茂みの向こう
明美が黒子に声をかけてから1週間ほど経った。
その日は休日で、明美は友人たちと海の見える観光スポットに来ていた。
某サイトで、この海辺でパンを投げると大量のカモメが突っ込んでくると聞いて、面白いネタになりそうだと勇んで出張ってきた。
でも、他の人たちもパンを投げまくってるせいでお腹がいっぱいなのか、前評判ほどカモメは寄ってこなかった。
仕方がないので、桟橋から落っこちそうなほど身を乗り出したり、食パンをフリスビーがわりにしてどこまで飛ぶかなど、何かしらインパクトのある動画を撮ろうとしたものの、撮れ高はあまり確保できなかった。
時間をかけた割に、伸びそうな動画が撮れず、むしろ付き合ってくれた友人達に奢ったスイーツの代金の方が高くつきそうだった。
明美は少しモヤモヤしたものを抱えながら、友人達が楽しそうにデコレーションパンケーキを撮っている姿を眺める。
自分の悩みを知らずにはしゃぐ友人達を見ていると、沸々と、微かだが心の奥底に苛立ちが湧いてくる。
……いっそ、ユッコあたりを海に突き落としたら、面白かったかな。
などと考えている自分がいて、明美は自分に嫌悪感を感じて、そっと友人の顔色を盗み見る。友人達は自分のスマホを覗き合いながら、写真をアップするのに夢中で、明美が顔をしかめているのに気づいている様子はなかった。
最近、不意に突飛と言うか、やり過ぎな考えが浮かんでくることがあって、戸惑う事が増えた。
迷惑系配信などもってのほかだ……ちょっと前までなら眉を
でも最近、彼らの気持ちが少しわかるようになってきてしまった。
真剣に、真面目に、節度を持って作った動画が、箸にも棒にもかからない焦燥感。
それなら、いっそ過激に炎上した方が手っ取り早い……。
動画の伸びが悪いと、誰しもそんな考えに取り憑かれやすくなるんだなぁ、と身をもって知った。
もちろん今のところ、友人や家族の迷惑になるような事をするつもりはないが、ここ数日でアップした動画の閲覧数を見ていると、そう言った配慮が馬鹿馬鹿しく感じてしまう自分がいた。
スマホが震える。
見るとバイト時間に合わせてセットしていたタイマーが鳴っていた。
ああ……今日は収穫なしかぁ、と心でため息をつき、
「ごめん、タイムアップ。付き合ってくれてありがとね。」
と言うと、皆に手を振ってその場を離れた。
遠出したり、機材を買ったりするには、お小遣いじゃ足りない。バイトは面倒だったが、辞めるわけにはいかなかった。
地下鉄に乗って自宅の最寄駅に向かう。
バイト先には一旦帰宅して自転車で行かなくてはならないのたが、立地のせいか、時給が割高で仕事内容が簡単だから、この程度は我慢と思いつつ、その日も自転車を走らせた。
夕暮れの線路沿いを走り、大きな公園を脇を抜けて国道沿いの店舗に向けて走るのがいつものルートだった。
でもその日、公園わきの道路を行こうとすると、何か事故でもあったのか通行止めの表示が出ていて、道路が閉鎖されていた。
車だけでなく、人間も迂回して、という表示が出ており、あちゃあ、バイトに間に合うかな、と不安になる。
その時ふと、公園の方に目を向けた。
時間帯によっては結構子供が遊んでいたりするし、一応公園内は自転車での走行禁止となっているので、普段は公園を通り抜けない。
でも、今日は公園内を歩いている人が少なそうだし、もしかしたら迂回路を通るよりも早くバイト先につけるのではないか?
