6:アストリーの正体
アストリーがイストリア社を再び訪れたのは、ルシアと面会した二日後。
しとしとと雨が降る、午前十時過ぎのことだった。
「それで、ルシアはどうでしたか」
エルトゥス、ノア、アストリーの三人がいる応接室の中、マリーが入れた紅茶を一口飲んだアストリーが真っ先に尋ねる。
彼は相変わらず面接官のようだったが、前回と比べると少しだけ表情が穏やかだ。
「彼女はスレイの声を気に入っていましたか? 私にとってはイメージ通りでしたが」
「『わたしがイメージしてたのとほとんど同じ声』と仰ってくださったので、気に入っていただけたかと存じます。それに『スレイさんって本当スレイさんって感じですね』とも仰っていました」
「そうですか。……上手くいったようですね」
「はい。ただ――」
「何か問題が?」
「スレイ様宛ての手紙をお預かりしています。あとで読んでほしいとのことでしたので、その場では開封せず、持ち帰らせていただきました」
アストリーは眉を顰めた。直接会ったのに何故手紙を渡されたのか分からなかったのだろう。
当時の状況を説明したエルトゥスはアストリーに封筒を手渡した。
アストリーは少し迷ってからロール紙を開き、タイプライターの文字を追う。
そして――。
「――はは!」
手紙を読み終えた彼は、突然笑い出した。アストリーらしくない、底抜けに明るい笑い声だった。
「何だ、そうか……ジェフには似ていないと思っていたんだけどな……」
「どうなさいました?」
「ああ……すみませんね」
一頻り笑ったアストリーは優しい笑みを浮かべ、エルトゥスに手紙を差し出した。
「どうぞ、お読みください」
「失礼いたします」
断りを入れたエルトゥスは隣に座っているノアとの距離を詰め、ルシアからの手紙を読み始める。
✦✦
親愛なるスレイ様
先程は――わたしにとっては現在進行形だけれど――わたしと会うために、はるばるネムまで来てくださって本当にありがとうございます。声しか分からなくても、スレイさんはわたしがイメージしていた通りの人でした。
けれど、わたしはこうも思ったのです。――今わたしと話している人は、わたしと文通していたスレイさんじゃないかもしれないって。
「突然タイプライターを取り出したと思ったら、訳の分からないことを言い始めた。カフェに来る途中で頭をぶつけたのか?」。そうお思いになりますか?
でも、わたしがそう考えたのには理由があるんです。なので、手紙を破るのは、これから書く説明を一読したあとにしていただければ幸いです(急いで書いているので、文章がおかしいかもしれないことを先に謝っておきます。ごめんなさい)。
ええと、説明に移る前に、わたしの「人の覚え方」についてお話させてください。脈来がないように感じるかもしれませんが、説明に関係することなので……。
スレイさんは、目の見えないわたしがどうやって相手のことを覚えているか分かりますか? ――そう、声です。でも、声だけで覚えているわけじゃありません。
初対面の人には
そして、ここからが「今わたしと話している人は、わたしと文通していたスレイさんじゃないかもしれない」と考えた理由についての説明です。
わたしが先生から聞いたスレイさんの
――Toma Narg Sley.
そして、スレイさんの
――Morgan Astley.
モーガン・アストリー――亡くなった両親の親友で、まだ小さかったわたしが「モーガンおじさん」と呼んで慕っていた人です。
わたしがこのことに気付いたのは、自分で手紙を書くようになって数か月が経ったときのことでした。
もちろん、ただの偶然かもしれないことは分かっています。
でも、モーガンおじさんはすごく優しい人で、しかも推理小説が好きな人だったから(推理作家のお父さんが書いた小説について楽しそうに話していた姿をぼんやり覚えています)何かの事情があって正体を明かせない代わりに、自分の
だから、スレイさんから「会ってもいい」という返事を貰えたとき、モーガンおじさんが自分の正体を明かすために会ってくれるのだと思いました。
だけど、実際に現れたのは、『スレイさんをそのまま形にしたような声と口調の人』で……。
記憶の中にあるモーガンおじさんの声とは、全然違っていました。
わたし、よっぽど「モーガン・アストリーという人を知りませんか?」と、尋ねようかと思いました。「その人の代理でここに来たんじゃありませんか?」とも。
でも、もしスレイさんがモーガンおじさんじゃなければ――モーガンおじさんと一切関係なければ、相当な失礼にあたります。
悩んだ末、わたしは、自らの疑問を手紙に託すことにしました。
もし、わたしの推理が――推理と呼ぶほどのものではないとしても――見当違いで、スレイさんとモーガンおじさんが全然関係なかったら、本当にごめんなさい。そのときは「恩知らずな子どもには二度と関わりたくない」と、この手紙を破り捨ててもらってかまいません。
でも、もしわたしの推理が正しかったなら、いつか、モーガンおじさんに会いたいです。手紙じゃ伝えきれないくらい話したいことがあるのはもちろん、大きくなったわたしを直接見てもらいたいので。
心優しいスレイさんと、モーガンおじさんに真心を込めて ルシア・ホイストン
✦✦
「――とっくの昔に、ばれてたんだ」
手紙を読み終えたノアが呟く。
「スレイなんて人間は存在しないって」
「そうみたいだね……」
「っていうか、スレイって名前、アストリーさんの名前を入れ替えて作ったんだね」
ノアが少し悔しそうな表情をしているのは、アストリーのフルネームを知っていたのに気付けなかったからだろう。ノアは案外負けずぎらいなのだ。
「ええ。その手紙に書いてある通り、推理小説が好きなものですから……。別の名前を使うなら、少し捻ったものにしたいと思いまして」
