第4話 パパの本当の能力

 結局仕事は七時に切り上げた。祥子を囲んで食事会をしたいという課長のたっての希望のためだ。七時とちょっとでオフィスを出て、近くの中華料理屋でおいしいエビチリと麻婆豆腐をいただき、八時ごろに大手町駅に送り届けられた。課長と女性二人は事務処理のために残業をするとのことで、オフィスに戻っていった。龍平と入職三年目だという若い青年はフレックスタイム制なので、これから深夜まで外で仕事をするのだという。


 改札を抜け、千代田線のホームにたどりつく。疲れた顔のスーツ姿の人たちがばらばらに立っている。こんなに大勢の人が、この時間まで働いて、電車に詰め込まれて、やがて吐き出されていくのか、と思うと、祥子は社会に出るのが怖くなる。祥子は亀有に住んでいるので三十分以内に帰れるが、きっと柏や取手まで行く人たちもいるだろう。


 制服のポケットに入れていたスマホを取り出す。特に誰からの連絡もない。ほっと息を吐く。


 晃には、八時半に映画が終わると嘘をついた。電車が八時半ごろ亀有駅につく予定なので、九時前後には自宅に帰れるだろう。夕飯も食べさせてもらった。何もかも順調だ。


 この時は、までの話だ。


 突然、あたりが暗くなった。照明の一部が消えたように思われた。駅の照明も家の蛍光灯みたいに切れることがあるのだろうか。周りに立っている人たちも天井を気にして上を向く。


 悲鳴が聞こえた。

 祥子も上を見て、叫びそうになった。


 天井に、巨大な肉塊がぶら下がっていた。


 紫色の足が生えた、緑色の大きな芋虫のように見えた。縦に長い楕円形の胴体をしている。縦の大きさは数メートル、一番太い部分も祥子の身長ほどありそうだ。腹からは左右に数本ずつ足が生えていた。その様子がムカデのように見えたが、一本一本の腕をよく見ると、紫に変色した人間の腕だった。


 先端に五つ目玉がついている。人間の目玉に似て瞳孔があり、白目の中でぐるぐる動いている。


『ごはん、ごはん、いっぱい』


 ボイスチェンジャーでいじったような声が聞こえてくる。


『みんな、おつかれ。みんな、ごはん。いっぱい、いっぱい、たべる』


 それの腕が、床に向かって伸びた。


 祥子は、妖魔だ、と思った。


 妖魔がいる。


 妖魔とは、対魔協で使われている造語で、人間の負の感情を食べて育つ超常的な存在のことである。超常的な存在、つまり霊や妖怪といったものの中でも、人間に害をなすために積極的に動く、害獣のようなもののことを指す。普段はそのほとんどが人間の目には見えないが、人間を捕食する時には姿を現すものもいる。


 祥子が妖魔を自分の目で見て感知するのは、物心がついてからはこれが初めてだった。小さい頃、糸織が生きていた時に遭遇したことはあったらしいが、まったく記憶にない。

 でも、これがそう、というのは、わかった。

 そして、これがとても危険なものであるということも、察した。


 妖魔の手が、祥子の近くにいた女性をつかんだ。


 まずい。食われてしまう。


 だが、祥子には何をどうすればいいのかわからなかった。ただ、怖かった。足がすくんだ。妖魔を退治している人々、通称退魔師の子供に生まれ、退魔師たちに育てられたのに、こういう時にどう動けばいいのかは知らず、ただただ恐怖で硬直していることしかできない。


