第2話 美咲お姉さんと祥子ちゃん

 数日後、祥子はこの晃とBL本をめぐってプチ喧嘩になった件を美咲に聞いてもらうことにした。


 二人は今、夕方の北千住駅近くのコーヒーチェーン店で向かい合って座っている。美咲はホットのブレンドコーヒー、祥子はアイスのハニーカフェラテだ。店内が授業終わりの高校生や大学生でにぎわっているため、普段は声の小さな祥子は少しがんばってしゃべらなければならなかった。内容が内容であるだけに少し恥ずかしかったが、美咲以外の誰も聞いていないと信じる。


 美咲は今日も綺麗でかっこいい。ダークブラウンに染めた長い髪はつやつやに輝いていて、肩から下が緩やかに巻かれている。メイクは基本的にナチュラルだが、唇だけは少し濃い目の赤を塗っていた。白いコーヒーカップをつかむ手は白くて指が長く、爪は唇同様少し強めの赤いネイルをしている。Vネックのシンプルな黒いトップスも、少しタイトでコンサバティブなスカートも、何もかもが完璧な大人の女性だった。


 対する祥子は東京二十三区に生まれ育ったというのに垢抜けない高校生だ。買った時のそのままの制服を着、晃が美容院で買ってきた高いシャンプーとコンディショナーのほかには何も手入れしていない黒髪は重いロング、サイドと前髪を長めに作っているので顔が隠れている。読書好きが災いして近視が進んだため度の強い眼鏡をかけており、そのフレームは黒くて太い。ファッション雑誌から抜け出てきたような美女の美咲と並ぶと、子供っぽいことこの上ない。


 けれど、美咲はそんな祥子のことを笑わないでいてくれる。美咲はあくまでありのまま、思うとおりにしなさい、と言ってくれる。


 美咲はいつも祥子を肯定してくれる。母のような深い愛情で祥子を包み込んでくれる。


 なんなら、祥子は一時期、美咲こそ祥子の実の母親なのではないか、と疑っていたこともある。


 それを美咲にそっと質問してみたところ、美咲は苦笑して否定した。


 ――そんなこと、絶対に晃の前で言っちゃだめよ。晃は糸織しおりを今でも全身全霊で愛してるんだから。


 目の前の美咲が肩を震わせ、こらえきれなかったらしい笑い声を漏らした。


「ふふ、ふ」


 祥子は顔が真っ赤になるのを感じた。


「おもしろすぎる……。祥子がアダルトなコンテンツに触れて動揺する晃の姿を想像するだけで床に転がってげらげら笑いたくなるわ……」


 美咲がそんな下品な振る舞いをするところなど想像できないが、彼女が大昔から祥子の言動に一喜一憂する晃をおもしろがっているのは知っている。


「祥子だって十代なんだから、そういうのに興味を持つのは自然なことなのにねえ」

「なんかよくわかんないけど、そうやって受け入れられるのもちょっと恥ずかしいね……」

「私が中学や高校の時にもクラスメートにそういう趣味の子たちがいたわよ。少年漫画やゲームの男キャラ同士を組み合わせた恋愛漫画を描いてるオタク」


 商業BLを好む祥子は二次創作をするタイプの腐女子とはちょっと毛色が違うのだが、同じオタクであることは間違いない。以前美咲が今の職場で働き始めた頃の美咲や晃たちの集合写真を見せてくれたことがあるが、美咲は金髪のギャルだった。男子のオタクの妄想の中に存在するオタクに優しいギャル、というやつだったらしい。


「晃自身が若い頃にいろいろあったからあんまりいい顔できないのかもしれないわね。ほら、晃って、中学生の頃から絶世の美少年だったから。仕事の帰りに痴漢に遭って半殺しにして警察署に連れていかれた話とか、私たちの間では結構な伝説になったんだけど。可愛い顔して戦闘能力が高いので、簡単に骨を折ってしまう」

「手に取るようにわかる」

「いずれにしても、私も未成年の祥子がそういうのを見たり読んだりするのはあんまり肯定的になれないな。祥子がすることは何だって応援してきたつもりだけど……今時オタクにアングラに潜れと言うのは酷かもしれないけど、性描写はねえ」


