他人の不幸は蜜の味と言うけれど

 他人の不幸は蜜の味。

 昔からそう言うけれど、実際にそういう糖が存在すると判明したのは、僕が子どもの頃だ。


 他人の不幸によって生じる糖。

 不幸糖と名付けられたその物質は、人が他人の不幸を察知したときに体内で合成されるらしい。

 基本的に味は感じられないが、敏感な体質だとほのかに甘く感じることもあるのだとか。

 もちろん、糖の一種だから、いわゆるカロリーもある。


 僕が不幸糖を意識するようになったのは、検査で不幸糖アレルギーが見つかったからだった。

 子どもの頃から悩まされてきた、頻繁な不調。その原因が明らかになったのは純粋に嬉しかった。

 思えば急に具合が悪くなったとき、近くの誰かが「不幸」に見舞われていた。

 例えば、冷蔵庫に入れておいたプリンを人に食べられてしまったり。

 乗り換えを間違えて反対方向への電車に乗ってしまったり。


 アレルギー体質の僕の体は、不幸糖にとても敏感だった。

 ほんの些細な、前兆の前兆とでも言うべき段階の不幸でも反応する。

 ただ慣れてくると、これから起こる不幸の内容を直感的にある程度把握できるようになった。


 だから僕は、他人の不幸をなるべく減らすために行動するようになった。

 誰かがスマホを落としたら、いち早く気づいて拾う。

 誰かが道で転びそうになったら、すぐに手を伸ばして支える。

 ネットショッピングで十二個入り一袋の商品を注文しようとして、間違えて十二袋を注文しそうになっている人がいれば、さりげなく指摘する。偶然画面が視界に入ったように装って。

 すべては自分がアレルギー症状で苦しまないために。


 大人になって就職してからは、僕の体質は仕事上のミス全般に発揮された。

 トラブルという不幸に結びつくミスを、僕の肉体がいち早く嗅ぎ取るからだ。

 連絡の漏れに、書類の誤字。

 ミスに目敏い僕は次第に周囲から疎まれ、引き換えに評価もされた。関わる仕事が「不幸」なことにならないからだ。

 ちなみに不幸糖アレルギーはとても珍しく、話しても理解されないことが多い。

 だから職場でアレルギーのことは明かしていない。

 

 ある日、同僚の一人から不幸の気配がした。

 不幸の匂いは、その同僚がとある取引先について話すたびに発せられていた。

 おそらくその取引先との間に、当人もまだ気づかない不幸が生じつつあるのだろう。

 僕は職場を見回して、その同僚が出した有給の申請書を見つけた。うちの職場はデジタル化が遅れていて、いまだに有給の申請は紙で上司のデスクに出すことになっていた。

 申請書からも香る不幸の匂い。さりげなく見ると誤字がある。

 僕はその同僚を呼び止め、書類に誤字があると伝えた。

「部長ってこういうのにうるさい人だから、直したほうが……」

 彼は露骨に不機嫌そうな表情を浮かべてから、自分の席で書類の書き直しに着手した。

 途端に舌に広がる甘み。

 不幸糖に敏感な体質の人間だけが感じる、他人の不幸の甘い味。

 書類を書き直すことで彼は無事に休暇に入る。そのせいで取引先とのトラブルの発覚が遅れ、トラブルはより深刻になる——僕はそう予想していた。

 そして蜜の味が、予想通りになりそうだと語っている。


 僕のアレルギー症状はすでに投薬でほぼ抑えられていて、不幸糖への敏感さだけが残っていた。

 そしていつしか、僕はその蜜の味に魅入られていた。


 不幸の前兆を感じて、それを取り除くか、あるいは状況を悪化させるか。

 より不幸が生じるよう働きかければ、その結果は舌に甘みとして感じられる。

 他にはない、特別な甘みが。


 あの同僚は、日頃から僕を目の敵にしていた。

 だから多少は構わないだろうと、僕は自分に言い聞かせる。


 舌の上の甘みがますます強くなる。

 他人の不幸は蜜の味と言うけれど、本当にそうだと僕は思う。

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