Case:3
十二月二十三日。
群馬、草津。
午前五時三十分。
紅茶カフェ『草の色』────の、上。
二階突き当りの小さな部屋。
私と泉は同時に、セットしておいたアラームで起床した。開店作業まではまだ時間があるが、二人共メイクに時間がかかるので、起きるのはいつも明け方だ。
衣色の誘いで住み込みバイトを始めて一週間。『草の色』が中心街ではなく、少し南の草津の玄関口とも呼べる場所にあるので、客の入りは疎らで業務自体はさほど過酷でもない。しかし、嫌煙ブームのこのご時世にあって"嫌煙家お断り"の看板を掲げているためか、私達のようなヘビースモーカーが来店することが多く、その間は忙しくなる。
衣色は私と泉に接客を頼んだが、泉が紅茶に詳しいことと優れた味覚を有していることから、ピークタイムには私一人がホールに立つことになってしまった。忘れがちだが、そういえば泉は超絶サラブレットなお嬢様、ティータイムにも一家言ありそうである。
「さむさむ………」
メイクの途中、トイレに行こうと部屋を出ると、廊下から小さく驚いたような声が上がった。
「あ、あきらか。ごめん、怪我してない?」
「だ、大丈夫です」
見るからに陰気そうなこの女は、衣色の義理の娘である
彼女はどうやら、トイレから出てきたところだったらしい。この時期の朝というのは、起きてすぐに厠へ駆け込みたくなってしまっていけない。いや、酒飲みなので、それは季節問わずか。
「おはようございます。いつも早いですね」
「メイクの時間あるからねぇ。そういうあきらも、いつも早いじゃん」
時刻は午前六時二分。私が中学生の頃は、捻くれる前ですら、こんな時間に起きたことなどなかった。加えてあきらは寝るのが遅い。ショートスリーパーなのだろうか。
「ちょっとでも、勉強しとかないとなって」
なんとも殊勝なことである。
会釈をして部屋に戻っていくあきらの背を見送って、トイレに入る。便座が暖かくて気持ちいい。もうずっとここにいたい。いや、ずっとトイレの中は嫌だな、なんとなく。それに、人が入った後の便座の温かさを心地良く感じるというのは、なんというか変態のように聞こえてしまうので、今後は自重しよう。
「おかえりー………どしたの?」
部屋に戻ると、メイクをしている泉が私の顔を見て、小首を傾げた。
「なにが?」
「なんか、また考えてる時の目になってたから」
付き合いは浅いというのに、こいつは僅かな変化に敏感に反応する。
表情の僅かな変化、といっても、今回のそれは、少しだけ嫉妬に似ているものだ。あきらが勉強をしていると聞いて、自分のことを、一瞬だけ、惨めだと感じてしまった。夜からはとうに離れているというのに、昼に向かう理由も喪って、夜に融けたいのかを探している現状が、冬の木立のように感じたのだ。
「わたしは勉強、やめちゃったから。なんかちょっとだけ、モヤった」
「勉強してたんだ」
「二か月くらいね。する理由なくなったから、今はやってないけど」
そっか、とだけ返して、泉が鏡に視線を戻す。こいつのこういう深入りしない部分は、素直に好ましい。紅祢相手には踏み込めずに、心の奥を知ることは叶わなかったが、泉と私は運命共同体のような関係なので、深入りする必要もない、ということなのだろう。理由も行動原理も全て、お互いに知った上で行動を共にしているのだから。
メイクを終えた私と泉が一階へ降りると、ちょうどあきらが学校へ行くところだった。いつも通りの、少し沈んだ表情で。衣色が見送りに来ても顔を合わせないのも、いつも通りの光景だ。
理由は分からないが、あきらはおそらく、虐められているのだろう。というより、衣色も含めて、この町の住人から煙たがられているようだ。有名な観光地なのだから田舎特有の閉鎖的な環境ではない、はずなのだが………中心街に店を構えなかったのも、反対されたからなのかもしれない。
午前七時三十分、紅茶カフェ『草の色』営業開始。といっても今日は平日、それも週の初めである月曜日なので、客の入りは多くはないだろう。
