「黒い白鳥の子」の行方
1:東の国の植物
たった一人で事務所にいると、まるで図書館にいるような気分になる。
始業時間の十分前、自分の席に座っているエルトゥスは「静かだなあ」とぼんやり思った。
いつもなら隣にいるはずのノアは、郵便局に用事があって席を外している。
マリーとサラはまだ出勤していないから、事務所にいるのはエルトゥスだけだ。
(元々静かな会社なんだけどな)
休憩時間以外、イストリア社の事務所はいつも静かだ。
だから普段とほとんど変わらないはずなのに、自分しかいないのだと思うだけで何となく落ち着かない気分になる。
(ノア、早く帰ってこないかな)
そう思っていると、従業員用のドアが開いた。
それから間もなく、明るい声が飛び込んでくる。
「おはようございます」
事務所に入ってきたのは、マリー・フロックハートだった。少しくすんだ色の赤毛は、今日も緩く編み込まれている。
(マリーさんが来てくれてよかった)
エルトゥスはマリーに朝の挨拶をしようとした。
けれど、挨拶は「お」の時点で終わってしまった。
いつも通り出社したマリーが、何故か、鉢植えを持っていたから。
鉢植えと言っても、玄関に飾るようなサイズではない。両手に収まるくらいの大きさで、背の高さは、植物と鉢を含めても二十センチくらい。
植物は、葉っぱがたくさん生えた細い木をそのままミニチュアにしたような雰囲気で、葉っぱのフチと中央が明るい黄緑色になっているのが印象的だ。
(途中で買ったのかな?)
イストリア社の出社時間は他の会社よりも少し遅いから、花屋に寄ってから会社に来たのかもしれない。
「おはよう、マリーさん。可愛い鉢植えだね」
「ありがとうございます」
微笑んだマリーは、エルトゥスに近寄って――。
「あの、よかったらこの鉢植え、貰っていただけませんか?」
と、言った。
「えっ?」
エルトゥスは目を丸くしてマリーを見る。
(今日は誕生日じゃないから、プレゼントじゃないだろうし……)
ただ、それでは寂しいということで、ノアに発見された日を暫定的な誕生日として扱っている。
「あ、ごめんなさい。突然でしたよね」
不思議そうにしているエルトゥスに、マリーが詳細を説明する。
「
「ああ、そういうことだったんだ」
エルトゥスは頷いた。
(めずらしい花かあ……。どんな花なんだろう)
今は葉っぱしかないこの植物は、一体どんな花を咲かせるのだろう。
「これ、育てやすい花なのかな?」
興味を抱いたエルトゥスが尋ねる。
「僕、花どころか植物さえ育てたことがないんだけど……」
「日の当たる場所に置いて定期的に水やりをすれば、あんまり枯れないらしいですよ。……実は、私も花を育てたことがなくて。だけど、初心者でも育てやすいって聞いたので貰ったんです。私の友達も、知り合いに分けてもらってから花を育て始めたんですって」
「そっか。だったら僕も育ててみたいな」
この植物の花を見てみたい。
しかし、引き取る前に
少しだけ待ってほしいと説明したエルトゥスは、郵便局から戻ってきたノアのダッフルコートが見えるなり声をかけた。
「ねえノア、この鉢植えを貰ってもいい?」
「え? 何、急に」
「マリーさんが鉢植えの引き取り手を探してるんだよ。育てやすくて花が咲くんだって」
「ふーん」
鉢植えをちらっと見たノアは、興味なさげに相槌を打つ。
「ま、エルがそうしたいなら別にいいよ。その代わり、ちゃんと面倒見てよね」
「やったあ! ありがとう、ノア」
エルトゥスは弾んだ声で礼を言い、改めてマリーに話しかける。
「マリーさん、これ、貰ってもいいかな?」
「もちろんです。……ありがとうございます」
そう言って、マリーはエルトゥスに鉢植えを渡した。
マリーがエルトゥス以上に嬉しそうな顔をしているのは、無事に引き取り手が見つかったからだろう。
「おはようございます」
「あ、サラさん。おはようございます」
ちょうどそのとき、サラが事務所に現れた。
三人に挨拶を返したサラは、マリーに向かって「アサラさんに?」と尋ねる。
「はい。貰ってくれるそうです」
「そうですか。――よかったですね」
「はいっ」
明るい笑みを浮かべたマリーを見て、サラも微笑む。互いに敬語を使っているものの、サラはマリーに親しみを持っているようだ。
(よかった)
会社は仕事をする場だから、同僚と無理に仲良くする必要はないが、仲が良いならそれに越したことはない。
内心嬉しく思ったエルトゥスは、鉢植えをデスクに飾った。
一方、その様子を見ていたノアはマリーに話しかける。
「ねえマリー。この植物はなんて名前なの?」
「ハクチョウゲっていうらしいです」
「ハクチョウゲ?」
ノアは首を傾げた。
「変わった名前だね。この辺りの国っぽくない気がする」
「流石ノアさん、当たりです。この花はハイドランジアと同じで、東の国から持ち込まれた花らしいですよ」
ハイドランジアというのは、この大陸から見て東方向にある小さな国の植物を品種改良したものだ。植えた土によって、花びら――と言っても実際は花びらではなく「ガク」という花びらの外側にあたる部分らしい――の色が赤紫や青紫に変わるため、人気がある。
最近では、品種改良されたハイドランジアが東の国に輸出され、同じく人気が出ているらしい。
「その国だと、ハクは『
「へー」
(そうなんだ)
やり取りを聞いていたエルトゥスは、改めてハクチョウゲを見る。
(この子、東の国から来たんだ)
「東の国の植物」だと知っただけで神秘的な感じがするのは、東大陸諸国や、その周辺国のことをよく知らないからだろう。
