1-1:傍らに黎明

 不思議なところだ、と子供心に蒔乃は興味津々で辺りの風景を眺めていた。あくまでここは夢の中なのだと、現実にある世界じゃないことくらいは理解していた。はっきりと睡魔に耐えかねそのまま寝落ちたその直前までの記憶が残っていたからだ。

 空はペンキに浸した刷毛で塗ったくったような奥行きのないコバルトブルーで、スパンコールやビーズをめいっぱい散らかしたように、大気に揺らめく星々の光に満たされている。

 周囲に林立する建物の群れは、まるでヨーロッパの風景写真をそのまま切り抜いたかのようで、戯画的な空とはずいぶんリアリティが違う。

 ところどころに植栽もあるが、これも南国風のヤシの木や日本の地方都市らしいケヤキ並木など原産地も品種もめちゃくちゃに入り交じっていて、植物に詳しくない人が適当に配置してみたオブジェクトというのが印象として強く残る。

 つまりこの空間は誰かが想像だけで作りあげたものなのだろう、とピンときた。よくよく観察すれば街並みの遠近感もところどころおかしいし、植物のディテールも粗かったり逆に細すぎたりと不自然だ。写真やイラストを適当に加工して切り貼りしたような世界、とでもいえばいいのだろうか。

 まあ夢の中ってやつはこういうものなのだろう、とむしろ納得してしまえる。妙ちきりんな空間がなんだか面白くなってきて、昼間の出来事も束の間忘れて蒔乃はアスファルトと石畳を半端に合成したような道をスキップしはじめる。

 目抜き通りらしいこの辺りに人影はない。ショーウィンドウが等間隔に並ぶ、人っ子一人いない街はしんと静まり返っていてかえって耳に痛いほどだが、誰に会おうとするつもりもない今の彼女にとって無音はむしろ居心地のよいものだった。

 まっすぐにメインストリートを進むうち、まるで絵本のページをめくるように自然と空の色は切り替わり、昼下がりの退屈そうな青空になる。薄ぼんやりとした晴天はヴェールのような雲で装飾され、射し込む日差しにぬくめられた空気は生ぬるい。だから、ああ、誰かがここへ来たのだ、とわかった。


「こんにちは。それともおはよう、の方がいいかな」

「……だれ?」

「誰なんだろうなあ。好きに定義するといいよ。僕自身もさしたる答えを持たないから」


 いつだったか、海外の古い映画で見たような記憶のあるオープンカフェらしい佇まいの店に、その人はいた。ポップな色合いのパラソルの下に椅子とテーブルのセットがあって、卓上には中身にほぼ手をつけられていないままのコーヒーカップがある。

 注がれてあるのが薄茶色の液体としかわからないので、それがミルクティーなのかカフェオレなのかは蒔乃に判別はつかない。その人は二つ並んだ椅子のうち、一つに浅く腰掛けていた。空いた席へ座るよう勧めているようにもみえた。

 知らない男の人だ、と蒔乃は自分より少し高い位置にあるその顔をなんとはなしにじっと見つめた。このひとが他人に害を与えることなど、ありはしないと言いきれてしまえそうな、優しい顔立ちをしている。細められた目元が陽光を受けて輝いていて、空みたいだ、と思った。碧い、穏やかな眼差しが立ち尽くす蒔乃に向いていた。

 まっすぐな黒髪だとか、簡素なシャツとズボンという格好だとか、そのひとを形作る視覚的な情報は他にもあるけれど、優しい人だということと、目が碧いという二つのことだけが強烈に頭に焼きついている。


「言ってること、難しくてよくわかんない……」

「そりゃそうか。ごめんな、子供と話すの、あんまり得意じゃなくて。まあ覚えていれば、いつかはわかるよ。ええと、それで……僕は何を話そうとしたんだっけ?」

「あなたはだれ、ってきいてるの」

「うーん。それは俺もよくわからないんだよな。気がついたらここにいたし、ここ以外のどこにも行けないから」

「……夢の国の人、ってこと?」

「あー、うん、近いかも。君たちはお客さんってところかな。だって目が覚めたら、帰るでしょう」


 どこに、とは口にしなかった。ただ、微かな寂しさのようなものはくだけた口調に滲んでいた。夢を訪れる人々が朝に帰っていくことを惜しんでいるような。


「ずっとここにいるの?」

「ずっと居たし、たぶんこの先もここにいるだろうよ。僕には帰る場所なんて、ないから」

「……どうして?」

「どうしてなんだろうなあ。それは俺が一番知りたいかもしれない。まあ、座りなよ。立ちっぱなしもなんだし。ああそうだ、好きな飲み物はある?」

「いちごミルク。いちごが入ってるやつ。母さんがよく作ってくれるの」

「へえ、いいな。ごめん、少しだけ借りるね」


 本当に羨ましげに呟いてから、彼はそっと蒔乃の額に触れた。男にしては細い指先が前髪をかきわけ、優しく撫でる。掌を通して薄っぺらな皮膚とまだ柔らかい頭蓋骨に守られたその中身を覗いてるように、蒔乃には感じられた。だが不思議と不躾に思えないのは、肌を通して伝わる体温が思いのほか心地よかったからかもしれない。