泉と二人でカウンターに座り、衣色がカウンターの向こうに立って、三人で煙草に火をつける。この一週間の開店直後と閉店直前の店内の光景は、女三人が紫煙を燻らせるというもので、非常にカフェというものに合っていた。
「紅茶飲むと?」
衣色が三人分のカップを用意しながら、朝の一杯を誘ってくる。当然、断る道理はない。
「私は………今朝はハーブティーの気分だから、ラベンダーを」
「わたしはアールグレイ。セイロンのでお願いします」
あいあい、と返事をして、衣色が湯を沸かす。衣色自身は、セイロンベースのオリジナルブレンドを選んだようだ。初日や昨夜に私達も飲んだが、紅茶の知識など大して持っていない私でも満足できる一杯だった。味は、リプトンのイエローラベルに近い………と、思う。
そういえば先日、泉が衣色と雑談をしている際に、リプトンやネスカフェについて話し合っていた。世間では安物と評する者も一定数いるが、そういう人間はただ、高いものは美味いもの、と認識しているだけであって、実際には味など理解していない舌馬鹿なのだ、と。特にリプトンはお値段以上の商品ばかりなので、衣色も時折買って飲んでいるくらいらしい。
はいお待ちどう、と、インナーを着て首元から手首までを隠した衣色が、私と泉の前にそれぞれ紅茶を注いだカップを置く。茶葉が湯を浸食し美しく滲んでいて、次第に香りが店内に広がる。煙草をお供に、朝一番に紅茶を飲む。小洒落た生活だ。
「やっぱり、上手いですね。いつからこの仕事を?」
「五年くらいやね」
私にはよく分からないが、五年程度でここまで上手くいれることが出来るようになるものなのだろうか。泉の実家はバリスタとかブレンダーを呼んだり、お抱えシェフがいたりしたそうだが、そのお嬢様である彼女が満足するのだから、相当な修行を積んだということか。
まだ出会って一週間。衣色の事情も、あきらの事情も知らない。しかし、出会った時の言葉────自分の方が褒められた人間ではない、という言葉と、風呂上りでも着用しているインナーから、衣色の過去を想像するのは難しくない。あきらとの関係性までは分からないが。
しかし、衣色の過去がそうであったとして、ではなぜこの仕事を始めたのだろう。何か転機になるような出来事があったのだろうか。以前の私のように、夜から昼へと向かおうと思えるような、何かが。生きる理由が。
ドアベルが鳴って、客の来店を知らせる。入ってきたのは、初老の男女二人組。おそらく、真向かいに建つ飯島館南本町別館に宿泊している人間だろう。
「ここ、煙草が吸えるって聞いたんだけど」
「はい、大丈夫です」
立ち上がって、接客モードに思考を切り替える。泉も煙草を消して椅子から腰を上げたが、ホールは私に任せるつもりらしい。今はまだいいが、ピーク時くらいは手伝ってもらいたいものだ。いや、考えてみればこの女、今まで働いたことなどないだろうから、無駄に仕事を増やされても困るか。
「葉巻でも問題ないかな?」
「もちろんです。どうぞ、ご自由にお座りください」
初老の夫婦は、奥の窓側の席に座った。店舗裏の畑が見える、この店でおそらく最も良い席だ。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声がけください」
心美達に敬語の稽古をつけてもらって正解だった。死に場所探しの旅の道中では、今回のように、短期で働く場面もあるだろう。そうなった際に真面な接客ができないのでは、すぐに首を切られてしまう。
すみません、と初老の夫婦に呼ばれる。近付くと、夫の方がメニュー表を指でさして、
「アップルティーなんだけど、茶葉と林檎は何を使っているの?」
と訊いてきた。
「ルイボスティーをベースに、フジという林檎を使用しております。糖度が高く、酸味が少ない品種ですね」
初日に散々頭に叩き込まれたことで、この手の質問には淀みなく答えることができる。衣色に感謝だ。
「じゃあ、アップルティーと、ダージリンベースのアールグレイを」
「かしこまりました」
手書き伝票に注文内容を書き、一礼してからカウンターへ。衣色に伝票を渡す。
