Case:2

 息を切らしながら、冬の一四六号線を歩く。

 急ぐ旅でもないのだし、と草津まで歩いて向かおうという思い付きを実践している最中なのだが、あまりにも軽率だった。予想以上に車通りがあって危険だし、やはり素直にバスに乗るべきだったか。

 気温が低いというのに、服の下にはじわりと汗が滲んでいる。今が夏でなくてよかった。夏場にこの思い付きを実践していたら、間違いなく熱中症で倒れていただろう。

 軽井沢から草津まで、徒歩で約十時間。キャリーバッグを引きながらなので、もう少し時間がかかるかもしれない。

 現在時刻は、午後三時五十八分。非常に不味い。出発してからまだ二時間と少しだ。徒歩で約十時間、ということは、単純に計算して、草津に到着するのは午後十一時前後になってしまう。山の日暮れが早いことを考えると、すぐにでも野宿できる場所をさがすべきか。バスに乗ろうにも、こんな山間部の道では、バス停の間隔も相当空いていることだろうし。

「そ、そろそろ………軽井沢からは、出れた、かな?」

 荒い息のまま、泉が私を見る。

「残念。まだ軽井沢です」

「うそだぁ………」

 もうダメ、と、その場に座り込む泉。休んでいる暇などないのだが、正直なところ、私の足ももう棒のようになってしまっている。

 テントを張るにしても、左右は完全に木々に覆われていて、一晩を過ごせるような空間は見えない。こんなことならあのキャンプ場でもう一泊して、明日の朝早くに出発しておけばよかった。

 下田で紅祢と歩いた山道とは勝手が違う。あの時は大荷物を抱えてはいなかったし、距離も然程でもなかった。

 これはもう、ヒッチハイクをするしかないか………と顔を上げると、道の先に、わずかに建物の屋根のようなものが見えた。

 マップを開いて確認する。どうやらあれは、峰の茶屋という蕎麦屋のものらしい。蕎麦屋なのか茶屋なのかはっきりしてもらいたいところだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「泉。この先、休めるとこあるっぽい」

「ほんと?」

「開けた場所もあるみたいだから、事情話して許可もらえば、テント張れるかも」

 開けた場所、というのが火山観測所のため、許可が下りるかは、正直分からないが。

 しかし、あそこにはバス停もあるようなので、間に合うのであれば、そちらを選択すればいい。

 笑う膝になんとか喝を入れて、二人で峰の茶屋を目指す。店の前に着いたのが、午後四時九分だった。

 こういう、峠の茶屋的な店というのは、どうしてこうも心を惹く外観をしているのだろう。昔浜北で飲んだ、甘い緑茶か抹茶か分からない飲み物が、記憶に残っているからかもしれない。

 さて、どんなメニューがあるのだろう、と入口に近付く。が、何故か閉まっていた。

「ねぇ零。ここ、三時には閉まるんだって」

「嘘だろ………」

 と、肩を落とす私達の隣を、バスが走る。慌ててスマホのマップを開き、近くのバス停をタップして確認すると、今のは四時十分発のバスだったらしい。次のバスが来るのは、三十五分後だ。

 まぁ、自販機もあることだし、店の駐車場で休ませてもらおう。そして、バスが来る十分前には、バス停で待機しておくのだ。何しろ次の四十五分発が最終バスらしいのだから、逃せば野宿が確定してしまう。

 自販機で、二人で同じ、ホットミルクティーを買う。キャリーバッグに座って周囲や空を眺めるが、もうあまり車通りもなくなってきたし、少し暗くなってきてしまった。最終バスが来る頃には、木々の判別もできなくなっていることだろう。

「もう、ほんと、二度と零の思い付きには付き合わない」

「うん、ごめん………」

 軽率だった、と泉に頭を下げる。

 ハイキングの経験もない女二人が、十時間を要する徒歩行軍を冬に敢行するなど、愚行にも程があるというものだ。いくら出費を抑えたいからといって、答えを得る前に死んでしまっては意味が無い。