 まったくの正論だ。


「じゃあ、性描写のないBLならいいの?」

「そうね。そういうジャンルがあるならそうしなさい」


 何も言い返せなくて、祥子は押し黙った。


「でもちょっといい機会かもしれないわ。祥子も高校生なんだもの、おこづかい稼ぎにバイトしてみたら? いつまでも晃に何もかも払わせるわけにはいかないでしょう」


 美咲の指先がテーブルの上に出しっぱなしだったスマホのロックを解除して、いくつかタップする。探し物はすぐに見つかったのか、おそらく一分も経っていないくらいでふたたびスマホをロックしたらしく、画面が暗くなった。


「東京都の最低賃金は今1163円。週三日学校の後三時間バイトしたら、一ヵ月で四万円を超えるわね。四万もあれば、好きな服、好きなコスメを買えるし、友達とのカラオケや食事もかなり行けるんじゃないの」


 どれも興味はなかったが、コンビニでプリペイドカードを買えれば電子書籍をダウンロードすることが可能になるかもしれないと思うと、捕らぬ狸の皮算用で嬉しくなる。


「今晃にいくら貰ってるの?」

「月五千円」

「高校生がそれでやっていけてる?」

「友達と遊ぶ時はお父さんに事前申告で別に食事代をもらってて……。真面目な小説は区の図書館とか学校の図書室で借りてるし、あとは動画さえ見れればって感じだから……」

「欲がないわねえ。私が高校生の時なんて、ガラケーの通信料だけで二万くらい使ったわよ」


 四万円もあればBL作家以外の作家にも課金できるのかな、と思うと、祥子の心はかなり揺れた。

 晃にも美咲にも止められた今、さすがにもうBL小説を買う気は失せていた。しかし、四月の現在、世間は本屋大賞シーズンである。本屋大賞にノミネートされる小説を図書館で借りるのは困難だ。予約がめちゃくちゃにいっぱいで、借りられるようになる頃には興味が薄れている。それをすぐ本屋で買えれば――と思うと、喉から手が出るほどバイト代が欲しくなってきた。


「バイトしたいけど、お父さん、いいって言うかなあ……。お父さん、わたしの金銭管理に結構うるさくて。学校の成績とか友達付き合いとかにはあれこれ言ってこないんだけど、友達と遊ぶのにいくら使ったか、交通費はどれくらい必要なのか、Suicaにどれくらい入ってるのか、チェックしたがるんだよねえ」

「晃の気持ちはわかる。晃、二十歳くらいの時、祥子がまだ小さくて働けなくて本当にお金に困ってたから。実家の藤牙ふじきば家ともほぼ絶縁状態で、協会にも頼りたくなかったらしくて」


 それは知っている。それなりに収入のある今でもけちけちしているのは、その頃の癖だろう。


 一人で祥子を育てたいという意地と職場からの援助を天秤にかけた時、プライドより親として子供を苦労させたくない気持ちが勝ったらしい。現在住んでいる亀有のマンションは勤め先である協会の所有物であり、世間一般的に言うところの社宅である。家賃は一円も払っていない。児童手当も、東京都からも勤め先の協会からも祥子が十八歳になるまでもらえるのだそうだ。


「祥子に苦労させたくないけど、自分はお坊ちゃま育ちで、金持ちの家の子から貧困シングルファザーに転落して金銭感覚がめちゃくちゃになったから、自信がないんでしょう。付き合ってあげて」

「うん……」


 ハニーカフェラテをすする。


「でも、わたし、ちゃんとバイトできるかなあ。知らない人が怖いから、接客業は嫌だなあ」

「高校生のバイトはコンビニか飲食が鉄板なんだけど、そうねえ、祥子がカスハラにあって泣いちゃうところをイメージすると、がんばりなさい、って言いにくいわねえ」


 そこまで言うと、美咲は「そうだ」と呟いた。


「祥子、エクセル使える?」


 祥子は睫毛をぱちぱちさせた。


「エクセルって、パソコンの? マイクロソフトの?」

「そうそう。事務作業に抵抗がないなら、うちでバイトしたら?」

「うちで、って?」


 美咲がにっこり笑った。


日本対妖魔防衛協会にほんたいようまぼうえいきょうかい、通称対魔協たいまきょう




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