第3話過去からは、逃げない。行こう、君を壊した場所へ。俺が隣にいる。
。
第四話『夜明けの約束』
クリスマスイブの夜、七年付き合った恋人へのプロポーズに失敗した俺、佐藤健一は、絶望のまま車を走らせ、峠の展望台にいた。眼下に広がる夜景は、幸せな誰かの日常を映すようで、ひどく他人事だった。
「……最悪のクリスマスですね」
不意にかけられた声に振り向くと、同じように夜景を眺める一人の女がいた。彼女もまた、恋人と喧嘩別れした直後だという。揃いも揃って失恋なんて、とお互いに乾いた笑いを交わした。行く当てがないという彼女を、同じ痛みを分かち合ったいわば「戦友」として、放っておくことはできなかった。
「……美咲。冬に咲く、と書いて美咲です」
「俺は健一だ」
名乗り合い、俺は彼女を狭いアパートに乗せて帰った。
翌朝、ソファで目覚めた俺は、ベッドの方から聞こえる微かな嗚咽に気づいた。美咲が、シーツを強く握りしめ、声を殺して泣いている。
「どうした?」
俺の声に、彼女はビクリと体を震わせた。「なんでもないです。ごめんなさい、すぐ出ていきます」と、まるで怯えるように俺から距離を取ろうとする。
「昨日の夜、あんたがいてくれて助かったのは俺の方だ。今度は俺があんたの話を聞く番だろ」
俺が真摯にそう告げると、彼女の心の堰が切れた。
「わたし……両親から、ずっと暴力をふるわれていました」
ぽつり、ぽつりと語られる言葉は、俺の想像を絶するものだった。
「そんな時、優しくしてくれたのが彼だったんです。でも……結局、彼も同じだった。昨日も、些細なことから彼が豹変して……怖くなって、車から飛び出して逃げてきたんです」
俺の失恋なんて、幸福な悩みだった。彼女が抱える痛みは、次元が違った。彼女の失恋は、命がけの逃避行だったのだ。
俺の優しさに触れたことで、彼女は過去のトラウマを呼び覚ましてしまったのかもしれない。美咲は、怯えた子供のような目で俺の服の裾を掴んだ。
「ね?わたしのこと……殴ったり蹴ったり、しない?ねえ、教えて!約束、できる?」
その魂からの叫びに、俺は胸を抉られるような衝撃を受けた。一瞬言葉を失ったが、彼女の目線に合わせるようにゆっくりと膝を折り、その瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……ああ。約束する」
一言一言に、自分の全存在を賭けるように、俺は続けた。
「俺は、絶対に、お前を傷つけない。もし、万が一にも俺がお前に恐怖を感じさせることがあったら、その時は、お前は全力で俺から逃げろ。……俺は、お前がもう二度と、誰かから逃げなきゃいけない人生を送ってほしくないんだ」
その言葉は、呪いを解く魔法になったらしい。美咲の瞳から、溜めていた涙が一気に溢れ出し、彼女はその場に泣き崩れた。それは、生まれて初めて「安全」を与えられた者の、魂の安堵の涙だった。
俺は、泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめた。この涙が、過去を洗い流すものであることを祈りながら。
しばらくして、涙が少し収まった彼女の顔を覗き込む。まだその瞳には、怯えと不安の色が濃く残っていた。このままではダメだ。ただ隠れてやり過ごすだけでは、彼女は本当の意味で解放されない。
俺は、震える彼女の両肩を掴んだ。逃がさないように、しかし、この上なく優しい力で。
「美咲。……今から、お前の両親に会いに行こう」
俺の言葉に、美咲は息を呑み、恐怖に目を見開く。俺は決意に満ちた、揺るぎない表情で続けた。
「一人じゃない。俺が隣にいる。もうお前は、一人であいつらの前に立つ必要はないんだ」
窓から差し込む朝の光が、覚悟を決めた俺の横顔と、驚愕と、そしてほんのかすかな希望に揺れる美咲の瞳を照らし出していた。俺の人生のヘッドライトが、自分のためだけではない、誰かの過去という名の暗闇をも照らし出そうとしていた。
第五話 予告
「一人じゃない。俺が隣にいる」
その覚悟を胸に、健一は美咲を乗せて、彼女が逃げ出したはずの場所へと車を走らせる。
カーナビが示す目的地は、どこにでもある平凡な一軒家。
しかし、そのドアの向こうには、美咲の魂を蝕み続けた「闇」が潜んでいる。
固く閉ざされた玄関。
インターホンを押す健一の指が、わずかに震える。
『……どちら様ですか』
スピーカーから聞こえてきたのは、意外なほど穏やかな声だった。
安堵する美咲。だが、健一は気づいていた。
その声の奥に潜む、冷たい歪みに。
ドアが開き、二人の前に現れた両親。
その顔は、まるで人の良い隣人のように、柔和な笑みを浮かべていた。
「まあ、美咲。帰ってきたのかい。心配したんだよ」
完璧に演じられた「優しい親」の姿。
しかし、その家の壁に、床に、そして家具の配置に、健一だけが見逃さなかった**“違和感”**。
それは、長年にわたる壮絶な支配と暴力が染みついた、声なき痕跡。
そして、美咲が両親と対峙したその瞬間。
健一の目の前で、信じがたい**“光景”**が繰り広げられる。
それは、物理的な暴力よりも、遥かに陰湿で、心を砕くものだった。
笑顔の仮面の下で、完璧に計算され尽くした言葉の刃。
美咲の心を、尊厳を、存在そのものを、ゆっくりと削り取っていく——。
健一が見た、壮絶な光景とは。
彼の「約束」は、この底知れぬ悪意の前で、果たして無力なのか。
次回、「ヘッドライト改変」第五話『笑顔の牢獄』
ヘッドライトの光は、この家族という名の暗闇を、本当に照らし出すことができるのか。
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