「でも、捻りが浅くてばれてた、と」
「ノア! 失礼だよ」
「いえ、その通りですから」
アストリーは苦笑を浮かべ、改めてエルトゥスたちに向き合った。
そして――太腿に両手を置いて、深々と頭を下げる。
「アサラさん、アングレカさん。これまでの無礼をお許しください」
別人のような振る舞いに、ノアが目を丸くする。
一方、アストリーは、これまで説明していなかったルシアとの関係を話し始めた。
ルシアの手紙に書いてあった通り、ルシアの両親――ジェフ・クレア夫妻とアストリーは、学生時代からの親友だったらしい。大学卒業後にアストリーが首都・トラビカに引っ越してからも、半年に一度はどちらかが会いにいっていたそうだ。
そして――ホイストン一家が事故に巻き込まれたときも、そうだった。
当時「注目の新人推理作家」として期待されていたジェフは、出版社との打ち合わせのためにトラビカに行くことになった。
ちょうどそのときアストリーの予定が空いていたから、久しぶりに会おうということになって……。
クレアやルシアと一緒にアストリーの家に行く途中、事故に巻き込まれてしまった。
三人が乗っていた馬車に、当時はめずらしかった自動車が突っ込んできたのだ。
偶然が重なって起きた、悲しい事故。
ただ、アストリーは「彼らが事故に巻き込まれたのは僕のせいだ」と自分を責めた。「あのとき僕が断っていれば、三人が事故に巻き込まれることはなかったのに」と。
アストリーにできる償いは、残されたルシアの力になることだけだった。
しかし、当時二十数歳だったアストリーに、盲目の幼い子どもを一人で育てるだけの余裕はない。
結局、アストリーは金銭面でルシアをサポートしようと決めて、ルシアをマクラウド孤児院に預けた。
本名を明かさなかったのは、間接的とはいえ、事故の原因を作ってしまった自分に感謝してほしくなかったから。
トマ・ナーグ・スレイという存在しない男をあんな性格にしたのは、ルシアが寄付について知ったとき、必要以上に慕われたくないと思ったからだそうだ。
そして――初めてイストリア社を訪れたとき、エルトゥスたちに失礼な態度を取ったのは、そのほうがスレイを演じやすいかもしれないと考えたからだという。
「じゃあ、エルに『がいこつは嫌い』って言ったのは、わざと?」
「いえ……失礼極まりない言い方をしたのは確かですが、がいこつが好きではないのは本当のことです。私は臆病で、物心ついた頃から〝ヒトならざる存在〟が苦手でしたので……」
アストリーは「本当に申し訳ありませんでした」と再び頭を下げ、その上で、話を続けた。
「ですが、アサラさんのおかげで、がいこつが怖くなくなりました」
「それならよかったです」
エルトゥスは微笑んだ。もともとアストリーの発言を気にしていたわけではないし、今回の依頼で苦手なものが一つ減ったのなら、純粋にいいことだと思う。
(……あ、そういえば)
「あの……一つ、窺ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
「アストリー様は何故、当社に依頼してくださったのでしょう? 姿を似せる必要はなかったのですから、私たちではなく劇団の方に依頼することもできたのではないかと思いまして」
「ああ、なるほど」
アストリーは頷いた。
「……実を言うと、最初はトラビカで劇団員を探そうかと思っていたのです。トラビカなら小さな劇団もいくつかありますし、四十代半ばくらいの声を出せる男なら誰でもよかったわけですから。ただ……その……」
「ねえ。答えるつもりがあるなら、はっきり言ってよ」
「申し訳ない。その、お恥ずかしい話なのですが……劇団員だとルシアちゃんに一目惚れしてしまうかもしれないと思ったので、こちらに依頼したのです」
そう言って、アストリーは下を向いた。かなり恥ずかしい思いをしているのか、頬だけではなく耳まで真っ赤になっている。
「何それ。ルシアさんを取られるのが嫌で、うちに依頼したってこと?」
「まあ、そういうことになりますね。――あ、いや、私がルシアちゃんに恋愛感情を抱いているわけではないのです」
慌てて付け加えたアストリーは、「ただ……」と言った。
「自分が紹介した誰かとルシアちゃんが結ばれるところを見たくなかったのです。――実は、彼女の母親であるクレアと私は幼馴染で、私が一方的に片想いしていたのですが……大学で友人になったジェフを紹介したら、二人とも一目惚れしてしまって。そういう過去があったものですから、ルシアちゃんに恋をするかもしれない劇団員ではなく、イストリア社に依頼しようと思ったのです。プロとして依頼人に接する発話代行サービスであれば、その心配はないだろうと」
「そうでしたか。当社を信頼してくださってありがとうございます」
エルトゥスは座ったまま頭を下げた。決して安くない依頼料で仕事をしている以上、依頼人に信頼されることほど嬉しいことはない。
喜ぶエルトゥスをちらっと見たノアは、アストリーに言った。
「ま、アストリーさんは覚悟を決めたほうがいいよ。もう全部ばれてるんだし、第一、今さら逃げたところで何も始まらないんだから」
「そう、ですね……。直接会って、彼女にすべてを打ち明けようと思います」
「それがいいよ」
満足そうに頷いたノアがアストリーをじっと見つめる。
まだ、言いたいことがあるようだ。
「あの……何か?」
「彼女に会って感じたことがあるんだけど。聞く?」
「ええ。ぜひ、お願いします」
「分かった」
ノアはもう一度頷いて、ふっと、微笑んだ。
「ルシアさん、誰かに一目惚れすることはないはずだよ。――心に決めた人が既にいるみたいだからさ」
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