そう思った明美は思い切って公園の中に自転車を乗り入れた。
ランニングコースに沿って自転車を走らせる。
空はだいぶ夕闇が濃くなり始めて、そこかしこの街灯がぼんやりとした光を灯し始めていた。人通りはほとんどない。休日だから、皆家で家族団らんでもしてるのだろうか。
夕闇が濃くなるにつれて公園の雑木は黒いシルエットに塗りつぶされ、少しずつ視界が悪くなる。あまり暗くなると、むしろ変質者でも出てきそうで、背筋がゾクゾクとしてきた。
予想に反してランニングコースがあらぬ方向に向かっていたため、このまま道なりに走っているとバイト先と違う方向に出てしまいそうだ。
頭の中で大まかな地図を想像し、道から外れて芝生を進めば国道に出られるかな、と思って自転車を降りる。芝生に多少タイヤをとられながらも自転車を押して進む。
公園内の木々がアーチのように手を伸ばし、頭上を覆う。きっと明るい時間であれば、それはさわやかな木漏れ日を伴ってきれいなのだろう。
でも、この時間の木々はどこか陰鬱で、空気も少し肌寒さを感じた。
自然と明美の足も速くなる。でも、薄暗い林の中にいると距離感や時間感覚が妙に曖昧になり、明美の鼓動が少し早くなる。
はやく通り過ぎよう……そう思って、小走りになろうとした瞬間、明美の視界の端に、何かが光った気がした。
思わずそちらに視線をむける。
木々の輪郭が曖昧になりつつある黄昏の中で、灌木の向こうで小さな光がぼんやりと浮かんでいた。
スマホのバックライトの光だった。
つまり、灌木に囲まれた木々の向こうに誰かが立って、スマホを見ている。
明美は背中にうすら寒さを感じて思わず足を止めた。「誰?」と「何で?」という疑問が頭をよぎる。
自分のように通り過ぎる目的をもっているならいざ知らず、こんな街灯もろくにない場所に立ってスマホを眺めている人物がいるとしたら、それはちょっとおかしい人かもしれない。
これは気が付かれる前にさっさと通り過ぎた方がいいかな……と明美が思い始めた瞬間、暗闇に立つ人物のシルエットに、そこはかとない既視感を覚えて、えっ……?と思わず固まった。
自転車のスタンドを立ててそこに止めると、身を隠しながらそっと灌木に近づく。
息をひそめながら、暗闇の中に目を凝らすと、徐々にその人物の輪郭が明美の中で形を作り始める。
女性だ。背が高い。いまいち背格好がはっきりしないのは、長く豊かな黒髪が体を覆っているせいだ。まるでヴェールのようなその黒髪が、全身を黒い衣装のように覆っている。
黒子だった。
明美は混乱しながらその姿を凝視した。正直、黒子がどこに住んでいるのか知らないし、別に仲がいいわけでもないので、普段何を過ごしているかなんて知らない。
でも少なくとも、こんな場所、こんなタイミングで鉢合わせするなんて寝耳に水だった。
そもそも、彼女は何をしているのだろうか?
女の子が、こんな人目のつかない暗がりにいたら危ないことくらいわかりそうなものだし、そもそも何をしているのか見当もつかない。
黒子自身はスマホの画面を見ながらこちらに背中を向けているため、表情は見えない。かすかに傾いた横顔にスマホの光があたり、うっすらと輪郭を浮かび上がらせている。
明美はなぜか、その姿に不気味さを感じた。いっそ、思い切って声をかけてしまえばよかったのかもしれない。でも、この時の明美は、そうすることができなかった。
何か、得体の知れない、触れてはいけないような気配が、黒子の背中から漂ってくる気がして、明美は息をひそめていた。
ふいに、黒子が何かをぼそりとつぶやいた気がした。
何と言ったのかはわからない。
だがその瞬間、黒子の持つスマホの周りに何かが漂いはじめた。
最初はスマホで動画でも流しているのかと思った。画面が不規則に光って陰影をなしているのだと。
だが、目を凝らしてみているうちに、そうではないことに気が付き、明美は思わず声を上げそうになった。
動いているのは、スマホの光ではなかった。
黒子の体から、黒い霧のようなものが、水に落としたインクのようにゆっくりと立ち上る。やがてそれは、吐き出された紫煙のようにその姿を燻らせながら、黒子の眼前に集まる。
まるで黒子から黒い触手が無数に生えてきているかのような光景を、明美は固唾をのんで見つめていた。