 ほう、と白い息を吐く。次第次第に、周囲の光度が落ちていって、四時三十分を過ぎる頃にはもう、大分夜になっていた。

 そろそろバス停に向かおうか………と泉に言おうとして彼女を見て、表情が固まる。腹を抑えていたからだ。

「えっと、泉さん………?」

 最悪の事態が頭を過る。最終バスが来るまで、あと十五分しかない。

「零」

「なんでしょう」

「零に一つ、隠してたことがある」

 なんだいきなり、と首を傾げるが、泉が指した自販機を見て、まさかと血の気が引いた。

「私、乳糖不耐症」

 先程のミルクティーか。

「先に言え!てかなんで飲んだ!?おい、なんでさっき飲んだ!!?」

「美味しいから、つい」

「草津に着いてからでもいいじゃん!」

 最悪だ。ああ、まったく、最悪である。

 幸いにもすぐ隣に公衆トイレはあるものの、乳糖不耐症ということはつまり、こいつの腹は今、ものすごく緩くなっているということで。

「さっさと厠へ!ハリアップ!」

「イエス・マム!」

 荷物を置いて、全力疾走で公衆トイレに走る泉。その後を、二人分の荷物を持って追いかける。スマホのライトで前を照らしながら。

 現在時刻、午後四時三十二分。ここからバス停までは二分程度もあれば行けるだろうが、非常に不味いことに、最終バスが来るまでもうあと十分程しかない。下痢ピーの人間が、果たして十分で用を済ませられるだろうか。いや、済ませてもらわなければ困る。私の思い付きが発端とはいえ、ミルクティーを飲んだのは泉の判断なのだ。下痢の所為で最終バスを逃しましたなど、笑えない。

「おい、おい泉、まじで急げ!やばいから!今ほんとにやばい状況だから!!」

 トイレのドアを激しく叩く。中から「分かってる、分かってるよ!」と返ってくるが、一向に出てくる気配はない。

「ねぇぇえ!?まだ!?まだなんですか奥さん!?もう四十分なんですけどぉ!!?」

 最終バスまで、あと五分。三分以内に泉が出てこなければ、駐車場か火山観測所前でキャンプをしなくてはならなくなる。それも、真っ暗闇の中でテント設営をして、だ。

「急かさないで!まだお腹ゴロゴロいってるんだってば!!」

「まだ!?ねぇほんとになんで飲んだの!?」

 確かにミルクティーは美味い。特に冬に飲むホットミルクティーは格別だ。が、今まで乳糖不耐症に苦しんできたのならば、こうなることは簡単に予想ができたはずである。

「ねぇぇえええ!!お願い、お願いだから!!奢るから、夕食わたし奢るから!!お願い早く出てきて!!!」

 タイムリミットが、刻一刻と近付く。バスが来るまで、あと三分。

「さ、先に零だけ、バス停に………下痢のやつがいるからって、引き留めてくれれば」

「荷物置いたままにできんって!うちらこれなくなったらいよいよ終わりなんだぞ!」

 キャリーバッグの中には、お互いに旅費の大半を仕舞ってある。財布に何十万も入れておく程不用心ではないからだ。それに加えて着替えやコスメ、キャンプ道具など、どれも失ってはならない物ばかりである。もしも万が一、盗まれるようなことがあっては終わりだ。

「そうだ、鍵!百円玉とか使えば鍵外から開けれるじゃん!荷物中に入れるから………」

「それは嫌!見られたくない!!」

「じゃあはよ出ろって!!」

 もう間もなくバスが来る────というところで、トイレの中から「零」と呼ぶ声がした。

「なに、はよして!」

「私を置いて、先に行くな」

 少し向こうから聞こえる、バスが走る音。夜山に響く、ぷしゅうという停車した音と、走り去る音。左手にバスのライトを見つけて、ドアから離れて大きく手を振る。

「ああああ、待って!待って待ってお願い待って!お願いだから待ってぇえええ!!!」

 叫びの声は、虚しく山中に響くだけ。私は、バスのライトが次第に遠ざかっていく光景を、ただ見つめることしかできなかった。

 六分程経ってから、ようやく泉が姿を現す。ご丁寧に、ハンカチで手を拭きながら。

 沈黙が流れる。おい、どうすんだよ、これ。

「………お互い様、ということで、どうにか」

「ムリだよ、やらかしの規模が違ぇよ」

 キャンプ確定、である。

「はぁ~………まぁ、こうなっちゃったなら仕方ない。観測所の人に、テント張っていいか聞きに行こ」

「誠に申し訳ございません」

「ほんとだよ………」

 本格的に冷え込んできた。早急に寝床を確保しなくてはならない。食料など用意していないので、今夜は食事抜きだ。食料に関しては、山歩きを提案した私の落ち度でもあるが。次からは、荷物の中に非常食を加えることにしよう。