 ややあって青年が離れると同時に、テーブルの上には蒔乃が普段使っているお気に入りのグラスへなみなみ注がれたいちごミルクが置かれていた。スプーンで軽く潰した果実を紙パックのいちごミルクに浮かべたそれは、まさしく彼女の母が日頃作ってくれている、そのものといえた。突然の出来事に呆然としていると、味までは再現できないけどね、と彼は申し訳なさそうに苦笑している。


「すごい……こんなことまでできるの」

「貸してくれたからだよ。誰にでもしてあげられるわけじゃない」

「そういうものなの?」

「そういうもんなの」


 なるほどそういうものなのか、と若干の釈然としなさはありつつも、ひとまず納得してみてから思いきってグラスに差したストローを咥える。ずずっと吸い込んでみるが確かに青年の言う通り、完全再現は不可能であるというのが感覚でわかった。

 なぜならなんの味もしなかったからだ。いちごミルク特有の香料っぽい匂いもしない。牛乳のまろやかさも、苺の甘酸っぱさも。果肉の柔らかさすらイメージできていないのがわかり、夢の中というやつは案外不自由なんだな、と得心する。

 同時に、こんな制限だらけの世界でひとりぼっちで存在することの孤独も。いくら見渡してみてもこの街に人間は誰もいない。虫の声も、小鳥の囀りも、生きているものが立てる音など、何も。何も聞こえない。時折吹く風が木々を揺らす、梢の音色だけが耳朶をかすめるだけだ。

 さっきまでは自由だと思えた空間が、途端に窮屈に感じた。そしてもしも蒔乃本人がこんなところにずっといたとしたら、いつか気が狂ってしまうだろうとも。


「……あの、あなたのこと、なんて呼んだらいい。名前とかないの」

「何も。ていうかさ。今まで、俺の存在に気づいてくれたひとって、いなかったし」

「なんで? だって、あなたはここにいるのに」

「さあね。僕が借りてもこんな歪なモノしか作れなかったのと同じで、たぶんそういうもんなんじゃない? 色んな夢に行ってみたよ、ここが夢の中だって気づいている人だって、もちろんいた。でも、そういう人でもわからないみたいだ。だからきっと仕方ないことなんだよ」

「……っ、そんなことない! 仕方なくなんか、ないよ。全然、そんなの、違うと思う。よくわかんないけど」


 不意に視界が滲んだ。鼻の奥がつんと痛んで、ああ今自分は泣いているのかと遅れて理解する。まっさらな木のテーブルの上に、ぽたぽたと塩辛い雫が落ちて、まるい染みをつくる。

 なぜ自分が泣いているのかわからない。泣きたいほどに苦しいのも、悲しいのも、どうしてかなんて理解できそうにない。ただ、想像するより遥かに己が傷ついたことだけはわかっていた。

 孤独というものが身を裂くように辛くて酷いものであると、蒔乃はたった今知った。そしてここにいる彼は、確かに孤独なのだと思う。


「あなたのことを教えて。もっと。だから、またここに来て。わたしは、もう一度また会いに来る。必ず、ここに。お願いだから、これっきりにしないで」

「……どうして?」

「そんなのわかんないよ。でも、お別れするのが、どうしても嫌なの」

「まいったな、大して懐かれるような真似はしてないと思うんだけど」

「そういうんじゃない。懐くとか、ひとを動物みたいに言わないで」

「それもそうだね。撤回しておく」


 沈黙がテーブルに落ちる。淀みなく続いていた会話は止まって、嗚咽する蒔乃の声だけが静かな世界に響いている。慰めるような真似も、あやすような物言いもしない青年は、言葉通り本当に子供という生き物に慣れていないのだなと思う。

 そして子供扱いされないことが今の蒔乃にとっては一番ありがたく感じられた。もちろん本当なら自分はきちんと子供扱いされるべきなんだろうとわかっている。まともな大人とはそういうものだというのも知っていた。それが、正しさだと。

 だけど正しくある大人を蒔乃は別に望んでいない。目線を合わせてほしい、対等に見てほしい、そう願うのはきっと子供なら誰だって同じのはずだ。本物の対等なんて手に入らないことくらいわかっているから欲してしまう。特別自分がおかしいわけじゃないと蒔乃は思っている。

 目の前の青年は、まさに「そういう」ひとだろう。大人としてかくあるべき姿を知らない、正しさから遠いところにいるからこそ、蒔乃の望みに応えてくれる。わかりやすくない言葉ばかり使うのも、相手の理解度を侮ってなんかいないから。今は無理でもいつか伝わると信じているのだ、このひとは。