黒子の闇が増えるにつれて、明美の鼓動が大きくなる。自分がマズいものを見ているのは、本能的に理解できた。
あれは、よくない。
人間の、日常の、常識の根幹を揺るがす何かが、目の前で繰り広げられていることだけが、直感的に理解できた。
明美がそうしたのは、少しでも、これが現実だと証明したかったのかもしれない。
おもむろにポケットから自分のスマホを取り出すと、カメラを起動して、録画ボタンを押した。
明かりが足りなくて、輪郭ははっきりしない画面だったが、間違いなくスマホは黒子の姿を記録し始めた。
明美が、少しだけ自分を取り戻し、しっかりとカメラを構えた瞬間、黒子の持つスマホのライトが消えたように見えた。
あたりが一瞬闇に包まれる。
だが次の瞬間、黒子の持ったスマホの方からも、得体の知れない黒い何かがあふれ出してきた。
明美は思わず声が出そうになって、慌てて口元を抑える。
だめだ……これ以上、あれは見ない方がいい……あれは、関わっちゃいけないものだ。
明美の背中が泡立ち、冷たい汗が伝う。
目をそらそうとするが、緊張のあまり、体が動くのを拒否する。
そうする間にも、黒子の闇と、スマホからあふれた闇が絡まりあって、黒子の体は闇のインクで編まれた籠の中に包み込まれる。
黒子はわずかに体をそらし、ぐらりと体を揺らしていた。髪が風に舞いあげられるように闇の籠の中で漂う。
明美はその光景をカメラ越しに見ながら、心の中で、
――すごい……とんでもないネタが撮れた……。
とつぶやいていた。
その感情のおかげか、明美の防衛本能が、一瞬恐怖に打ち勝った。
もう十分……と、明美は録画を停止する。
少しずつ後ずさると、思い切って視線をはずし駆け出した。
自転車のスタンドを蹴ると、一目散に国道がある方向に向かって駆け出す。
早く……早く離れなきゃ。
後ろを何度も振り返りながら、すっかり暗くなってしまった公園の木々の間を走り抜ける。
幸い、黒子がこちらを追ってくる気配はない。
でも、振り返ってみるたびに、暗闇に閉ざされたはずの木々の向こうで、黒子が闇をくゆらせている姿が見える。
怖い……怖い……早く、早く逃げなくちゃ……。
脂汗を浮かべながら、明美は闇の中を走り続けた……。
………………………………
――結局あれは、なんだったのだろう?
家に帰ってきた明美はベッドで仰向けになりながら、ぼうっと天井を見上げていた。
バイトは遅刻したし、変なものを見たせいか、妙な頭の重さがしばらく抜けず、ミスばかりで散々だった。
帰る時は、もう絶対に公園は見たくなかったので、迂回路を選択し、極力周りを見ないようにしながら真っ直ぐ家に帰ってきた。
夕飯もお風呂も終わって動画編集を頑張りたいが、やる気がしない。ベッドの上で、黒子の事を考えていた。
この間誘った時は、普通の、内気で照れ屋な女の子に見えた。教室から逃げていく姿は愛らしいとさえ思った。
だが、今日のアレは……思い返すと、肩周りに冷たいものが這い回る感じがする。
実害があったわけではない。いや、多少体調は悪いのだが、それでも、緊張と疲れだけかもと思える程度のものだ。
それでもあの光景を思い出すと、羽虫の群れを覗き込んだような、嫌な気分になる。
虫……。
明美の頭の中に、ふと思いつきがよぎる。
そうか。アレは虫の群れだったのかもしれない。
明美は体を起こすと、思考を巡らす。
そうか……夏の茂みでライトをつけていれば、虫くらい寄ってくるさ。
なんだか急に気が楽になった。
謎が解けた気がして、そうかそうかと一人で納得する。
恐ろしさと寒気を感じたのは、ちょっと夏風邪でもひきかけているのだろう。そうだとも、論理的に考えれば大概のことは「気の迷い」だ。
明美はそう思いこむと、だったら、さっき撮った動画を見てみよう、と思い立った。
虫だとすると「閲覧注意」をつける事になってしまうが、そういう動画の方が再生回数が伸びたりするものだ。
明美はさっきまでの気分はどこへやら、少しだけワクワクしながらスマホを操作する。
――黒子に許可取らないとダメかなぁ……いや……顔見えないし……上げちゃってもいいかも……。
そんな事を考えながら、画像フォルダのサムネイルをタップする。
途端に、部屋中に大音量の金属音が響き、明美は思わずひっ!と言いながら耳を塞いだ。スマホが彼女の手から落ちる。
――まずい!家族にバレる……!
