第3話「笑顔の鏡像(ミメィシス)」
00|夕方・線路沿いの高架下
サイレンの音が遠ざかる。
黄昏の街に、薬と鉄の匂いが漂っていた。
「……カナ、右!」
スミレの声と同時に、鉄パイプが頭上をかすめた。
襲いかかってきたのは、サラリーマン風の男――だが、腕は変形し、皮膚に黒い蓮の痕が浮かんでいる。
「完全に
カナが低く呟き、ポケットからカプセルを取り出した。
歯で噛み砕く――脳に冷たい火花が散る感覚。
《Prescription:セルトラリン》
カナの周囲に、青緑の光輪が走る。
スミレも迷わず銀のカプセルを嚥下した。
《Prescription:ゾルピデム》
紫の霧が高架下を包む。世界が滲む。
スミレの瞳に、現実と幻の境界が消えていく。
「……眠って。ここで全部、忘れて」
ODは視覚を奪われ、膝を折る。
そこにカナのチャームが閃き、光弾が炸裂した。
沈黙。
アスファルトに残ったのは、粉々になった黒蓮のカプセルと、男の名刺だけだった。
「……終わったけど、ギリギリだったね」
カナは笑うが、その笑顔は硬い。
スミレは壁に寄りかかり、息を整えた。
視界の端で、紫色の蝶がひらひらと舞う――現実には存在しない蝶。
(……また、出てきた)
胸の奥で、何かが静かに壊れはじめていた。
01|放課後・美術準備室
夕方の光が沈み、薄闇の中でガラス瓶が淡く光っていた。
スミレとカナは、まだ息を整えきれないまま、美術準備室の前に立つ。
扉の隙間から、絵の具とオイルの匂いが流れてくる。
「……入ってみる?」
「やめとこうかって言う顔してるよ、スミレ」
「カナこそ、声、震えてる」
軽口で誤魔化しながら、二人は扉を開けた。
中は――夢の中みたいだった。
教室の壁一面に貼られたキャンバス。
そこに描かれているのは、街のネオンが溶けたような極彩色。
紫と藍、緋色が幾何学模様になり、中央に黒い蓮の花が浮かんでいる。
「……すごい……」
スミレは呟いた。現実の輪郭が、音もなく溶けていく感覚。
視界の端で、また蝶が舞った――さっきの幻覚が、ここでは当たり前に存在しているように思えた。
「やっと来てくれたんだ」
声がして、二人は振り向く。
鏡花(きょうか)がいた。白いエプロンに絵の具を散らし、微笑んでいる。
頬は赤く、瞳孔は、夜の花のように開ききっていた。
「世界がね、きれいに見えるの」
鏡花は筆を置き、窓の外を指差す。
夕焼けの街は、ガラスを通して千の色に分解されていた。
赤も青も金も、現実にはないはずの軌跡を描く。
「紅葉(もみじ)さんが教えてくれたの。
本当の色は、薬が教えてくれるんだって」
――紅葉?
スミレとカナは、同時に硬直した。
その名前を知っている。かつて同じ“魔法少女”だった人。行方不明のまま、P.U.R.Eの記録から消えた人物。
「紅葉さんはね、すごく優しいんだよ。
“何も怖くない世界を見せてあげる”って……」
鏡花の声が、遠くで響く。
スミレは壁際のキャンバスに目を奪われた。
そこには、巨大な女性の影が描かれていた。
長い黒髪、冷たい微笑、そして――瞳に浮かぶ無数の蓮花。
その絵が、ふっと瞬いた気がした。
黒い蓮の花弁が、キャンバスの中でゆっくりと揺れる。
次の瞬間、鏡花がスミレの手を取った。
「……会ってほしい人がいるの。
本当に世界を変えてくれる人――廃教会で待ってて、って」
鏡花の声は、淡い光に溶けて消えるようだった。
02|廃教会跡・夜
ステンドグラスは砕け、風が冷たい残響を運んでくる。
スミレとカナは、剥がれた祭壇の前で互いに頷き合った。
「……ここでいいのかな」
「敵か味方か分からないなら、準備しておこうか」
二人はほぼ同時に、銀と青のカプセルを噛み砕いた。
《Prescription:ゾルピデム》
《Prescription:セルトラリン》
紫の霧が床を這い、青白い光が壁をなぞる。
スミレの指先に冷たい眠りの魔力が満ち、カナの周囲に情動の波紋が広がった。
だが――カナの表情が崩れる。
笑っている。でも、その笑顔は、感情じゃなくて――空っぽの形。
「スミレ……きれいだね……
君の声、ぜんぶ消しちゃえば、もっと楽になれるよね?」
「カナ、やめて」
「なんで?」
「なんでって……そんなこと、できるわけ――」
「できるよ。すぐに、ここで」
彼女は、スカートの裾をひらりと弾き――そこから覗くガーター型ホルスターに手を差し込んだ。
カナの指先が、ナイフの柄を撫でる。
白い太ももに沿って、銀の鞘がわずかに光る。
スミレは一瞬、目を奪われ――そして、心臓が冷えた。
「……カナ、それ、やめて」
「なんで?」
金属の音が、スカートの奥で小さく鳴る。
ナイフが引き抜かれ、霧に刃がきらめく。
その光は、まるで夢に落ちる合図みたいで――スミレの視界に白い蝶が舞った。
羽音が、カナの声と溶け合っていく。
「理由なら……たくさんある」
「じゃあ、言ってみてよ。スミレの理由で、私を止められる?」
「……カナは、私の――」
「ねえ、それって“私”が本当に欲しいもの?」
カナが一歩、前へ。
ナイフの切っ先が、スミレの頬をかすめ、霧が震える。
呼吸の音が、やけに大きく響いた。
――そのとき。
カァン……
冷たい鐘の音が、教会の闇に落ちた。
視線を向けると、奥の影から歩み出る白と黒。
紅葉――シスター服に似せた歪んだ衣、黒いヴェールに銀糸の蓮の紋様。
手には、虹色の液体を満たしたガラス瓶。
「……お祈りの時間だよ」
彼女の声は、聖句みたいに優しく、毒みたいに甘かった。
瓶が砕け、空気に虹の霧が広がる――
カナの動きがふっと止まる。瞳孔が震え、ナイフがカランと床に落ちた。
「……なに、これ……
楽しい……でも、怖くない……」
紅葉が微笑んだ。
「LSDとセロトニン、拮抗するんだよ。
――ほら、薬って便利でしょ?」
スミレの背筋を冷たいものが這い上がった。
聖堂の闇で、紅葉の唇が、祈りの形に開く。
「正義も悪もない。きれいにするだけ――この世界を、壊して」
―――
【用語解説】
セルトラリン(ジェイゾロフト)
SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)抗うつ薬。セロトニン量を増やすことで抗不安作用をもたらす。主な副作用として、吐き気、眠気など。まれに起こる副作用として、セロトニン症候群、自殺念慮など。
LSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)
サイケデリック系ドラッグ(違法薬物)。脳内のセロトニン(5-HT)受容体に結合して、セロトニンのシグナルを上書きする(部分作動薬として作用する)ことで、幻覚を見せる。
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