第7章:走る、君のもとへ

月曜日の朝。

蒼真は鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。


「……よし」


ひとつ深呼吸して、ネクタイを締め直す。


気持ちは、決まっていた。



会社に着くと、夏芽の姿はまだなかった。

蒼真は机にカバンを置き、落ち着かないまま椅子に腰を下ろした。


スマホを取り出して、何度も夏芽のLINEを開いては閉じた。

昨夜、あのベンチで交わした言葉。優しい笑顔。あの空気。


(今のうちに、ちゃんと話したい)


そのとき、夏芽の部署の同僚がつぶやいた。


「篠原さん、今日有給取ってたよ。旅行行くって言ってたけど……どこ行くんだっけ?」


(……え?)


一瞬で背中に冷たいものが走った。



午前10時。

蒼真はオフィスを飛び出していた。


「すみません、ちょっと体調が、いや、あの、急ぎの用事で!」


言い訳にもならない言葉を残し、彼は会社をあとにした。


心当たりはひとつだけ。

小さい頃、夏芽がよく家族で行っていたと話していた、海沿いの古びた駅。


あのときの思い出話を何度も聞かされた。

「誰もいないベンチがあってね、夏の夕方になると、風がすごく気持ちいいの」

そんな声が、脳内で何度も、何度も

繰り返される。


(まさか……本当にそこに行くのか?)


けれど今、信じられるものがそれしかなかった。



正午。

電車を何本も乗り継いで、駅に着いた。


潮の匂い。静かな風。

誰もいない小さなホーム。


いた。

ベンチに、夏芽が座っていた。


大きめのトートバッグを足元に置き、

じっと海を見つめている。

髪が風に揺れて、どこか遠くを

見ているようだった。


蒼真は、走った。


息が切れても、構わなかった。

心臓が痛くなるほどでも、足が重くても、ただ一直線に、彼女のもとへ。



「夏芽!」


呼ぶ声に、夏芽がゆっくりと振り向く。


驚いたように目を見開いたその顔が、徐々にほどけていく。


「……なにやってんの、あんた」


「来た」


「見れば分かる。どうして」


「……言いたいことがあって」


「……うん。聞くよ」


蒼真は、呼吸を整えながら彼女の前に立った。


「俺、やっと分かったんだ。優しさって、ただ“いい顔する”ことじゃなかった。

ちゃんと向き合うこと。怒られても、嫌われても、それでも相手のために本音でぶつかること。

それができたの、夏芽だけだった。

……オレが信じるべきだったのは、最初から、ずっと……」


言葉が詰まった。


夏芽が、ふっと笑った。


「……ほんっと、遅い」


「うん……ごめん」


「でも、来てくれてありがとう」


2人の間に、静かな風が吹いた。

潮の音と風の音が、やさしく混ざる。


やっと、ようやく、本当に、心がつながった瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る