客の方を見ると、二人同時に葉巻の先端をカットして、マッチで火をつけているところだった。黄色に金縁のシガーリングなので、二人が吸っているのはトリニダッドというやつなのだろう。キューバ産の葉巻は最近日本での流通が少ないと聞くが、行きつけの葉巻屋でもあるのだろうか。なんとも洒落た夫婦である。きっと町を歩いて、気になった喫茶店にふらりと立ち寄ったり、海の見えるコテージかどこかで夕日を眺めたり、そういう生活をしているのだろう。
午後四時頃、あきらが学校を終えて帰ってきた。店内には数組の客がいるが、予想通り、一日を通して盛況というわけでもない。まだ夜があるが。
『草の色』の閉店時間は午後十一時。閉店後の作業や翌日の仕込み、翌朝の作業などもあるので、衣色の睡眠時間は非常に短い。四時間も寝れば多い方だ。もっとも、私と泉もメイクに時間がかかるので、この一週間は五時間程しか眠れていないのだが。
日が落ちて、食後の一杯を求める客で店内が賑わい始める。今時喫煙を奨励している店舗というのは珍しいので、ホテルで煙草を吸えなかった者達が、この店で一服してから部屋に戻るのだ。喫煙所を設けていないホテルも増えたと聞く。まるで煙草が悪、喫煙者は犯罪者であるといわんばかりで腹立たしい。肩身が狭い。まったく、息苦しい世の中になったものである。いや、私と泉は未成年なので、普通に犯罪者ではあるのだが。
午後十一時二十七分。
店内の清掃を終えて、二階へと上がる。明日も早いのだ、メイクを落としてシャワーを浴びて、早々に床に就かなくては────と考えて、ふと足を止める。
この一週間、ろくに外に出ていない。私は理由を、泉は景色を探しにこの土地に来たはずなのに、その目的が果たせていないということだ。これは由々しき事態である。
確かに、衣色の厚意で住み込みで働かせてもらっているが、それとこれとは別問題。一度彼女に相談する必要がある。
何気なくあきらの部屋の扉に目を向ける。完全には閉まっていない。後ろ手で適当に引くとちゃんと閉まらんよなー、とノックをしようとして、その手が止まった。中から微かに、嗚咽のようなものが聞こえてきたからだ。
心の中であきらに謝りつつ、少しだけ扉を開いて、中の様子を確認する。ちょうど、カッターナイフを手にしたあきらが、左手を縦に切り開いているところだった。
一階に戻って、救急箱を手に取る。その様子を眺める衣色の表情から、あれもいつも通りのことなのだと分かった。衣色とあきらの関係も、扉一枚数メートルの距離なのだ。
扉をノックして、返事を待たずにあきらの部屋に入る。
「ぇ、あ、えっと、これはその」
左手を隠すあきらの隣に腰を下ろして、救急箱からピンセットと綿球、ガーゼ、包帯を取り出す。そのまま最低限の処置をするが、頭の中にあるのは、あきらのことではなかった。
紅祢に、こうすることが出来ていれば。
私は今もきっと、東京にいたのだろう。
「やるなら二の腕で、横にやりな。多少は隠すの楽になるから」
包帯を巻き終わり、救急箱を閉じる。あきらがか細い声で礼なんかを言ってきて、何故だか少しだけ、全てが嫌になった。
私の周りに集まる女は、私と出会う女は、自分も含めて全員が、人生に対して消極的で、悲観的で、生死について考えるような人間だ。その中で本当に死んだのは一人だけで、そのたった一人が、私に取り憑いている。取り憑かれている私は、一向に理由を見つけられないままで。
「あ、あの」
「なに?」
あきらに引き留められ、上げようとしていた腰を再び下ろす。
「今聞くことじゃないかもですけど。学校、なんで辞めちゃったんですか?」
「なんとなく」
「なんとなくで辞めるの、怖くなかったんですか?」
新鮮で、普通の反応だ。世間一般の価値観と認識でいえば、私は終わった人間で、そうなることに不安や恐怖はなかったのかと疑問に思うのは、この女の思考がまだ正常だからなのだろう。
「六畳一間で、パンチパーマで首括るのは、怖いかな。でも、辞めてなかったら、多分そうなってたと思うから。今の方がまだマシ」
