溢れる闇
もうすぐ明美が指定した時間だ。
もう一度メッセージを確認して、通話をしてみる。何度か呼び出し音を聞いていたが、明美は通話に出るつもりはないようだった。
「学校に着いたよ。」
とメッセージを送信すると、しばらくして返信がある。
「ごめんね、用意に手間取っちゃって。」
「裏口開いてるから上がってきて。」
文面は特におかしくない。でもメッセージそのものから、どこか陰鬱な印象を受けた。
肩の周りに、ひんやりとしたものを感じて、由紀子は少し震えた。
読子たちに連絡したい。でも、学校の敷地に入ったら、もう監視されているかもしれないと石上は言っていた。うかつに二人に連絡すると、彼らの存在を相手に知られてしまう。警戒されて明美が逃げてしまったら、折角のお膳立てが台無しになってしまう。
ため息をひとつ吐くと、由紀子はスマホをしまった。裏口のドアノブに手をかけようとして、手が震えているのに気が付いた。
「怖い」って……こういうことなんだ。
由紀子は、生まれて初めて感じる、胸の奥の怯えに瞠目した。
自分ではどうにもならないモノへ立ち向かわなきゃいけないことが、こんなにも怖いものだったなんて。
どんなホラー映画も、絶叫マシンも……初めての告白でさえも、こんなに怖いものではなかった。
ふと、少し前の思い出がよみがえる。
遊園地の中を由紀子と明美が駆け回っている。はしゃぐ明美に手を引かれて転びそうになる由紀子を明美が受け止める。後ろから追いついて来たほかの友達も交じって、皆で笑い転げる。
その映像がピタリと止まり、一枚の写真のように脳裏に焼き付く。
やがてその映像が、黒い炎にあぶられてチリチリと燃え上がる。楽しげな友達も、由紀子も、明美も、思い出のすべてが、黒い炎に焼き尽くされてしまう。
由紀子はハッとして、物思いから覚めた。
ドアノブに手を伸ばしたまま、動けなくなっていたらしい。
伸ばした手に視線を戻す。手は、もう震えていなかった。
由紀子はその手をしばらく見つめると、ドアノブをぐっとつかんで扉を開けた。
そう。どんな未知に立ち向かうことよりも、身近な誰かを失ってしまうことの方が、よほど恐ろしいことではないだろうか。
それに比べれば、真っ暗な校舎を歩き、異界の使者が待つ屋上へ向かうことなど、ただのフィクションでしかない。
由紀子は、内心の怯えを勇気で蓋をすると、決然とした足取りでいつもの学び舎の廊下を進んだ。
その姿を、少し離れた場所から見ている影があった。
長い髪を揺らしながら、幽鬼のように暗がりを進む。力を使って、学校の瘴気の中に身を潜ませる。
彼女もまた怯えていた。
でも、それは由紀子の抱えていた怯えとは少し違う。
これから、彼女は自分の力を、友達と呼んでくれた人の前で使わなくてはならない。
かつて、級友の前で力を使ったあと、友人たちの視線は変わってしまった。
それまで彼女を囲んでいた友人たちが彼女に向けた視線は、祓ったはずの化け物に向けていたそれと同じものだった。
……それでもかまわない。
ほんの一瞬……つい先ほどの、由紀子とのほんの一瞬の心の交流が、読子にとってかけがえのない「救い」であった。
だから、全力で友達の宝物を取り返す。
読子はいつになく厳しい表情を浮かべながら、校舎の闇に溶け込んだ。
…………………………
石上は学校の周囲を歩いて、そこかしこに
瘴気の漏れを防ぎ、余人が近づかなくなる
これにはもう一つ役目がある。万が一霊的な存在が抜け出そうとしても、普通であれば障壁になってくれるはずだ。
もっとも、「忌み物」相手に効果があるのかはわからない。だが少なくとも、周辺住民への被害や、警察や見物人などの横やりを避けられるはずだ。
遠目に校舎を眺める。ぱっと見た感じだと、どこにも明かりはついていない。「忌み物」は学校側の防犯システムとかどうしてるんだろうな……などと現実的な事を考えながら、次の位置まで移動する。
自分は、大して読子の力になれない。今回の作戦も、「忌み物」は石上の幻術を感知できなかったのではなく、単に見逃されている可能性がある。
あの意地の悪い悪意の塊は、人間が必死に抗おうとする姿を、まるで演劇でも眺めるように楽しそうに傍観しているのかもしれない。
それならそれで、僕は必死に自分の役目を演じるだけだ。
石上は、そう心に決めている。
推測しかできない相手の思惑に怖気づいているくらいだったら、自分のなせる最大限をなすべきだと思っていた。
それに、読子に伝えた通り、最悪の場合、自分の命を懸けてでも、一人でも多くの生徒を守らねばならない。
