夏の終わりのママ騒動

第1話

「ねえ、この場合、どっちがママなんだろうか」

 顕微鏡を操作しながら、親友のチアキが唐突に尋ねてきた。私たちが覗き込んでいたのは、単細胞生物のミカヅキモ。小さな生物は、私たちの視界のなかで自由気ままに漂っている。

「こいつら、相手がいなくても無性生殖で二つに分裂しながらふえていくんだろ? それなら、どっちが親、つまり母になるんだろうなぁ」

 チアキはいつも変なことに興味を持つ。少し変わっているけど、そこが彼の面白いところでもある。

「そんなの知らない。どっちでもいいでしょ。二匹とも、母親を押し付けあってるかもしれないし、逆に母親になりたがってるかもしれないし」

 適当に答えてやったのに、チアキはいつの間にか真剣な目で私を見ていた。そんな真剣な視線を向けられると、こっちが困る。適当に答えただけなのに。

「マユミも、ママになりたがってる?」

「はぁ? 何の話よ、それ。今の話は無性生殖の話でしょ。私に当てはめないでよ」

「それもそうだね。ごめん」

チアキは俯いて、ぼそりと謝った。謝るくらいなら、変な質問をしないでほしい。

 急にママとか母とか言い出すから、心臓に悪い。セクハラで訴えてもいいくらいだ。この男はいったい何を聞きたかったんだろう。


 実験を終えて研究室を出ると、もう10月だというのに、まだ夏を思い出させる生ぬるい風が吹いていた。

「うーん、まだ暑いねえ。そうだ、学食行ってパフェでも食べない?」

「いいけど」

 チアキは、私が何か提案すればいつも付き合ってくれる、いいやつだ。私はこの関係を壊したくなくて、ずっと親友のままでいる。

 私の隣を歩いていたチアキが、ふと立ち止まった。どうしたのかと思い、振り返る。チアキは、意を決したように私へ声をかけてきた。

「ねぇ、田崎さんと付き合ってるって、ホント?」

 どこからそんな話が?

「……付き合ってるとしたら、どうなのよ。チアキには関係ないでしょ」

 実際には、付き合ってなんかいない。

 田崎さん、つまり田崎助教授は、ただ同じ研究室の憧れの先輩というだけだ。研究に真面目だし、いつも後輩にも優しい田崎さんのことを、私はただ尊敬している。

 彼との関係を尋ねられるのは、今日が初めてのことではなかった。田崎さんの研究を手伝っているから、仲は良い方だとは思うけれど、決して私たちはそんな関係じゃない。男と女がいたら、そこに何かが生まれると考えている人たちって、全員どうかしてる。まさかチアキがそういう考えの人間だとは思っていなかったから、少し意外だ。

 田崎さんは、奥さんと別れていて、一人娘がいる。その娘さんを溺愛しているから、恋愛どころじゃないだろうに、と私は一人でぼんやりそんなことを考える。

 どのくらいの時間が経っていたのだろうか。そんな私を見ながら、チアキは、はぁとため息をついた。

「あるよ、ある、大いにある。だって俺、マユミのこと好きだからさ」

「は?」

 そんなの、聞いてない。

「田崎さんって、娘さんいるだろ。マユミは、その娘さんのママになる覚悟ってあるの?」

 この男は、何を言っているんだろう。頭がくらくらする。私が好きなのは、ずっと好きなのは……。

「ねぇ、そんな急にママにならないでほしい。俺のことを見て」

 馬鹿みたいな勘違いをしている目の前の男を、ビンタしてやろうか。

「馬鹿じゃないの?」

 チアキの頬に、私はビンタをする代わりに口付けをした。チアキはまた目をぱちくりさせている。

「変な勘違いした罰に、パフェ奢ってもらうから!」

 私は走り出す。待ってよ、とチアキが追いかけてくる声が聞こえるけれど、待つつもりはない。私がどんな顔をしているか、想像がつくから。

 さっきの口付けが、私たちの新しい関係の始まりを告げているのは、はっきりと分かっていた。きっともうすぐ、新しい秋の風が吹いてくる。

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夏の終わりのママ騒動 @minato_ondo

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