触れない壁
患者の母親が玄関まで見送りに来ると、疲れ切った顔で「先生、ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。」と頭を下げる。
やつれて、疲れ切ったその顔には生気がなかった。
「つらい時期ですが、出来ることは、全て手を尽くします。一緒に頑張りましょう。」
と先生が励ましの言葉をかけると、母親は涙ぐみながら何度も頷き、家の中に戻っていった。
しばらく先生は閉じられた玄関を見つめていたが、青年がそっと肩に触れると、軽くうなずいて家の門を出る。
診察道具を看護師に任せると、「先に帰ってて。ちょっと話をしながら帰るから遅くなるかも。」と申し合わせ、青年の車に乗った。
青年が恭しくドアを閉めて車を走らせ始める。
先生は助手席でおもむろに電子タバコを取り出すと、
「悪いわね、忙しいのに。」
と言いながら口に咥えた。
「いいんだよ。これは、僕にしかできない事だから。それに、会社は僕がいなくても皆が回してくれるしね。」
「さすが社長。ご立派。」
「それ、どっち?褒めてる?」
疲れている様子の先生を励まそうと、青年は明るく振舞った。自分の手ではどうしようもないものに立ち向かわなければならない気持ちは、少なからず知っていたから。
彼らは例の、不登校になった生徒たちの病状を緩和するために奔走していた。
青年の力は不浄の物を退けることができる。
被害者生徒の体にまとわりつく瘴気を遠ざけることで、一時的ではあるが患者は生命力を取り戻し、体力の消耗を抑えられる。
それに、何もしないよりは被害者の家族への悪影響の伝搬を遅くすることもできた。
でも、これらの処置は根本治療ではない。彼らの根幹、魂を束縛する病魔の根源が駆逐されない限り、じりじりと病状は進行していく。
確認がてら、その話をしていると、先生は腹立たしそうに煙草をふかした。
「わかってる。あくまで今やってるのは緩和治療、よね。
セントラルコントロールを取り除かないと駆逐できないなんて、安っぽいSFみたい。」
普段、患者の前では絶対に見せない感情的な姿に、改めて彼女も人間なんだな、と青年は思った。
「驚いた。君もそういうの、見るんだね。」
素直に青年は驚く。勉強のためならどんな本でも読み倒す彼女だが、SFを読んでいるとは初耳だった。
「心理学とパニック研究の一環よ。H・G・ウェルズだったかしら?忘れたわ。
ねぇ、例の子は大丈夫なの?私たちはディフェンス、例の子はオフェンス。全ては、その子にかかってるんでしょ?」
タバコを飲みながら青年を見つめる。彼に当たり散らかしても仕方がないのだが、先生が青年に厳しいのは、今に始まった事ではなかった。
「う〜ん……。」
先生の予想に反して、珍しく青年の歯切れが悪い。表情を曇らせ、どう伝えたものか、迷っているようだった。
「ダメそうなの……?」
先生の顔が険しくなる。
医学の敗北が決定している以上、そちらの方法が失敗すれば、被害者全員が憂き目に遭うのを、医者として指を咥えて見ていることしかできない……そのことを先生はきちんと理解していた。
「……賢そうな子だよ。歳の割に思慮深くて、自分の限界をよくわかってる。でも……経験が、圧倒的に足りない。偶発的な事故の中で一度、大きな除霊をしているけど、あの子自身が自分の意思で霊障を祓ったことはないんだ。だから正直、危うい。」
「……そんな子で大丈夫なの?やっぱり君が……。」
青年は首を振る。
「言ったろ。僕の力じゃ、触ることすら出来ないんだ。
さっきの面談中も、ずっと僕はあの病魔の根幹に触れようとしていたし、何なら除霊までやろうとしていた。
でも、僕が触ろうとしても、そこには何もないんだ。
どう言ったらいいんだろうな。」
青年は少し考え込む様な顔をしながらゆっくり例え話をする。
「例えば、君の目の前に真っ黒な壁がそりたってる。君は『何だ、この壁』と思って手を伸ばすんだけど、実際にはそこに壁なんかなくて、手が暗い闇の中に、何の感覚もなくすっぽりと沈み込んでしまう。
明らかにそこにいるのに、全く触れられない。実に気持ちの悪い感覚だよ。
しかも、この闇は意志を持っている。診察中、寒気が止まらなかったろ?