最悪の結末……それは、樋口明美と読子が闇に没し、「忌み物」にとり殺されつつある被害者全員の救済が、絶望的になることだ。
その場合、せめて筒井由紀子だけでもこの深淵の輪廻から救わねばならなかった。
そのためにも、やれることはすべてやる。
――この事件を無事解決できたら、次に向けてきちんと「忌み物」対策班を作りたいな。
石上が、そんな考えをふと思いついたのは、彼が会社を運営しているからかもしれない。
こんな急添えチームではなく、きちんと「忌み物」関連の情報を集約して、連携の取れるチーム編成。
もちろん読子は欠かせないし、先生も入ってもらおう。
露骨に渋い顔をする先生を思い浮かべて、石上はクスリと笑った。
――しかたないだろう?僕が心から信頼できるお医者さんは、君だけなんだから。
そう言いながら必死に説得している自分の姿が容易に想像できる。彼女も、今ごろ必死で患者の対応に当たっているはずだ。
――落ち着いたら彼女の要望通り、高級店で奢らないとな。銀座とか言ってたっけ?
そう思いながら優しい笑顔を浮かべると、石上は淡々と作業を続けた。
…………………………
由紀子はスマホの灯りを頼りに、屋上に続く昏い階段を一段ずつ昇る。ここを登り切れば明美が……少なくとも、明美の姿をした何かが待っているはずだった。
鼓動が耳まで聞こえる。空気が薄くなったように、息が苦しい。これから私が触れるものが何なのか、今のところ、由紀子は答えを持っていなかった。
読子達はついてきているだろうか。
何かあって来られなくなったりしてないだろうか?
果たして、自分一人で明美に会うことは、賢明な判断なのだろうか?
一度固めた決心が揺らぎ、足の力が抜ける。それでも、進まなければ、望む未来には辿り着けない。
ガクガクと震える足を無理やり押さえ込み階段を上り切る。
そして、ドアノブに手をかけようとした瞬間、屋上のドアが開け放たれた。
「……ユッコ、待ってたよ!さあ、早く始めよ!」
勢いよく開けられたドアに驚きながら、月明かりに照らされた友達の顔に目を丸くする。
暗い夜だというのに、月が照らし出すその表情は明るく、屈託のないものだだった。
いつもと変わらない……心からの笑顔。
由紀子は呆然としながら、思わず涙ぐむ。
何だ……全て杞憂だったのか……。何も変わらない……いつもの明美が、そこにいるじゃない……。
緊張が一瞬で崩れ去り、明美の手が引くに任せて、由紀子は屋上に滑り出る。
すでにカメラや照明機材がセットしてある。大して広くない屋上が、ちょっとした撮影現場の様になっていた。
「すごいでしょ。運ぶの大変だったんだから。久しぶりのユッコとの撮影だから、気合い入れちゃった。」
そう言いながら、明美は早々にカメラのセッティングに向かう。その背中を見ながら、由紀子は戸惑いを隠せない。
ここ数週間の不安の影が、今の明美にはほとんどなかった。それはそれで嬉しい事なのだが、あまりの変わり様に、由紀子の頭がついてこない。
こちらに背中を向けて作業をしているので表情が見えないが、制服姿の明美は、記憶の中の彼女よりも、少し痩せ細って見えた。
「……アッキー?……あの、体は大丈夫なの?ひどい風邪だったって、明美のお母さんから聞いてたけど……。」
おずおずと問いかける由紀子に「ん〜?」と笑いを含んだため息をつきながら、振り向きもせず明美は答える。
「心配してくれてありがと。もう!お母さん大袈裟なんだから。全然平気。ちょっと食欲落ちたけど、ピンピンしてたよ。むしろ丁度いいダイエットになったよ。」
と言って明美は笑った。
「そう……?なら……いいんだけど……。」
妙に明るい声の明美の声を聞きながら、由紀子はやはり何かおかしい事を認めざるを得なかった。
再会の驚きが去ると、由紀子は明美の姿に幾つかの違和感を見つけた。
いつもならセットしていくるはずの髪が櫛を通したままのおざなりな感じのままだったし、制服もどこかくたびれていて、着の身着のままと言った様子だった。
鼻歌まじりに機材を弄っているが、カメラ調整のために少し振り返った顔を覗き込むと、頬がやつれ、血色が悪い。多分、メイクもほとんどしていないだろう。
普段の明美らしくない様相に、重く黒い不安が胸の奥にのしかかる。由紀子は胸の上で手を組むと、祈る様な思いで明美に近づいた。
「ねえ……やっぱり、もう少し体調戻ってから、やったほうがいいんじゃない?アッキー、まだ顔色悪いよ。無理して風邪がぶり返したら大変だよ?」
前の様に、気分を害してしまったら、とりつく島も無くなってしまうかもしれない。明美の考えを探る様に、慎重に声をかける。