エルトゥスが知っているのは「東の国々では魔法使いがいない代わりに別の能力を持った人々が存在する」ということくらいだ。
彼らは〝センニン〟や〝オンミョウジ〟と呼ばれているそうで、
ちなみに、現代では〝霊能者〟という、悪魔祓いに似た能力を持つ人々が最も多く存在しているらしい。
エルトゥスから見た東の国々は、謎だらけだと感じる。
とはいえ、東の国々に住む人からすれば、魔法使いや
そんなことを考えているうちに始業時間になっていた。
今日は予定が入っていないから、執務室で一日練習をすることになる。
エルトゥスは立ち上がり、執務室に向かった。
執務室は、来客用出入り口から見て正面奥側にある、
室内には、大きすぎる書斎机と、分厚いクッション付きの椅子、そしてテレビとラジオがぽつんと置かれているだけで、仕事向きの部屋には見えない。
「さーて……」
今日も頑張ろう。
伸びをしたエルトゥスは椅子に座るとラジオの電源を入れ、周波数ダイヤルを適当に回した。
そして、音が聞こえた時点で手を止める。
《――のニュースをお知らせいたします》
スピーカーから流れる声は、男性のものだった。歳は四十代半ばくらいだろうか。少し低いが、聞き取りやすい声だ。
《寒波の影響でトラビカ行きの列車が一時運転を見合わせるなど影響が出ましたが、現在では解消されています――》
彼の声にしばらく耳を傾けていたエルトゥスは、やがて口を開いた。
『――寒波の影響でトラビカ行きの列車が一時運転を見合わせるなど影響が出ましたが、現在では解消されています』
少し遅れて発せられる声は、スピーカーから流れるラジオパーソナリティーの声に限りなく近い。
この執務室は、エルトゥスが誰にも邪魔されず声の再現を行うための部屋だ。依頼がない日はラジオやテレビから流れてくる声や口調を模倣して喋り、依頼がある日は、依頼人から貰ったサンプルを基に再現作業を行っている。
以前スレイの声を練習していた際は、ルシアと話すところを想像しながらこの部屋でずっと喋っていた。
ちなみに、部屋が狭いのは、エルトゥス以外誰もこの部屋を使用せず、声のサンプルや資料以外のものを持ち込む必要がないからだ。
ノアたちには「狭すぎて長時間いると気が滅入りそう」だと言われている部屋だが、エルトゥスは「広すぎる部屋よりも落ち着く」と気に入っている。
《それでは、次のニュースです》
『――それでは、次のニュースです』
狭い部屋の中、限りなく一つに近い二つの声が響いては消える。
やがてニュースが終わり、自動車のコマーシャルが流れ始めた頃、突然ドアノッカーの音が響いた。この部屋は他の部屋より防音性が高いから、用事があるときはドアノッカーを鳴らして知らせることになっている。
(依頼が入ったのかな?)
そう思いドアを開けると、困ったような表情のマリーが立っていた。
「あの、エルさん。ちょっといいですか」
「どう――」
尋ねるより早く、開けたドアの隙間からマリーが部屋に入ってくる。
ドアが閉まる直前、来客用出入り口のすぐ傍に立っている子どもの姿がちらっと見えたが、詳しいことは何も分からなかった。
「マリーさん、どうしたの? ……何かあった?」
「はい……」
厚みのあるドアの前、マリーは眉尻を下げて言う。
「ついさっき、依頼人が――依頼人って言っても
「そうだったんだ……」
この部屋にいたせいで、まったく気付かなかった。
「分かった。僕が対応するよ」
「すみません……」
「マリーさんが謝ることは何もないよ。僕たちの依頼人なんだから」
申し訳なさそうにしているマリーに微笑みかけ、エルトゥスは執務室のドアを開けた。
マリーの言う通り、立っている少年は十数歳くらいに見えた。ノアよりも短いショートヘアは艶やかな黒で、瞳も黒に近いブラウン。背丈は年相応で、やや厚手の白いパーカーと紺色のデニムを身に着けている。
エルトゥスは、眉を顰めているノアと感情の読めないサラに視線を送る。「僕が話してみる」という意味だ。
それから、その場で軽く頭を下げて、彼のもとへ向かう。
彼の前に立ったエルトゥスは、今度は丁寧に一礼し、少し身を屈めて声をかけた。
「こんにちは。依頼人の方ですね?」
「そうだけど、おまえ、誰?」
エルトゥスを見上げた彼が不機嫌そうな声で尋ねる。
「オレは、発話代行人とかいう
「これは失礼いたしました。――発話代行人のエルトゥス・アサラと申します」
「えっ。……おまえが?」
「はい」
「子どもだと思ってバカにするなよ」
彼はエルトゥスを睨みながら言う。
「
「よろしいのですか? 本当にがいこつなのですが……」
「いいから早く見せろ!」
そう言って、彼は声を荒らげる。適当にあしらわれているのだと考えているようだから、がいこつの姿を見せるまで引き下がることはないだろう。
(多感な年頃の子に苦手意識を植え付けたくないんだけど……)
そうは言っても、依頼人の希望であれば仕方ない。
一言断りを入れて、エルトゥスは本来の姿に戻った。
その途端、彼の口から「うわあ!」という声が漏れる。
「これで、証拠になるでしょうか?」
「わ、分かった。認める。おまえは
「ご理解いただけて幸いです」
再び一礼したエルトゥスが青年の姿に戻ると、彼はほっとしたような表情を見せた。
「じゃあ、おまえに依頼だ、
改めてエルトゥスに向き合った彼は、毅然とした口調で言った。
「オレの家に電話をかけてくれ。――『おまえの家の黒髪を誘拐した』って」
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