第3話 日本対妖魔防衛協会のオフィス

 午後四時半ごろ、東京メトロ千代田線に乗った。目指すは大手町駅だ。服装は高校の制服のままである。学校が終わったあと直接メトロに乗ったこともあるし、大手町のような都会で大人っぽい街にふさわしい私服を持っていないこともあるし、何より、万が一帰宅して晃と遭遇してしまったら、と思うと怖かったからだ。


 晃は決して恐ろしい父親ではないが、祥子は、彼に無断でバイトをするという後ろめたさから、ここ数日彼をいつもよりちょっとだけ避けていた。そのぎこちなさを見抜かれていないことを祈る。


 西日暮里を超えたあたりで覚悟を決め、スマホのロックを解除した。LINEを立ち上げ、晃とのトーク画面を開く。


 嘘をつく罪悪感が、祥子の胸を苛む。けれど、晃にあれこれ詮索されたくない。


『今日は美咲さんとアリオに行くね

帰りちょっと遅くなるかも』


 アリオとは、亀有駅から徒歩で行ける範囲にある商業施設のことである。映画館と本屋が入っている、祥子の行きつけのショッピングモールだ。学校の帰りに寄ることもしばしばなので、不自然ではない。美咲は北千住に住んでおり、彼女にとっても千代田線から常磐線に接続する電車に乗れればそんなに不便ではないようである。


 間を置かずに既読がついた。この時間帯は自宅で静かに洗濯物を取り込んでいる頃なので、すぐに受信に気づいたのだろう。


『べつにいいけど

何時に帰ってくるの?』


 眉間のしわを深くする。


『映画が終わるのが八時半だから、九時過ぎるかも』


 真っ赤な嘘だ。八時まで対魔協のオフィスで働いて、その時間から大手町駅に行き、亀有駅まで電車に乗ることを考えたら、だいたいそれくらいの時間になる、という計算だ。


『美咲が一緒ならいいよ

二人で夕飯食べておいでよ

食事代はあとで精算するから立て替えて払ってもらって』


 胸がずきずきと痛む。美咲と一緒なのは本当だが、葛飾区のアリオではなく千代田区の対魔協のオフィスに行く。


 引き続き晃からメッセージが来た。


『お父さんも今日夕飯作るのサボる』


 それはいいのだが――


『せっかくだからパートに行こうかな

2~3時間外出るね

祥子が帰るまでに帰るよ』


 サムズアップの絵文字がついている。


 祥子は周囲に他の乗客がいるにもかかわらず「うっ」と呟いてしまった。つまり、これは下手をするとエンカするということではないのか。


 冷静に考える。自宅から亀有駅まで徒歩十分、亀有駅から大手町駅まで二十三分で、対魔協のオフィスへも大手町駅から徒歩十分程度かかるようだから、往復で一時間以上かかる。一時間かけて移動して、一時間だけ働く、ということがありえるのだろうか。対魔協の支所は都内にも何ヵ所かあると聞いたので、きっと家の近くで働くに違いない。


 最後に、いってらっしゃい、のスタンプだけ押して、ばくばくと心音が聞こえてきそうなほど脈打つ心臓を制服の上から押さえた。




 地上駅しかない亀有駅とは段違いに広くて複雑な大手町駅にて、とある出口で美咲と合流したあと、皇居近くのオフィスに連れていってもらった。思っていたほど高層ではないビルだった。コンクリート打ちっぱなしの四角いビルだ。美咲いわく、もう何十年もここにあるビルで、修繕と改築を繰り返して使っているらしい。しかも、対魔協は四階のワンフロアしか使っていない。


 四月も終盤になってくると、少しずつ日が伸びてくる。祥子がオフィスにたどりついた時、周辺はまだ明るかった。しかしオフィスの中はこうこうと電気がついていた。


 内部は外観とは違って綺麗だった。美咲が言ったとおり何度もリフォームされているらしく、明るい木目調の壁とリノリウムの床に清潔感があった。ただ、右手にガラス張りの会議室が三つと所長室というプレートがかかった扉、左手に大きなデスクが並んでいる様子を見ると、パワーアップした職員室、といった雰囲気である。


 デスクは数十ほどあるようだったが、座っているのはわずか三人だけだった。奥の誕生日席の壮年の男性、その手前でパソコンで何かを必死に入力している中年の女性、入り口近くで椅子の背もたれに背を預けて左右に揺れている若い男性だ。