「大丈夫だって。ユッコは心配性だなあ。動画はナマモノなんだから、思い立ったら急いでやらないと。それに、ユッコがバズってる今こそ、頑張んなきゃ。
ユッコに負けたくないし。」
最後の一言が、奇妙なくらいトーンが下がったのを聞いて、由紀子の背中に、ゾクッと寒気が走った。
何だろう、今の感じ……まるで、急に明美に怒鳴られたみたいな、気圧される感じがした……。
やっぱり、ここは何かおかしい。
ただの学校の屋上のはずなのに、真夏の夜のはずなのに、どこからともなく、底冷えする様な空気がふわりふわりと、辺りを漂っている。
体は冷えていくのに、肌はじっとりと汗をかき、蒸し暑さに息が苦しい。
ともすれば、屋上の先の暗い夜空から視線を感じる。
もちろんそちらに視線を向けても、空っぽの夜空しかないのだが、少しずつ、だが確実に、この場にいる事自体が不安を生んでいた。
明美を連れてこの場を離れたほうがいいんじゃないか……?
由紀子はそう思い始めた。読子たちは、私たちが行くまで、明美に合わせて時間を稼いでと言っていたが、この場に留まるより、明美を彼らの元に連れていったほうがいいのではないか?
そう思いたくなるほど、この場所への忌避感がどんどんひどくなっていく。
どうしよう……という戸惑いに、嫌悪感が勝ち始め、明美にこの場を離れようと提案するために顔を上げる。
その刹那、明美の手が由紀子の手を絡めとる。
「……準備できたよ!さあ、一緒に踊ろう?」
「あっ……。」
拒否する事もできず、手を引かれ、明美に抱き止められる。いつの間にか曲が流れていて、それは明美がよく使うダンス曲だった。心なしか、いつもより艶かしく耳に響く。
戸惑いながら、明美のなすがままになる由紀子。
いつものポップダンスではなく、今日はまるでワルツの様にクルクルと円を描く。
明美のステップに合わせようとするが、慣れない動きにぎこちなく足がもつれる。結果的に音に合わせて振り回されている様な格好になって、由紀子の戸惑いが大きくなる。
やめてもらおうと思い、明美と視線を合わそうとして、ゾッとした。
明美の視線は、何も見ていなかった。
細く半月状に下げた目元の向こうで、怪しく眼光が光る。自分に酔いしれるかのように笑顔を浮かべながら、引き攣る様に口元をあげている。
思わず短い悲鳴を上げると、由紀子は明美の手を離した。由紀子が後ずさって身を抱きしめる合間に、明美は急に支えを失って躓く。
俯向き、地面を見ながら口元に笑みを浮かべている明美は、そこはかとない狂気を感じさせた。
「ねえ、帰ろうよ、明美。明美……まだ病気が治ってないんだよ。……知り合いが助けになってくれるって。だから、早く治して、またあそぼ?……ね?それにここ……なんか変だよ。」
由紀子は震える声で明美に訴える。知らずしらずのうちに涙声になっていた。
明美はしばらく声を出さなかった。後ろで流れているムーディーな曲が空々しい。
由紀子は少しずつ息苦しくなる空気に、読子、早く来て……と、心でつぶやく。
「あぁ……やっぱり、ユッコにはわかんないか。ホント、偽善者。」
明美がおもむろに呟いた言葉は、棘を含み苛立ちがこもっていた。
「そうやって、私からチャンスを奪うんでしょ?そんなに自分の優越感が大事?本当、嫌になる。」
「やめて明美……そんな言い方しないで……。私、そんな事、1ミリだって思ってないよ……。」
明美の言葉に滲み出る本気の怒りに、初めて由紀子は身の危険を感じた。
それまで、明美が自分を傷つけるなんて事、想像すらしていなかった。
でも、視線を逸らして目の前に立っている少女は、ともすれば、次の瞬間何をするかわからない危うさを纏っていた。
冷たい汗が背中を伝い、足が勝手に逃げ出そうとする。
「口じゃ何とでも言えるよね。あんな黒子みたいな化け物とつるんで、私を貶めるつもりでしょ?友達だと思ってたのに……はぁ、もういいや。」
読子たちの事がばれているとわかった瞬間、由紀子は本能的に逃げ出そうとした。
でも、それは叶わなかった。
後ずさり振り返ろうとした瞬間、背後から体が生温い泥の様な何かに沈み込むのを感じた。
おぞましさと生理的な嫌悪感が、慌ててソレから体を引き離そうとしたが、その刹那、泥は野太い蛇の様に形を変え、たちまちのうちに由紀子の体に巻きついた。
いやっ……と叫ぼうとした口元にもそれ巻きつき、声を奪う。ほんの数秒で、由紀子は闇色のそれに雁字搦めにされ、身動きが取れなくなる。冷や汗か全身から吹き出し、涙が目から溢れる。
――んんっ!んんんっ〜〜!