 どうしよう。


 パニックになりかけた、その時だった。


 視界が一瞬闇に包まれた。


 一回目を閉じ、また開くと、千代田線のホームが半透明の膜に覆われたかのようにわずかに暗くなっていた。

 周囲に立っていた大勢の人々も消えていた。ホームにいる人間は、祥子だけだった。


 妖魔が、ぎぎ、と鳴いた。


 はっとして上を見ると、妖魔の手から先ほどの女性が消えていた。


 妖魔の眼球がぐりぐりと動いている。その様子は困惑しているように見えた。


『でた、こわい、でた、でた』


 妖魔の瞳孔がある一点に集中した。祥子もその視線の先をたどった。


 そこに立っていたのは、ひとりの青年だった。


『でた、タイマシだああ』


 彼は黒いタートルネックのトップスに同じく黒いボトムスを着ていた。白い肌が滑らかで美しい。さらりとした黒髪も、長い睫毛も、引き結ばれた唇も、何もかもが綺麗だった。


 祥子の心臓が止まりかけた。


 青年が両手を胸の前にかざした。両手とも軽く握る。そして、左右に広げていく。握った左手から青白い光が放たれ、右手と左手をつなぐ一本の太い線となる。その光線が、少しずつ自身の放った光を吸収していく。気がつくと、それは刃が青く輝く一本の日本刀に変わっていた。


「おい、祥子」


 彼はその日本刀を構えながら、言った。


「お前、お父さんにはアリオに行くって言ったよな」

「お父さん……!」

「しゃがんで身を低くしろ」


 青年――晃に言われるがまま、祥子はその場にしゃがみ込んだ。地震の避難訓練の時のように、両腕で頭をかばった。


 晃が、跳んだ。まったく助走をしていないのに、走り高跳びの選手のように、斜め上に飛び上がった。


 刀を振りかぶる。


 切っ先が天井で固まっていた妖魔の胴体を切り裂く。


 一瞬のことだった。


 妖魔の体から、紫色の液体が噴き出した。その液体が晃の黒い服を濡らす。けれど晃は顔色ひとつ変えずに着地した。


 晃のその一連の動きは妙に滑らかで、まるで映像作品として演出された動画を見ているかのようだった。


 妖魔が悲鳴を上げた。それから間を置かずして、弾け飛んで小さな肉片となった。祥子は「ひっ」と喉を詰まらせたような声を出した。肉片が降ってきた。そう思ったのだが、肉片は床につくと蒸気のように煙を上げて消えた。


 五つの目玉だけは消えなかったらしい。小さな手足が生えた、アニメ映画に出てきそうな目玉だけの小さな妖魔が、床を走り回っている。


『フジキバアキラだ! フジキバアキラだ!』

『こわいよ、こわいよー』

『こわい、フジキバアキラ、こわい』

『ケッカイからだして! ケッカイからだして!』

『フジキバアキラのケッカイ、やぶれないよー』


 そんな目玉ひとつひとつに、晃は刀を突き立てていった。目玉だけの妖魔が霧散する。


 最後の一体まで消え去った。


 晃がまっすぐ立ち、日本刀を振ると、その刀は消えた。素手に戻る。


 彼がこちらを振り向く。


 白い頬に、妖魔の紫の体液が飛び散っている様子が、艶めかしい。


「祥子」


 名前を呼ばれて、我に返った。


 目の前に立っているのは、退魔師の顔から父親の顔に戻った、よく見慣れた晃だった。


「お父さんに嘘ついたな」


 祥子はしばらく無言で晃の顔を見つめた。


 物心がついて初めて遭遇した妖魔が、怖かった。すぐ近くにいた人間を捕まえて食べようとしているところを見てしまった。もしかしたら祥子も食われていたかもしれない。


 それを、晃が妖魔を退治することで助けてくれたのだ。


 もう大丈夫、怖いことは何もない。


 そんな気持ちと同時に、罪の気持ちも湧き上がってきた。


 父に嘘をついてまで金が欲しかったのか。


 一時間千五百円、二時間働いて三千円を手に入れた。けれど、この三千円はここまで重い罪悪感を背負ってまで欲しかったものか。


 たった三千円のために、晃の知らないところで妖魔に食われて死ぬところだったのかもしれない。


「お父さんに何か言うことあるでしょ」


 涙があふれてきた。


「ごめんなさい……!」


 わっと泣き出した祥子を、晃はしばらく優しい目で見つめていた。






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