第2話「……無理な話だろ。過去には戻れない」



小説「ヘッドライト改変」

第三話:他人事の夜景


「もし、やり直せるとしたら。あなたは、どうしますか?」


彼女の問いは、静寂な車内に重く響いた。その真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺は言葉に詰まる。やり直す?できるものなら、いくらでもやり直したい。今日の午後、いや、昨日の夜にでも戻って、春菜との関係がこじれる原因になった些細なすれ違いから、全てを修正したい。


「……無理な話だろ。過去には戻れない」

「そう、ですよね」


彼女はあっさりとそう言うと、再び眼下の夜景に視線を戻した。その横顔は、何かを諦めたように静かで、そしてひどく綺麗だった。


「ごめんなさい。変なこと聞きました。私も、同じことを考えていたから」

「あんたも……彼氏と?」

「ええ。喧嘩の原因は、本当に些細なこと。でも、お互いに意地を張って、引けなくなって……。彼が『もういい』って言った時、わたし、これで終わりなんだなって、どこか冷静に思ってしまった」


彼女の独白は、まるで俺自身の心の声を聴いているようだった。そうだ。春菜に「好きな人ができた」と告げられた時、俺は驚きや悲しみと同時に、奇妙な納得感を覚えていた。「ああ、やっぱりか」と。七年という月日は、愛を育むと同時に、見えない綻びを無数に作っていたのかもしれない。


「俺も、振られたんだ。ついさっき。プロポーズする、その瞬間に」

気づけば、俺は誰にも言うつもりのなかった胸の内を、出会ったばかりのこの女に吐露していた。ベルベットのケースを取り出し、彼女に見せる。

「七年付き合った。こいつは、その七年分の、俺なりの答えだったんだがな。見事に砕け散った」


彼女は指輪のケースに一瞥をくれただけで、可哀想だとも、大変だったねとも言わなかった。ただ、静かに頷いた。

「……私たち、本当にお似合いですね。クリスマスイบの夜に、揃いも揃って失恋なんて」

「ああ。最悪のクリスマスイブだ」


俺たちはどちらからともなく笑った。それは乾いた、虚しい笑い声だったが、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。

誰かに話すだけで、こんなにも救われるものなのか。


「そろそろ、行くか。あんたの名前、聞いてなかったな」

「……美咲。冬に咲く、と書いて美咲です」

「俺は健一。佐藤健一だ」


名乗り合ったことで、俺たちの間にあった見えない壁が、また一つ取り払われた気がした。


車は再び、暗い峠道を下り始める。

麓の町が見えてきた頃、美咲がぽつりと言った。

「あの、健一さん」

「なんだ?」

「もし、迷惑でなければ……今夜、どこか泊めてもらえませんか」


その言葉に、俺は思わずブレーキを踏みそうになった。

「彼と住んでいた部屋には、もう帰りたくなくて。かといって、こんな時間に実家に帰るわけにもいかないし、お金もあまり持っていなくて……」

言い淀む彼女の横顔は、先ほどの強気な態度が嘘のようにか弱く見えた。


正直、迷った。赤の他人、それも今日出会ったばかりの女を家に泊めるなんて、正気の沙汰じゃない。だが、この凍える夜に、彼女を一人で放り出すことなんてできるだろうか。同じ痛みを分かち合った、いわば「戦友」のような彼女を。


「……いいぜ。俺の家、狭いし汚いけど。それでもよければ」

「……! ありがとうございます」


美咲の声が、安堵に震えていた。


俺の住む安アパートに到着したのは、日付が変わる直前だった。コンビニで買った最低限の着替えと歯ブラシを美咲に渡し、俺は万年床になっているソファで寝ることにした。


「じゃあ、おやすみ」

「はい。おやすみなさい、健一さん。……本当に、ありがとうございました」


寝室のドアが閉まる。

一人になった部屋で、俺は天井を見上げた。

いったい、今日は何なんだ。人生最高の日にするはずが、最低最悪の一日になった。そして、見ず知らずの女を家に泊めている。


それでも。

不思議と、レストランで一人取り残された時のような、絶望的な孤独感はなかった。

この部屋には、自分以外にもう一人、同じ夜に傷ついた人間がいる。その事実だけが、冷え切った俺の心を、ヘッドライトの光のように、ぼんやりと、だが確かに照らしている気がした。


人生の「改変」なんて大それたものじゃない。

でも、真っ暗だと思っていた道の先に、思いがけない分岐点が現れた。今はただ、それだけを信じてみようと思った。


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