と意思を伝えようと踠くが、口はおろか、指の一本ですら自分の意思で動かす事はできなかった。
「その子はね、とっても優秀なの。誰かさんと違って、いつも私のそばにいてくれるし。」
そう言いながら、明美は踠く幸子に近づくと、そっと由紀子の顔を手で包み、少し悲しそうな顔をしながら由紀子の額にキスをした。
「……大丈夫。あなたが私を見捨てても、私たちはずっと友達だよ、ユッコ。ほら、みて。みんなこんなに楽しそう。」
そういいながら、明美は由紀子の横に回ると、動けない由紀子の肩に手を置いて、空を指差す。
由紀子が怯えながら、明美の指先が示す方向に目を向けると、空一面に、大小様々な画面が現れる。
由紀子は何が起きているかもわからず、それらに目を向ける。
画面の中には、由紀子たちと同年代の子が映し出されていた。中には同じ制服を着た生徒がいる。
その子達が画面の中で、まるでホラー映画のワンシーンの様な目に遭っている。
拘束されたり、逃げていたり、由紀子の様に闇に捉えられたり……様々な方法で恐怖と苦痛を味あわされている。
何コレ……?と思って目を見開いていると、一つの画面に気がついた。
その子は泣きじゃくっていて、最初は誰かわからなかった。でも目を凝らしているうちに、気がついた。
柊先輩だった。
由紀子はやっと理解できた。この画面に写っている生徒たちは、虚構の中の人間ではない。現実にいる人間たちが、画面の中で延々と繰り返される恐怖と苦痛に追い回されている動画だった。
――映画?ドラマ?なんで?どうして明美がこんな映像を私に見せるの?
混乱する由紀子の表情を、恍惚とした視線で眺めながら、明美は妖艶に笑う。
「ほら、ああやってみんな私を楽しませてくれるの。
最初はね、私より目立とうとしている子を、ちょっと脅かそうと思っただけだった。
一緒に動画を撮ろうって誘って、アイツに捕まえてもらって……。
でもね、私、ちょっとSなのかな……みんなの怖がる顔を見てるとゾクゾクしちゃってさ……。
そしたらアイツが、『もっと面白いことをやろう。』って提案してきたの。見ててね、面白いんだよ?」
そういって明美は柊先輩の動画に指をさす。今、柊先輩は闇の触手に搦めとられ、口を押えられて息苦しそうにもがいている。
何もない空中を明美が指を滑らすと、その画面の中で、リールで動画が入れ替わるように、場面が一転する。
柊先輩はどこかの薄暗い道路に立って戸惑いの表情を浮かべている。画面の奥の暗闇から、ピエロの仮面をかぶった何かが刃物を持って走ってくる。
柊先輩はそれに気が付くと、引きつった表情で駆け出す。逃げ回る先輩に向かって何度も刃物が振り下ろされ、先輩は必死の形相で抵抗しようとする。
もみ合っているうちに先輩が倒れる。助けてと懇願し、泣き叫ぶ先輩に向かって凶刃が振り下ろされた刹那、明美の指が再び宙を踊る。
画像が止まり、明美がシークバーをなぞるように指を動かすと、画面の中の二人の行動が逆戻しになり、先輩は再び暗い道路の真ん中に立たされている。
涙でぐしゃぐしゃになった先輩は、道の奥から走ってくる怪人の刃に、再び恐れおののく……。
「ね?面白いでしょ?」
と言いながら、明美の指先に合わせて、他の子たちの動画にも同じようなことをする。
凶行、グロテスク、水難、火災……まるでホラー映画の見本市のように、様々なシチュエーションで追いつめられる彼女らをみて、明美は心から可笑しそうに嗤う。
由紀子は吐き戻したかった。
違う……いま、横に立っているのは明美じゃない。
明美が、私の知っている明美が、こんなひどいことをするわけがない。
悔しくて涙があふれる。