「……それで、結局わたしはあなたをなんと呼べばいいの」

「好きに呼べよ、僕はそう言った」

「わたしも、あなたのことが知りたいって、言った」

「こだわるなあ。そんなに俺のことが気になる?」

「そうだよ。全部、気になってる。ダメ?」

「いや別に、ダメでは、ないけど……知ったって別に、なんにもならないよ」

「それはわたしが決めることだよ。何がそんなに嫌なの? 知られるって怖いこと?」

「……怖いよ。だから俺は、ずっとここにいるのかもね。ここにいる限り、僕が傷つくことはないって俺自身がわかっているのかも。なんとなくだけどさ」

「でも、どこかに行きたい、ここじゃないところがいい、とは思わないの。だって色んな夢を見てきたんでしょう。そしたら、もっと素敵なところだって」

「それは……その、わからない。どこかに行けるかも、なんて考えたこともなかった。きみは不思議な子だな」

「……そう?」

「うん。俺を見つけたのも、こうして話をしてくれるのも。すっごく変わってる」

「変わってるって、いけないことなのかな」

「そんなことないよ。全然、そんなことない。でも、いいのかな、って思う」

「悪いことじゃあ、ないんじゃない? だってわたしは、あなたに会えてすごく嬉しい。だから余計、知りたくなる。それっていけない?」


 初めて青年は、動揺したような表情を形作った。柔和な面差しに困惑と不安がさっと過ぎって、それらはすぐに疑問へと変わる。蒔乃にはそんなに難しいことを口にしたつもりはないが、彼にとっては難題だったのかもしれない。

 台詞の中に何気なく混じった「嬉しい」という一言に対し、何故、という感情が碧眼に宿っている。どうして蒔乃が何もかも張りぼてで出来たこの世界で、彼に出会ったことが歓喜に結びつくのか、彼自身にはちっとも理解できていないようだった。


「ここが夢でもさ、ううん、もし夢でなくても。わたしは、あなたに会えて嬉しいって思う。そして何度だって、きっと同じことを言う。そんな気がするの」

「……なんで?」

「わかんない? わたしにだって、よくわかんないよ。だけど嬉しいって感じるの。ねえ、また会える? また、逢いに来てもいい? 嫌?」

「嫌じゃない……でも、ほんとにいいの」

「良いから言うんでしょ。変なの。あ、ねえ! さっきから誤魔化そうとしてるでしょ。これで三回目だよ、いい加減、あなたの名前を聞かせてよ!」


 碧い瞳がやわらかく蕩けて、青年はいたずらっぽく笑った。泣きたくなるほど優しい笑顔だ、と蒔乃はまたわけもなく涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪える。


「……秘密。いつか、きっと教えてあげる。さ、そろそろ起きな。みんな、あっちできみを待ってるから」



 ──そこで蒔乃は、夢から覚めた。



 くしゃりと歪んだ視界にはいつもの自室がちゃんとあって、カーテンの隙間から暗い部屋に降る弱々しい曙光が、ここは夢ではなく現実だということを突きつけてくる。のろのろとした手つきで開くと、ガラスを透かして見慣れた景色が夜明けの色に染め抜かれているのがみえた。

 鮮やかな東雲の光が、家々も空も全てを呑み込んでいる。どうしようもなく綺麗な、今までもこれからも何万何億という日々繰り返され続ける、一日のはじまり。

 ああ、と蒔乃は思い返す。あの世界の夜空はまるで絵のようだった。けれど昼の空は、ちゃんと空をしていた。雲があって、それは風に流されて刻一刻と変わっていく。薄ぼけた色は大気中の塵によるもので、中天は濃く地平線へと近づくごとに淡くなる。

 限りなくリアルに近いあの空だけが、どうしてこれほどまで現実と似ていたのか。彼は必死に、夢から抜けた先の世界を──朝を想像し、創造したのではないか。知らなくても。知らないからこそ。


「どうして……どうして、夢でしか会えないの」


 ──あなたはこんなにも、夢の外へと行きたがっているはずなのに。

 我知らずぽつりと溢れた言葉は寂しさと悲しみに満ちていて、蒔乃はたった一晩の遭遇によって脳へと焼きついた感情の名を知る。ああ、まさしく自分は今、どうしようもない恋をしたのだと。

 もし仮にこれが恋ではないとしたら、もう自分は一生誰のことも好きになれないんだと、それほどの想いであると。だからこそこの世界が途方もなく美しいまま、眼球に映り込んでいる。

 現実は決して色褪せない。なぜなら正しさも間違いも死も苦しみも全てを内包した、この世界こそが彼が求めてやまない「本物」であると、もう気づいているから。

 静穏などない、たくさんの誰かの声、匂い、その全て。生み出さなくても勝手に満ちて溢れていくものばかりでこの世は成り立っている。いちいち「借り」なければ存在しない、あの夢とは何もかも違う。ここは確かに帰る場所で、だから蒔乃は息をしている。

 ここで生きていくしかない、向こうで生きることはできない。理解っている。わかっていて、それでも、と手を伸ばさずにいられないこの衝動に、ゆえに蒔乃は「恋」と名前をつける。


 理不尽に妹が傷つけられ、そして恋をしたあの日。美藤蒔乃という人間は、きっと二度目の産声を上げたのだ。

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