壁の向こうから、染み出るように、絶えず君らに瘴気がにじり寄ってきていた。明らかにかかわる人間のすべてを狙ってる。瘴気そのものは僕の力である程度まで中和できるけど、多分あれが本気を出せば、僕じゃ止められない。」
患者に向かい合った時のおぞましい感覚に、オカルト百戦錬磨の彼でも、背筋に寒気を感じた。
「触れれなくても、あなたの目には明確にそれが見えているのね?」
視覚化もできないし、感覚的なものを信じてもらうのは難しい。でも、長年の二人の間の信頼が、きちんと先生に青年の苦悩を伝えていた。
「……何でそんな存在がこの世にいるのかしらね。
データ取って、ちゃんと論文化してやりたいわ。世界中に正体を晒してやれるのに。」
「君のそのユーモアセンス、昔から好きだよ。」
科学者らしいオカルトへの愚痴に、青年は思わず頬を緩めた。
先生は少しむっとした表情を浮かべると、目を細めて青年を睨みつける。
「冗談言ってる場合じゃないでしょ。やっぱり子供に任せておける状況じゃない。
繋ぎをしてくれている、お爺さんのご友人に対応してもらった方がいいんじゃない?」
「ああ……言ってなかったっけか。
爺さんの友人は、能力を持たない。
今、この世界であの力を使えるのは唯一……あの子だけなんだよ。」
先生は絶句する。
ちらりと横目で先生の様子を見ながら、青年には手に取るように、彼女の考えていることがわかった。
大方、『放っておけば死ぬかもしれない患者の治療を、税金すら納めていない子供に任せなければならないなんて!』とでも、思っているのだろう。
正直、青年だって同じ言葉を叫びたいのだ。
彼は知っている。霊障で亡くなる方の惨たらしさを。
彼は知っている。精神を蝕ばまれた者が起こす悲劇を。
でも同時に、人間には限界がある事も、とうの昔に知っていた。
「何とかならないの……?」
先生は、窓の外を流れていく景色を見ながら、独り言ちた。
街はすっかり暗くなり、ネオンが夜の繁華街を彩る。行き交う人たちは一喜一憂の表情を浮かべて人生を謳歌している。
でも、ほんの一歩、闇のヴェールをくぐってしまった患者達は、明日をも知れぬ運命に翻弄されている。
そんな世界の存在を知ってしまっているからこそ、彼女はやりきれない思いをどこに向けるべきか、悩んでいた。
青年はそんな様子の先生を気遣いながら、優しく、でもはっきりと声をかける。
「……さっき君が言っていた通りだよ。」
先生が顔を上げて、青年を見る。どこか達観したような無表情だったが、微かに彼の言葉に期待をしているようでもあった。
「『出来ることは、全て手を尽くします。一緒に頑張りましょう。』……だろ?」
たとえ、どれだけ足掻いても届かないかもしれない。
でも、足掻くのをやめてしまったら、取り戻すチャンスさえ放棄してしまう事になる。
だから、出来ることは全てやる。
二人が長年共有し続けているポリシーだった。
「……相変わらず、キザで鼻持ちならないわね、君は。
そういう所、昔から嫌い。」
先生は鼻を鳴らすと、やたらプカプカとタバコをふかした。
「そんな言い方しなくてもいいだろ!」
青年は苦笑いを浮かべながらも、先生が少し自分を取り戻したことをホッとした。
でも、状況が切迫してるのは間違いない。
彼はハンドルを握る手に少しだけ力を込めると、夜の闇に向かって、どうか良い方向に向かいますようにと、密かに祈った。
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