咄嗟にそう思った。でも次の瞬間、
――え?……違う……なに……これ……?
と背筋が凍った。
耳を塞いでいるのに、音の大きさが変わらない。
試しに何度か耳を閉じたり開けたりしたが、音が変わらない。不快な金属の響きが、明美の手とは関係なしに耳の奥で鳴り響き続けて、明美は吐き気を催す。
――音が……頭の中で……鳴ってる……。
訳がわからなかった。頭の中から何かが狂ったように、溢れ出すように、音が鳴り続ける。
――やばい……早く……早く、止めなきゃ……
目の前がグラグラと揺れ始めて、明美は状況の深刻さを感じた。部屋の明かりが明滅でもしているかのように、視野がチカチカと色を変える。
手探りでスマホを拾い上げると、画像を覗き込んで何とか動画を止めようとする。
歪んだ視覚の向こうに動画の停止ボタンを探す。
そして……画面の中の何かと、目があった。
明美は息を呑むと、固まった。
体が勝手に震え出す。
気味が悪かった。
動画には黒子どころか、風景すら映っていなかった。
真っ黒な背景の真ん中に、目……の様な何かが、明美を真っ直ぐ見ていた。感情のない、見開かれた、目。
――やだ……やめて……やめて……見ないで……
そう思っても、明美は動くことができなかった。
一瞬、目が瞬きをした様に見えた瞬間、スマホから、あの時に見た様な黒い何かが、明美の方にスルスルと伸びてくる。
それを見た瞬間、明美は、
「――うわぁぁぁぁっ!」
と叫び声をあげて、スマホを投げ捨てた。
スマホが床にガンッ!と落ちた瞬間、音が消えた。
部屋の中は静まり返り、明美の荒い息だけが響く。
明美は引き攣った顔で、怯えた目を床のスマホに向けていた。
――何……今の?……なに……なんなの……?
自分が、訳のわからない状況に巻き込まれているのだと自覚した瞬間、あっ……と何かに気がつき、明美はベッドから慌てて転がり降りると、スマホを拾う。
「……動画……動画を消さなきゃ……!」
スマホを操作して、先ほど開こうとしていた動画を一心不乱に削除する。
「削除しますか?」を「はい」と推し終えると、やっと止めていた呼吸を吐き出し、明美は深いため息をついた。
――何だよこれ……何がなんだか……。
スマホをベッドに投げると、明美は顔を覆った。
疲れがどっと押し寄せてくる。
自分に何が起きているのか、開目、検討がつかなかった。
……とりあえず、黒子には何か秘密があり、しかもそれは、おいそれと近づいていいものではない事だけは、嫌というほど実感できた。
誰かに相談したいが、証拠の動画もたった今消してしまったし、見せた所で「フェイク動画でしょ?」の一言で、信じてもらえるとは思えなかった。
――……とにかく、黒子から距離を置こう。
明美はそう心に決めて、今日はもう寝てしまうことにした。考えても答えが出ないなら、それが賢明だろう。
いつもなら眠気が襲ってくるまでスマホを眺め続けるのだが、今日は触る気すら起きなかった。電気を消して毛布を頭まで被る。
眠ってしまうと、またあの奇怪な物が見えてしまう様な気がして、その夜は、いつまでも寝付くことができなかった。
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