言っている意味がよく分からない、とあきらが片眉を下げる。分からないなら、きっとその方がいいのだろう。まだこちら側に来ていない、ということなのだろうから。
「勉強は順調?」
明日には冬期休暇に入るらしいので、すでに期末テストは終わっているはずだ。それでも彼女は勉強をしている。真面目、というよりは、強迫観念に近いものが感じられた。
あきらが机の引き出しから、答案用紙を取り出して、私に見せる。点数は全て零点。しかし、見てみると全問不正解ということはなく、八十点は取れていそうだった。
「全然正解してるトコもあるのに、なんで零点?教師にも虐められてんの?」
「………名前、ちゃんと書いてないから」
「書いてあるじゃん」
「下の名前。ほんとは平仮名じゃなくて、漢字ある」
それは初耳だ。読み辛い名前なのだろうか。
「確かに難読ではあるんだけど。そうじゃなくて、なんていうか、ちょっと中二臭いなって」
あきらと読む字で、中二臭い。いったいどう書くのだろう。
「全部の全で、あきら」
「人の特殊能力奪ったり、与えたりできんの………?」
私の引き寄せ体質、奪ってくれないかな。というか、そんな読み方があるのか。人名訓というやつは、当て字のようなものばかりだ。衣色もそうだし、出多の名前も普通そうは読まないだろう、というような読みである。まぁ、阿比留のようなキラキラネームよりはまだ良いが。いや、
「学校辞めたのに、勉強はできるんですか?」
悪気無しに失礼な発言をする女だ。とはいえ、勉強をしたといっても今年に入って二か月だけなので、あまり人を舐めるなとも言えない。
「ちょっとだけね。高一の範囲くらいまでなら、ギリ分かるってくらい」
もうやらないけどね────と付け足す私を見て、あきらが「どうして?」と質問する。普通の人間からしたら、私の年齢で勉強をやめるというのは、理解の及ばない思考なのだろう。
「する理由が亡くなったから」
「将来とか考えたら、理由なくなったりとか、しないんじゃ………」
将来を考えられるのであれば、確かにそうだろう。だが、今の私は、その将来があるかどうかを探しているのだ。故に、もう理由が亡い。
「勉強教えてほしいなら、わたしじゃなくていづみに聞きな。あいつ、めっちゃ頭いいから」
私でも見てやれないことはないが、教わったことはあっても教えた経験はない。教え下手に見てもらうよりは、頭のいい泉の方が適任だろう。
じゃあ、聞いてみます………と頷くあきら。救急箱を持って部屋を出ようとすると、彼女が再度私の名前を呼んで、背中を引き留めてきた。先程の行為の理由を訊ねないことを、不思議に思ったらしい。
「訊いてほしいなら、訊いてもいいけど」
「いえ、そういうわけじゃなくて。ただ、こういうのって、普通なら"なんで"とか、あるんじゃないかなって」
普通なら、か。そういう言葉は、普通の相手にかけることでしか、効力を発揮しないものだ。
「わたしの周りじゃ、そういうのも含めて、普通じゃないのばっかだから。珍しくもないから、別に追及する気もないよ」
まるで人生経験が豊富であるかのように聞こえるが、実際はその逆だ。経験不足な連中が、経験不足な
救急箱を戻して、外を眺める。久し振りに、夜を歩きたい気分だ。
衣色に少し夜風に当たってくると伝える。入口から一歩外に出ると、冷たい空気が口の中を満たしてきて、それを押し出そうと肺の中身を吐き出すと、魂と見紛う白い靄が生まれて、夜の山間部に融けていった。
「さっむ~!ねぇ零、気温、マイナス四度近いって」
ついてくるつもりらしい泉が、スマホの画面を見て氷点下に燥ぐ。
「明日は忙しくなりそうだねぇ」
「なんで?」
「なんでって………クリスマスイブだよ、明日」
もうすぐ日付が変わって、十二月二十四日。紅祢に伝えようと考えていた日になる。
煙草に火をつけながら、どうか雪が降らないようにと、祈る神もいないままに天蓋を仰いだ。
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