第009話 見守る瞳、導く風
――新学期から一週間。
町の桜は完全に散り、新緑がその場を埋めていた。
今日、ようやく――入学式が行われる。
教室にいた前行アムは、周囲のざわつきをよそに窓の外を見ていた。校庭にはすでに椅子が並び、壇上の準備も整っている。
「ねえ、ほんとに今日が入学式なんだね」
斜め後ろの席から、双子の片割れが声をかけてきた。もう一方の妹が「遅すぎるよね〜」と呟く。
「……悪魔のせいだよ」
教室の隅でぼそっと誰かが言った。
――四年前、入学式に紛れて一体の悪魔が人間に化けて侵入し、新入生数人を襲った。
以来、この学校では新学期開始から一週間の“観察期間”を設け、教師たちが全員の様子を確認することで安全を確保してきた。
その事件の年に入学した学年、今の5年生は、被害を直接受けた世代。
当時の生徒数から大幅に減少し、今はわずか8人しかいないという。
その背景を、アムはまだ深く知らない。
ただ、なんとなく学校には“静かな緊張”のようなものが漂っていると感じていた。
教室のドアが開き、先生が顔を出す。
「みんな、整列して体育館へ行きます。今日は本当の意味での“はじまり”です」
ざわざわと立ち上がる生徒たち。アムも、少し緊張しながら列に加わった。
――体育館。
椅子が並び、保護者たちの後方席にはアムの母・センの姿があった。
落ち着いたスーツに身を包み、目元には少し涙ぐんだ光が宿っていた。
隣の母親と小さく会話しながらも、アムの姿を見つけては微笑む。
壇上に立ったのは、白髪交じりの校長だった。
「えー……まず最初に、ようこそ我が校へ。新一年生の皆さんと保護者の皆さん、本日はおめでとうございます」
校長は眼鏡をくいっと上げると、少し笑って続けた。
「さて、恒例となっております“校長の昔話”を一つ。私がまだ若い教師だったころ――いや、今も若いつもりなんですが……ある生徒にこう言われました。『先生、なんで校長ってスピーチ長いの?』と」
会場からくすくすと笑い声がこぼれる。
「だから、今日は短めにします。……皆さん、ここにいるのは当たり前ではありません。安全に、そして、自由に学べることの価値を、どうか忘れずに過ごしてください」
その言葉には、やはり“祈り”のような響きがあった。
アムはふと、母・センの顔をもう一度探した。彼女は静かに頷きながら、手を合わせるようにして見守っていた。
そして、膝の上には静かに丸まった黒い狐――モルモンが、誰にも気づかれぬように寄り添っていた。
「……始まったんだね」
アムは小さく呟いた。
まだ才も完全に覚醒していない。ただ、“何かができる”ことだけは、本人も薄々気づいている。
それが何なのか、いつ目覚めるのか。
それを知るのは、もう少し先の未来。
だが今は――。
新しい日々が、ようやく本当に始まった。
校舎の屋上では、天使・ユナがその様子をじっと見つめていた。
「あの子……やっぱり何かを持ってる」
彼女の視線は、アムに、そして膝の上の黒い狐に向けられていた。
誰も気づかないまま、静かに物語は動き出していた。
――近くの高台。
夕焼けが街を赤く染める中、ひとりの男が静かに立っていた。
白いロングコートを風に揺らし、整った顔立ちに冷静な光を宿す瞳。
ゼノン――神の器にして、人類の王。
その視線は、小さな小学校の校庭へと向けられていた。
「久しぶりに彼に会えるな」
ゼノンが呟いたその時、彼の背後から少女の声が弾ける。
「ゼノン様〜! ねぇねぇ、私もその“お気に入りの彼”に、会ってみたいなぁ!」
振り返れば、そこには大きな白い翼を持つ少女がいた。
漆黒の瞳が夕日を反射して輝いている。
ゼノンは彼女の頭をそっと撫でながら、優しく微笑んだ。
「今はまだ早いよ。でも……いつかアム君が、君に会いに来る日が来る。その時、きっと君は救われる」
「ふーん……そっかぁ。じゃあ、ちゃんと待ってる。十三人目の、私のお兄ちゃんに」
少女は笑った。無邪気で、どこか切なげな、でも確かな希望を抱えた笑顔だった。
――その遥か下方。
森の奥、何かを探す気配があった。
空気を揺らすほどの気配と焦燥。
オーラが爆ぜ、何かを探し求めるように動く影。
その存在たちは、まだ名もない。
だが、いずれアムの最も近くで、最も深く繋がることになる“モノたち”だ。
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