ドリームランドでキミに、恋して
飴村玉井
序曲:明日には見ない夢
今よりうんと小さい頃の話だ。わたしはまだ世の中のことも大好きな父さんと母さんが抱えた「秘密」についても何も知らない、浅はかで甘ったれた子供だった。だから安易に「きょうだいが欲しい」とわがままを口にしてしまった。
きっかけはたぶん、すごく些細なことだったように思う。同じ保育園に通っていた友達のお迎えに来た、よその「お兄ちゃん」がかっこよかったとか、きっとその程度。女の子なら一度は夢にみると思う。優しくてかっこいいお兄ちゃんが自分にいたらな、なんて。
あくまで半ば冗談のつもりで、どうせ叶いっこないんだろうなと諦め混じりに、うっかりわたしは言ってしまったのだ。なんでうちにはきょうだいがいないの、わたしにもきょうだいが欲しい──だなんて、あまりに残酷なことを。
母さんと父さんは自分達の秘密を墓場まで持っていくつもりだったからか、子供の無邪気な問いかけとお願い事に対しても僅かに苦笑するのみで、目を見開いて愕然とするとか小刻みに震えながら口元に手をやるなどといった分かりやすい反応は示さなかった。そして互いに顔を見合わせ、お兄ちゃんやお姉ちゃんはプレゼントしてやれないけれども弟か妹なら蒔乃に贈ってあげられるよ、と微笑んだ。
あのときそこで、どうしてもお兄ちゃんがいいからやっぱり要らない、とでも返しておけばよかった。だってわたしは自分に優しくしてくれるかっこよくて素敵なお兄ちゃんって存在に憧れていたんだから、どうせならいっそもっとわがままに振る舞えばよかったのだ。
けれど──わたしは、言ってしまった。「弟でも妹でもどっちでもいい、きょうだいがほしい」と。まるで散歩中の犬を指してあれが欲しいとねだるように、産まれてくる命の重さなんて何一つ考えずに。
母さんはあくまで穏やかに笑ったまま、ちゃんとお姉ちゃんとして弟か妹にも優しくしてあげるんだよと言って、父さんは喧嘩なんてたくさんしてもいいから大人になっても仲良くするんだぞとわたしの頭を撫でながら告げる。
どうってことない、ありふれたリアクションだった。理想的な夫妻が愛する娘のささやかな要望に対し応える上で、ごく当たり前の。その言葉を口にするのに一体どれほどの衝撃と、苦しみがあったのだろう。今でもわたしには分からない。
だってわたしは普通だから。産もうと思えばいつだって子供なんて作れる。そういう「ちゃんとした」身体だったから。
そして。それから一年も経たないうちに、我が家には新しい家族がやってきた。とびきりかわいくて、わたしが望んだ通りの。大切な、妹。
◆◆◆
「──悪いけど、今は付き合うつもりないんだ。誰とも。ごめんね」
「そっか……こっちこそ、急に放課後に呼び出したりしてごめんな。よければ普通にクラスメイトとしてこれからも仲良くしてくれる?」
「……まあ、それなら別に……ところで、きみの名前っぽいて、なんだっけ」
「え、去年からクラス持ち上がりなのにオレの名前って未だに覚えられてなかったの?」
ぽかんと口を開けた間抜け面を晒した男子生徒を無視して、これで用向きは終わったとばかりに少女は無表情のまま踵を帰す。端正という言葉を絵に描いたような整った面差しは、まだ十七歳という実年齢に対して不釣り合いなほど感情というものが浮かんでいない。緩く波打つ長い金髪に着崩した
美藤蒔乃というのが少女の名前である。字面や響きはどこかレトロではあるが、本人はそれなりに気に入っていた。なんだか古くさい、おばあちゃんみたいだと口さがない人間にからかわれることもあったが、親が一生懸命に考えてつけてくれたこの名は自分という存在を最も端的に言い表している、とさえ思う。
蒔乃は自身の外見が人並み以上に優れていることに、ある程度自覚的だった。千年に一人級の美少女だとまで傲るつもりはないものの、いわゆる美形美人のくくりには入るのだろうという認識自体はある。容姿の善し悪しがそのまま人間性への評価になるとは思わないが、ルックスの良さに多少助けられた経験があることまでは否定しなかった。
とはいえ弊害もあり、こうして蒔乃視点ではよく「知らない」相手から一方通行の好意を持たれることも実のところ一度や二度ではない。それをそのまま口に出すと自慢と受け取られかねない、という最低限の社会性を持ち合わせてはいたので、はっきり迷惑していると本音を露わにしたことはないが。
だが、見た目の良さがそんなにも重要だろうか。いくらどんなに美しいとされる姿、かたちを持っていたとしてもその内側にある心──魂の輝きがなければ、なんの意味もないのではないかと蒔乃は思う。大脳に座す精神がくすみ綻んでいるのなら、美幌などさしたる価値を持たない。
そう強く思うのは、外見の美に囚われて苦しむ家族を近くで見てきたからでもあり、そして今の彼女が決して叶う見込みのない「恋」をしているからでもあった。
現実では絶対に、会うことのできない。彼女が夜に視る夢の中でしかめぐり逢えない、そんな人間に。美藤蒔乃はずっと想いを募らせている。おそらくは、この肉の器に自我なるものが芽生えた、その瞬間からずっと。
きっかけは、美藤家に新しい家族がやって来てから数年後のことだった。どういう理由があってかは覚えていないものの──父方か母方か一体どちらの係累だったのかももはや忘れてしまったが、ともかく親類縁者一同が揃わなければならないイベントが起きたことは確かだ。
めいめいに話すたくさんの親戚達の中で、何をするでもなくその場でぼんやり大人達の様子を眺めていた蒔乃らに、そいつは「蒔乃ちゃんはお花に喩えたらまるで薔薇か百合のようだけど、華澄ちゃんは名前の通りかすみ草みたいねえ」と、小馬鹿にしたように吐き捨てた。
言われた側である蒔乃がどういうつもりでそんなことを言ったのか問いただす前に、もう一人の子供はまるで火がついたように大声で泣き出した。幼いがゆえに言葉の意味はわからなくても、聡明な彼女は本能的に台詞の裏に潜んだ悪意を察知したのだろう。
慌てて駆けつけた両親がともかく落ち着かせようと宥めすかしても無視して、わんわんと泣き叫ぶ様子はただ痛ましかった。そしてそれはずっと無意識の傷となって残り続けたのだろう。癒えることのない、開いたままの状態で。
そして大事な妹はルッキズムに狂い、齢十二の若さで整形がどうの化粧がどうのとそればかり気にしている。胸の大きさまで気に病みはじめたときには、あまりに馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいそうになったほどだが、これ以上何か彼女の精神を逆撫でするようなことを言って悪化させるわけにもいかないので、ともかく思春期が終わって落ち着くまで静観するしかないのが現状である。
それに、彼女にとって理想の姿というのはもろに蒔乃そのひとだ。姉である自分が下手に口を挟めば、華澄は更に壊れてしまうかもしれない。嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるように、妹がルッキズムから脱却するのを待つしかなかった。
──「彼」が夢の中に現れたのは、まさにその無神経な親戚の言葉に妹が傷つけられた日のことだった。
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