 若い男性がすぐに祥子と美咲に気づいてこちらを向いた。椅子に座り直しながら「お疲れさんです」と笑顔を見せる。


「そのお嬢さんは?」

「藤牙祥子ちゃん。晃と糸織の娘」


 美咲はなんでもない口調で答えたが、その場にいた三人全員が祥子を二度見した。


「えっ。本物の祥子ちゃん?」

「そうよ」

「わあ、やっと会えた! 初めまして、俺ね――」


 男性が立ち上がって目の前に立ちはだかったが、美咲は彼を強引に押し退けて前に進んだ。祥子は困惑しながらも美咲の後をついていった。


 美咲が奥のほうのある席の椅子に座った。そして「ここに座りなさい」と言って、自分の隣の椅子を引いた。祥子は言われるがまま美咲の隣に座った。


 近くにいた、誕生日席のたぶん偉い壮年の男性が、目尻にしわを作って微笑む。


「やあ、祥子ちゃん、こんにちは。十三年か、十四年くらいぶりかな? 僕、糸織の上司だったんで、赤ちゃんの祥子ちゃんを抱っこさせてもらったことがあるんだよ」


 祥子からしたらまるっきり知らない人だ。縮こまってしまって、ろくに挨拶もできない。うつむいて、小声で「こんにちは」と言った。

 母の上司だったという男は、気にせずに話し続ける。


「大きくなったねえ。晃に何度も連れておいでって言ったんだけど、あいつ、なんでか渋ってねえ。いつでもここに遊びに来ていいんだよ」

「はあ……」

「なんか意外」


 パソコンのモニター越しにこちらを見ていた女性が、意地悪そうな笑顔を作る。


「藤牙家で一番の美少年だった晃と山秋やまあき家で一番の美少女だった糸織の掛け合わせなんだから、約束された顔面偏差値の絶世の美少女だと思ってたのに、地味ねえ」


 その言葉はそのままぐさりと祥子の胸に刺さった。

 美咲が「そういうのやめてください」と言いながらパソコンの電源を入れた。女性が「ごめんごめん」とさほど申し訳なくも思ってなさそうな軽い謝罪をする。


「せっかくだ、今夜はおじさんたちと飲みに行こうか」

「何言ってるんですか課長、祥子はまだ高校生です」

「そうだったな、わはは。じゃあ夕飯でも。近くにおいしい中華あるんだ」

「まあ、それは、じゃあ、いただきましょうか」


 祥子は、嫌だ、早く帰りたい、と思って、デスクの下でこっそり拳を握り締めた。


 美咲が手を伸ばした。祥子の目の前、ちょっと古そうなパソコンの電源を入れる。パソコンは学校のパソコン室のパソコン並みの重さでゆっくり立ち上がった。


「それ入力して」


 よく見ると、パソコンのモニターの横にIDとパスワードと思われる数字の羅列が書かれた黄色い付箋が貼られていた。このパソコンの使用者はメディアリテラシーに問題がある。


「わあ」


 立ち上がったデスクトップもめちゃくちゃだった。結構大きなサイズのモニターなのに、ワードとエクセルとpdfのアイコンがいくつも並んでいる。


「なにこれ。これで仕事できるの?」

「できてないから、祥子ちゃんにヘルプ頼んだの」

「この席の人、わたしが勝手に入力して怒らないの?」

「いいの。龍平りゅうへいだから」


 図ったかのように自動ドアが開く音がした。男性の低い声で「おはよーさんでーす」と言う言葉が聞こえてくる。聞き覚えがある声である。


 振り返ると、眠そうな目をした男が歩いてきていた。背の高い、垂れ目ぎみの目に太めの眉の色男だ。男性にしてはやや長めの髪をワックスで無造作っぽく見えるように整え、顎にだけ計算し尽くされて処理していると思われる薄いひげを生やし、筋肉質の厚い体にスーツとトレンチコートをまとっている。


 祥子は「わあ」と声を上げて尻を浮かした。


「龍平さん!」


 すっかり顔馴染みになった晃の友達だ。晃は、あんなの腐れ縁で仲良くないから、と否定するが、定期的に祥子と晃の家に出入りしているので、ある程度は信頼しているのだろう。祥子からしたらこの世で美咲の次に頼りになる大人で、わずかにあこがれの気持ちも持っていた。


 龍平は祥子の顔を見て驚いた表情をした。


「祥子じゃん。なに、こんなところで。ここ、学童になった?」

「ううん、美咲さんにデータ入力のバイトをおすすめされて」

「へえ、そりゃいいね。俺の勤怠全部入力しといて」


 美咲が「ほら見ろ」と言った。


 龍平が床にビジネスバッグを置き、トレンチコートをハンガーラックに収める。お気に入りの高価なブランドのコートで、秋から春にかけては彼のトレードマークである。


「四月なのに寒いな。まだコート着るわ」

「そうね、そうなさい。で、いつから入力してないの?」

「今年度、皆無」

「総務に半殺しにされるわよ」


 祥子は落ち着きなく、溜息をついた美咲と、静かに近づいてくる龍平を交互に見た。


「龍平さん、この時間から出勤なの?」

「ああ、フレックスでな。いや、俺、夜勤専門みたいなもんかもな。誰かさんが平日昼間六時間しか働かないから、残り十八時間と土日祝日は俺が働いてると思ってもらって」


 龍平は本当に勝手にパソコンをいじられても何も感じないらしい。当たり前のような顔をして祥子の隣に座り、頬杖をついて祥子を眺め始めた。


「ココア買ってやろうか? ここの自販機、職員タダだから。IDカードでピッと」

「やったー、ありがとう! 龍平さん、だいすき」


 いとも簡単に龍平にデレた祥子を見て、課長が「いいなあ、おじさんも祥子ちゃんだいすきって言われたいなあ」と嘆いたが、それを先ほど意地悪を言ってきた中年女性が「大丈夫、龍平も十分おじさんだから」と謎のフォローをした。


 ごくごく普通の、企業によく似た団体だ。祥子にはここが超常現象に対応している協会であるとは、まったく思えなかった。


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