「この程度で泣かないでよ。まあ、由紀子は怖がりだもんね。大丈夫!ほら、動画の中で死んじゃっても、こうやればいいんだから。」
自慢げに操作してみせる明美には、およそ人間性が感じられなかった。
由紀子は次第に、自分がどれだけ得体のしれないものの前にいるのか、理解し始めた。
これは……悪意だ。
人間に対して、怒りや、恨みや、嫌悪を持っているのではない。
単純に、人間を苦しめようとする悪意の塊が、明美を醜悪な異形に変貌させている。
明美は一通り楽しむと、由紀子の前に立った。
「さて、こんな感じ。次はユッコ。あんたの番ね。」
まるで、びっくり箱を差し出そうとしている園児のように、楽しそうな貌をして明美は由紀子に手を伸ばす。
由紀子は何をされそうになっているか察し、必死にもがく。どんなにもがいても体を覆う闇がはがせないのはわかっていたが、恐怖が身体を勝手に動かしていた。
「いいなぁ……いいよ、ユッコ。あなたの表情が、一番好き。……心配しないで。私はずっとユッコといるよ。もう、離れなくていいの。ずっと……ずっと一緒にいて?……由紀子は、一番大切な友達だから……。」
言っていることと、やっていることのギャップを、明美は理解していなかった。
ただひたすら、心の中から響く、ひどく陰鬱で、それでいて甘美な囁きに従い、親友に手を伸ばす。
明美にとってそれは、由紀子への愛情であり、愉悦への誘いのつもりだった。
でも、由紀子にとってそれは、深淵への片道切符であり、友人と自分の、破滅の第一楽章だった。由紀子はそれを理解し、ぶるぶると震えながら首だけで触られるのを拒否しようとする。
終わりが近づき、二人の影が夜闇に溶けてしまいそうになった……。
ガンッ!
突然、金属音が屋上に響く。
ハッとして、明美は音の方を見る。
続けて、ガンッ!ガンッ!と音がする。
屋上の扉を、誰かが開けようとしている。
由紀子もそれに気がつき、あっ……と思った瞬間、扉がガチャンッと開いて、髪の長い女子生徒が転びそうになりながら、扉から出てきた。
「……由紀子さん!」
息を切らしながら顔を上げた読子は、目の前の事態が、すでに深刻な状態まで来ていることをすぐに理解した。
視線を明美に向けると、ひと呼吸整え、意識を自分の脳の奥深くに向け、両手を広げ、半眼になる。
現れた生徒が読子だと気がついた瞬間、明美は煮えくりかえる様な怒りが込み上げてくるのを感じた。
それが誰の感情もわからないままに、読子と目があった瞬間、明美の顔に敵意むき出しの表情が浮かぶ。
「「黒子っ!邪魔すンなっ!」」
明美が叫んだ刹那、明美の背後から由紀子を捉えている闇と同じ様な触手が、ズルリと溢れ出る。
みるみるうちに大きくなったそれは、のたうちながらその手を伸ばすと、四方から読子に迫る。
由紀子は読子が同じ様に捕まってしまうと思い、
――明美っ!やめてっ!
と思わず声を上げたが、触手に声は遮られくぐもった呻きになる。
そして……読子の危機を、明美の凶行を、見ているしかできない自分に打ちひしがれた彼女の目に、信じられないものが写った。
読子の体から、闇が溢れ出した。
長い髪を巻き上げながら、吹き出す黒い煙の様に、闇が舞い上がる。
明らかにそれは、明美の纏うソレと、同質の何かであった。
由紀子も明美も驚き、大きく目を見開く。
だが彼女らが、それがどんな意味を持つのか、考える時間はなかった。
溢れ出た読子の闇は、明美の触手と絡みあい、混ざりあう様にしてお互いを飲み込む。
みるみる膨らんでいく闇は屋上全体を覆い、読子と明美、そして由紀子をも巻き込んで、昏い闇の繭の中へと取り囲んでしまった。
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