に向かうだけではない。荷物を運ぶ必要もあるし、それは彼の体に確かに残っていた。軽い筋肉痛となって、記憶の底にある古い運動の名残のように鈍く疼いた。
日奈子は身体を少し捻り、彼を見上げた。澄んだ瞳が、静かに翔太を捉えている。
テレビの音が遠のき、部屋に膜のような静寂が訪れた。その時間は、彼らが夜の営みに入る前に、ほぼ毎回訪れる種類の静けさだった。感情でも言葉でもなく、空気の密度によって知覚されるものだった。
翔太は指を髪から離し、日奈子の頬に触れた。肌はわずかに冷たくて、その感触は深夜に飲む一口の水のように柔らかだった。
「日奈子こそ、疲れてるんじゃないか?」
彼がそう言うと、彼女はくすりと笑った。その笑い方は柔らかく、けれど明確に彼の内側に何かを波立たせた。
「翔太に触れてると、疲れなんてすぐ消えちゃうよ」
それは慰めのようでもあり、祈りのようでもあった。彼らはそっとキスを交わした。短く、浅く、音のない小石が水面に落ちるようなキスだった。
日奈子の身体が、ゆっくりと翔太のほうに滑ってくる。ブランケットがソファから落ち、彼女の手が翔太のシャツの裾をつまんだ。
「寝室、行こうか」
翔太が言うと、日奈子は小さく頷いた。その仕草には、どこか幼さと決意が入り混じっていた。
隣の寝室は広さ六畳。ほとんどのスペースを木製のダブルベッドが占めていた。パステルブルーのカーテンの向こう、外には住宅街の控えめな夜景が広がっているだろうが、今夜見ることはないだろう。照明は暖色系のシーリングライト。すべてが中庸で、あらかじめ決められた生活の舞台のようだった。
ベッドに横たわると、日奈子は翔太の胸に顔をうずめた。彼女の体から甘い匂いがした。少し湿った森のような匂い。翔太はその香りを楽しみながら、そっと彼女の背を撫でた。
「翔太、今日も仕事大変だったでしょ」
彼女は布越しに尋ねた。言葉は柔らかく、どこか水の底から届くようだった。
「いや、日奈子に比べたら全然」
日奈子は二年生の担任で、毎週のように会議や保護者対応、残業がある。また、離職者が続いたことで、にわかに仕事の量が増えはじめた。
これまで何度か苦労はあったが、彼女は小学生児童たちの教師という仕事をやめたいと言ったことがなかった。翔太は日奈子の静かな強さを愛していた。
翔太の指が、彼女のパジャマのボタンに触れる。ライトブルーのコットン地に、白いボタンが五つ。ひとつ、ふたつ、みっつ──。静かに外していくと、華奢な鎖骨が夜の光に浮かび上がった。
日奈子の呼吸がわずかに変わる。
翔太は唇でその呼吸をさらに揺らした。彼女の肌は冷たく、しかし芯に微かな熱を帯びていた。日奈子は目を閉じ、何かを受け入れるように肩を沈めた。
「うん」という甘い声と共に彼女のパジャマが滑り落ち、白いノンワイヤーの下着が現れる。
翔太は音を立てないように外した。
彼の指は彼女の腰に滑り、パジャマのズボンをゆっくりと脱がせた。衣服が床に落ちる音が、月の見えない夜の鼓動のように響いた。日奈子も翔太のシャツを脱がせ、ボクサーパンツに手をかけた。
日奈子は目を閉じ、息を弾ませている。その鼓動は、部屋の静寂の中で、微かなリズムを刻んでいた。
翔太の唇が、日奈子の柔らかな胸に吸い付いた。温かい肌の感触と、甘い匂い。日奈子の身体が響くように動き、呻き声が漏れる。それは水面に落ちる雫の音のように小さく聴こえた。
「ん……いい……」
翔太は、日奈子の反応を楽しむように、ゆっくりと舌を這わせた。日奈子の両手が、翔太の短い黒髪を掴んだ。その手は、まるで水の中に溺れまいとする人のように、彼の髪に強く絡められていく。
互いの肌が触れ合うたび、室内の温度が上がっていくようだった。
翔太は日奈子の太ももの間に、身体を滑り込ませた。日奈子の身体は、すでに翔太の熱を求めていた。ふたりの動きは、乾いた土が水を求めるように、本能的だった。翔太はゆっくりと腰を動かし、日奈子の奥へと進んでいく。日奈子は小さく喘ぎながら、翔太の背中を引き寄せた。
「きて……翔太……」
翔太は日奈子の言葉に応えるように、さらに深く突き進んでいく。夫婦生活はいつもオーソドックスで穏やかだが、翔太には他人と異なるところがあった。持続力の長さだ。
だが、翔太の持続力は、彼らが知る唯一の基準だったから、それが普通ではないなどとはお互いに気づいていない。
翔太が日奈子の中に入っても三十分程度で終わらず、一時間以上続くことがある。このため、何度も不首尾に終わることもあった。長すぎる愛は、ぬるい交わりを招き、単調な時間になりがちであった。
二人は深く愛し合っている。
しかし性生活の問題は、愛だけでは解消できない。翔太はゆっくりと腰を揺らしながら、日奈子の負担に責任を感じ、日奈子も乙女のような声を上げながら翔太がなかなか頂点に至らないことへの責任を感じていた。
時が近づく。翔太の動きが早くなってきた。
「はっ……はっ、あっ」
翔太の耳にだけ聴こえる小さな喘ぎ声よりも互いの身体が求め合う水のような音が、部屋中に響き渡り始めた。日奈子の足が翔太の腰に絡みつき、さらに深く、翔太を受け入れようとする。それは、二人を縛り付ける見えない鎖のようだった。このため、翔太がより深く中に侵入した。
そして放たれた。勢いの強い体液が彼女の中に打ち寄せてくる。それに反応して、日奈子の胸いっぱいに波が広がり、体温を上げた。息切れの音がしばらく続いたあと、二人の顔から緊張が解け、微笑みが行き交う。
日奈子は翔太の胸に顔を埋めた。翔太はしばらくの間、彼女の中で静止していた。
「大好き……」
一通りのことが過ぎると、日奈子はいつも決まって満足した顔になり、そのまま強い睡魔に襲われる。その日も翔太は穏やかにその身を撫でなから、彼女の寝息が聴こえるのを待った。翔太は火照りの静まった白い肌に目を惹きつけられる。
実はこれで終わりではない。彼の若い肉体はまだ収まっていなかった。行為を終えた愛しい妻の無防備な寝顔に、強い欲望が甦ってしまうのだ。
彼の下半身は「一度ばかり放っただけではないか、もっと求めよ」と、語りかけるように、また角度を取り戻し始めていた。
──いや、これ以上はダメだ。
せっかく休んだ彼女の呼吸をこれ以上、乱すわけにはいかない。徒歩二十分で仕事に行ける翔太と違って、日奈子の勤める小学校は電車で小一時間の距離がある。明日の朝も早い。
子供のような日奈子の寝顔に、自分の欲望は拒まれているような気にさせられた。妻は、健全な夫婦生活を幸せに思っている。自分はそこに歩調を合わせて、この穏やかな関係を保つことを第一としなければならない。
「ううん、翔太……」
彼女はどんな夢を見ているのだろう。そう思いながら、リビングで自分ひとりの時間を過ごすため、翔太はそっと妻の身体を離れた。
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