第2話「社交性の仮面(ペルソナ)」

00|保健室・昼休み

 白いカーテンが微かに揺れる保健室で、スミレはベッドの端に腰掛けていた。

 窓の外は真昼の光に満ち、アスファルトが白く照り返している。


 瑞希は――まだ来ない。

 今日も、来れないかな。


 彼女は、クラスで一番声が小さい子だった。

 日直で前に立ったとき、言葉を詰まらせて涙ぐんだのを覚えている。

 誰かと視線が合うと、肩をすくめる。

 教科書に落とした睫毛の影が、いつも寂しげだった。


「……もう少し待ってみる?」


 隣の椅子で、カナが足を組み替えながらスマホをいじる。

 指先だけがリズムを刻むように踊っている。

 スミレは、カナの横顔をちらりと見て、うなずいた。


「うん。でも……あの子、また熱っぽいって言ってたし」

「ふうん、熱か……それ、身体じゃなくて心のほうじゃないといいけど」


 カナの声は軽い。でも、その瞳の奥は笑っていなかった。

 スミレが何か言いかけたとき――

 保健室のドアが、カタンと鳴った。


「――お待たせ!」


 スミレは息を呑んだ。

 そこに立っていた瑞希は――

 制服の第一ボタンを外し、淡いピンクのリップを塗っていた。

 頬には血色が差し、まるで別人みたいな笑顔を浮かべている。


「……瑞希……?」


「うん、瑞希だよ! 二人に会えてよかった!」

 声が弾んでいる。

 そのまま瑞希はスミレの手を取った。


「ね、教室戻ろ? ちょっと見せたいものあるの」


 普段なら、絶対にそんなことしない子だった。

 手を引かれながら、スミレは胸の奥でざらりとした違和感を抱いた。


01|教室・午後五時

 夕日が沈みきった教室は、ネオンの光がガラスに反射している。

 瑞希は机に腰掛け、頬杖をつきながら楽しげに笑っていた。


「どう? 私、ちょっと変わったでしょ」


 変わった――どころじゃない。

 先週まで、声が消えそうだった少女が、今は自分から世界を握ろうとしている。


 スミレは、言葉を見つけられなかった。

 ただ、瑞希の目に宿る光が――本物じゃない気がした。


「……瑞希、それ――」


 カナが机に手をつき、低く声をかける。

 青緑の瞳が、瑞希の瞳孔をじっと測るように。


「薬、やってる?」


 一瞬、笑顔が止まった。

 けれどすぐに、瑞希は唇を吊り上げる。


「やだなー、そんな危ないことしないよ! ……でもね、この世界、楽しいって思えるの。こんな気持ち、初めて」


 カナの指先が、微かに震えた。

 スミレは、その視界の端で、瑞希のスカートから覗いた黒い蓮の刻印入りシールを見つける。

 背筋を撫でる冷たいものを感じた。


02|ファミレス・サブナード

 夜になって、三人は駅下のファミレスにいた。

 周囲のネオンがガラスに滲み、メロンソーダの緑がテーブルを染める。


「……友達も、飲んだの?」


 カナがストローをかき回しながら、低く訊く。

 瑞希は無邪気な笑みでうなずいた。


「うん。あの人がくれたの。“黒蓮”って名前、かっこいいよね。飲むと、全部どうでもよくなるの。勉強も、人の顔色もうんざりだったから……」


「その“どうでもいい”の中に、自分の命も入ってるんじゃない?」

 カナの声が鋭くなる。

 瑞希は一瞬笑いを止め、それからまた――ふっと、暗い影を浮かべた笑顔をつくった。


「……ねえ、もしその薬が、死にたくなる薬だったら……友達、危ないかな」


 そのとき。

 瑞希のスマホが震えた。画面には「未送信の音声メッセージ」。

 開かれた瞬間、かすれた声が漏れた。


「世界がね、きれいに見えるの。

でも、もうすぐ……この色も消えちゃうから。

ねえ、瑞希。どうすれば――このままでいられるかな」


スマホの画面に残るその声に、スミレは息を止めた。

カナの指が震え、グラスをかすかに揺らす。

「……いやな予感しかしない」――カナの低い声が、ファミレスのざわめきに沈む。

スミレは無言で立ち上がった。胸の奥で、何かがざらりと剥がれ落ちる音を聞きながら。


03|歌舞伎町裏路地

 ビルの谷間は夜の熱気で満ち、赤い看板が歪んで光る。

 そこに、それはいた。


 瑞希の友人――だったもの。

 溶けた口元から、泡のような幻覚光を噴き、腕には筋肉と黒蓮の粉末が絡みついている。

 眼は虚ろで、笑っていた。


「……もっと……気持ちよく……」


「カナ、後ろ!」


 スミレの声と同時に、腕がしなる。アスファルトが粉砕された。

 二人は駆ける。スミレがポケットからカプセルを取り出し、奥歯で噛み砕いた。


《Prescription:ゾルピデム》


 眠りの霧が舞う。夜の空気が紫に染まり、ネオンが滲む。

 スミレのローブが揺れ、白く長い髪が幻想の風に踊る。


「――おやすみ。現実より、やさしい夢へ」


 霧がODの動きを鈍らせた、そのとき――


「やっと見つけた!」


 鉄パイプが吹き飛ぶ。誰かが、笑っていた。

 短パンにパーカー、乱れたポニーテール――レンだ。

 ステッキを銃のように構え、弾丸のように路地を駆け抜ける。


「お前ら、何ちんたらしてんの!? こういうのは、ぶっ飛ばすのが一番でしょ!」


「待って、レン、まだ状態――」

 言い終える前に、レンは跳んでいた。


「《アドレナリン・ラッシュ》!」


 紅い光が弾け、彼女の脚がアスファルトを砕く。

 ODの腕と腕が衝突、火花とガラス片が夜空に散った。


04|戦闘シークエンス

 ODはレンを押し返し、壁を突き破る。

 だがレンは笑っていた。狂気じみた光を宿して。


「やっば……効いてきた! もっと速く!」


「レン、抑えて!」

 カナが腕輪を弾き、《セロトニック・コンプレッション》を起動。

 空気が青白く脈動し、ODの怒りを圧縮する光弾が弾ける。


 スミレは霧を濃くし、幻覚で敵の平衡感覚を奪う。

 そこへレンの蹴りが炸裂。骨と薬の粉が飛び散り、ODは地面に崩れた。


 沈黙。

 街の遠くでサイレンが鳴っている。


「……はあ、楽しかった」

 レンが額の汗を拭い、笑う。


「あなた、誰?」

 カナが目を細める。

 レンはニカッと笑い、親指を立てた。


「レン。新入り。仲良くしよーぜ、相棒さんたち」


 その笑顔の裏に、スミレは見た。

 ――どこか、自分と同じ目。壊れる予感を隠した目。


エピローグ

 倒れたODの腕から、黒い蓮の刻印が浮かび上がっていた。

 ビルの屋上、夜風に長い黒髪をなびかせる蓮霏璃リェン・フェイリィは、煙管を口に笑っていた。

 その横で、黒いスーツに身を包んだ梁が、無機質な瞳で街を見下ろしている。

 麗人の微笑と、虫を観察するような冷たい視線――二人の沈黙が、新宿の夜より深く落ちていった。

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