 スマホのライトで道を照らし、蕎麦屋の向かいにある、火山観測所へと歩く。許可がもらえるといいのだが。もしくは、一晩程度ならと泊めてもらえると非常に助かる。

 と、背後から車両の走行音が聞こえてきて、ライトで体が照らされる。直後、クラクションを鳴らされた。

「なんしよーと?」

 金髪の女が、窓を開けて私達に声をかける。死体を棄てに来たヤクザか、と身構えたが、どうもそういう輩には………ああいや、見えないこともないな。

「えっと、バス逃しちゃって………」

「そら、おおじょうしとるな」

 確かに立ち往生はしているが、まだ死んではいない。博多弁なのだろうが、どういう意味なのだろう。災難だねーとか、大変だねーとか、そんな感じか。

 若い世代でここまで方言が強く出るというのも、なかなかに珍しい。祖父母に育てられたのだろうか。

 私と泉が顔を見合わせていると、通じていないのだと察した女が、気を利かせて少し訛りの入った東京弁………いや、東京弁ではないが、とにかく話し方を切り替えてくれた。

「すまん、方言強いと分からんよな。大変やったね。どこ行こうとしてるん?」

「えっと、草津に行こうとしてたんですけど、もう暗いし、この辺でキャンプしようかなって」

「夜ん山はばりえずか………んんっ、怖いし、危ないで?」

 猪くらいは出るだろうし、確かに危険だろう。が、このまま歩くよりはまだ安全だ。観測所には人もいる………と、思うし。

「うちも草津ば帰るとこやし、なんかの縁たい、乗っていき」

「いいんですか?」

「よかよか。若い女が夜ん山で寝るもんやないで」

 関西の方言やイントネーションも混ざっている気がするが、幼少期に引っ越しをすることが多かったのだろうか。祖父母に育てられたのであれば、転勤というのは考え難いが………なんいせよ、こんな場所で一晩を過ごすのは御免なので、お言葉に甘えさせてもらうとしよう。

 地獄に仏、夜山に女。………夜山に女では、まるで山姥のように聞こえてしまうか。とにかく、助かった。

 荷物をトランクに詰めて、泉と二人で後部座席に座る。再度礼を述べるのも忘れない。

「わたし、零っていいます。福家 零」

「佐藤いづみです」

 やはり、他人には偽名を名乗るらしい。当然か。

「うちは伊豆丸いずまる 衣色いぐさ。草津で紅茶カフェやっとる、しがないアラサー女や」

 紅茶カフェか。先程は蕎麦屋が閉業を終了しているとは知らずにぬか喜びしてしまったので、明日あたりにでも寄ってみよう。

 そういえば、伊豆で知り合った喜茶 映子という女も、喫茶店を営んでいると話していたな。伊豆に縁のある女というのは、喫茶店やカフェの店主になる定めなのだろうか。いや、縁があるという程でもないのだろうが。

「泊まる宿どこと?」

「実は決めてなくて………一応、目星は付けてあるんですけど」

 泉が答える。

 適当に調べた結果、草津高原ユースホステルなる宿に泊まろうか、とはなったのだが、予約をしたわけでもない。部屋での晩酌は程々に、と書かれている点も、私達にとっては減点ポイントだ。

「どんくらいおるつもりなん」

「えっと、それも特に決めてなくて」

 ははぁ、と納得したような様子を見せる衣色。記者や作家など、取材をするような職業にも見えない。見た目は派手。見る者が見れば、未成年だと分かる。そして今の時期は長期休暇でもなく、普通ならば日常生活を送っているだろう。だというのに、滞在期間は決まっていない。訳ありかと察するには、これだけの情報でも十分過ぎるだろう。

「なら、しばらくうちで働かんね」

 出会って数分で住み込みバイトに誘われてしまった。危ない話だろうか。一見すると人柄の良い女に感じるが、主観というのはあてにならない………いや、店長の時にも同じようなことを思ったな、そういえば。

「いつまでおるか分からんなら、宿代考えんでええ方が楽やろ」

 純粋な厚意であれば有り難いが、裏があっては死に場所探しに支障が出る。しかし、現状は余裕があるとはいっても、何時まで続くか分からない旅だ。金を得られる機会があるのであれば、逃すのは惜しい。

 どうするか、と泉に視線を向ける。彼女は少し肩を竦めると、私に判断を委ねた。

「ええっと。わたし達、褒められた人間じゃないので………ご迷惑かと」

「気にせん気にせん。うちの方が褒められた人間やないけん」

 義理の娘もおるから、話し相手には困らんよ────と、衣色。やはりというべきか、この女も訳ありな人間のようだ。

 警戒したところで、車に乗ってしまっている現状では、危険が迫っていたところで打つ手が無い。荷物を置いて逃げるというわけにもいかない。であれば、純粋な厚意であると信じる他にないだろう。

 こうして私と泉は、衣色が経営する紅茶カフェ『草の色』にて、住み込みで働くこととなった。草津でを見つけるか、次の目的地が決まるまでの間、という期限付きではあるが。

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